30:見慣れぬ表情
美容師の二月は、割合のんびりと進む。
「試験ってこんな遅いの?」
琥太郎の試験は順調なようで、今日はいくつ目かの入試を受けに行っている。
休みだからとソファーでだらけきっていた早雪は、三時頃からずっとそわそわと待っていた。今は夜の七時。電車の時間を考慮しても、高校生が受ける試験にしては遅すぎる。
「さー? もう終わってんじゃないの? 帰りは塾に寄って帰るって言ってたけど」
「それかー」
「迎え行ってあげたら?」
「そうしよっかな」
ソファーからのろのろと立ち上がる早雪に、シチューを煮込んでいた典子が「あっ」という。
「車ないからね」
「あー、そうだっけ。まあいっか。歩いて行こ」
車が不調だったため、一台は母の馴染みの自動車整備工場に預けている。もう一台は昭平が仕事に使っているため、現在西家の駐車場は空だった。
迎えとはなんなのか、と人に言われるかもしれないが――結局、今すぐに琥太郎を労いたい気持ちは抑えきれず、早雪はブーツを履いた。
「これが塾……」
人生において、塾というものと無縁に生きてきた早雪は、入り口で立ち往生していた。どこからどういう風に入っていいのかもわからない。
「失礼ですが、保護者の方でしょうか?」
しきたりなどあるのだろうかと、玄関前でウロウロしていたため不審者と思われたらしく、外にいた講師に声をかけられた。
「はい。西 琥太郎の――家族です」
姉です。とこれまでなら躊躇なく言っていただろうに、そんな言葉すら言えなくなってしまった自分は、とことん弱くなってしまっている。
「あー! 西の! なるほど。お世話になってます」
こういうものです。と名乗りつつ、目の前の男性は首からぶら下げていたカードを見せた。その拍子にふわりと煙草の香りがする。今まで吸っていたのだろう。
彼は随分と若く見えた。早雪とさほど年は離れていなさそうだ。
弧を描く口元は人懐っこそうなのに、眼鏡レンズの向こうの目はどこか油断ならない光りを湛えている。
「あ、もしかしていつも送ってくださる……? 琥太郎が大変お世話になってます」
こんなに若い先生だったのかと慌てて頭を下げれば、彼は口を大きく開けて笑った。
「いえいえ、こちらこそ。西が受かってくれたら、うちは近辺の塾にしばらくでかい顔できますから」
爽やかな顔でゲスいことを言う。琥太郎の通う早雪の母校は、確かに進学にさほど力を入れていない。更に琥太郎が受験しようとしている大学のレベルが高いため、琥太郎は塾にかなり期待されているようだった。
中へどうぞ、と促されるままに早雪も塾へ足を踏み入れた。今日は塾自体はしまっているのか、しんと静まっている。
薄暗い玄関で僅かに光るライト、廊下に置かれている教材、下駄箱に並べられた靴、ホワイトボードと水性マーカー。複数の人間が同じ目的をもって集まり、生活する気配を感じる。
早雪にとっては既に離れて久しい、学校の教室の匂いがした。
「ここに貼る紙、もう今からね、西用のは、用意してるんで」
塾に入った途端、壁一面に合格実績の紙がずらりと貼られている場所を講師が指さす。琥太郎の抱えているプレッシャーが可視化されているようで、早雪は「ひえっ」と息を飲んだ。
「西なら職員室にいますよ」
来客用のスリッパを差し出され、早雪は慌ててブーツを脱いだ。なんだか場違いなところに来てしまった気がする。
「いたいた。あそこです」
講師の視線を追うと、ガラス張りの職員室の中で、琥太郎は複数の大人に囲まれていた。日頃家では見ることのない大人びた表情をして、講師らと難しい話をしているようだった。
(……琥太君がもし同級生だったら、私はきっと、会話も出来んかったやろうな)
琥太郎の隣に、利発そうな女生徒もいた。
同じく難しい顔をして会話をしている彼女は、きっと早雪よりもよほど琥太郎と話の水準が合うだろう。
自分と交流がある男性陣と、琥太郎は全く違う。
ちょっとLINEを送り合って、嫌でなければ部屋にあがるような――そういう、始めるも終わるも易しい男女交際を、彼はきっとしない。
琥太郎と話す会話のレベルに、自分が合わせられるとは到底思えない。今は琥太郎が早雪に気を遣っているからこそ、会話が成り立っているだけに過ぎないことを、合格実績の札がまざまざと見せつける。
琥太郎は興味を持たない人間に、とことん興味がない。
主体性もなく、なんとなく周りと騒いで生きてきただけの早雪がクラスにいても、彼は興味など微塵も抱かなかっただろう。
「西ー。美人さんがお迎えに来たよー」
ガラスドアを開けた講師が声をかけると、一斉に周りの大人の視線が早雪に集中した。最後までプリントを見つめていた琥太郎は「また何を……」と小さく呟き、心底呆れきった顔を講師に向ける。
しかし早雪を目にした瞬間、琥太郎はぱぁっと顔を輝かせた。
「さゆちゃんっ!」
琥太郎がいつもの笑顔を早雪に向ける。
その笑顔を見た講師らの何人かは、ぎょっとして硬直した。人と机の隙間をすり抜け、あっという間に琥太郎は早雪の前にやって来る。
「どうしたの? なんかあった? もしかしてLINE入れてた? ごめん、俺見てなくって」
「ううん、してないよ。琥太君の試験終わったかなって思って、迎えに来ちゃった」
「まじで……?」
琥太郎はぽかんとして呟くと、すぐに真顔に表情を切り替えた。
「帰る。すぐ帰る。今すぐ帰る。待ってて、秒で用意するから」
ぎょっとした顔のままの講師らが、せっせと帰り支度をする琥太郎を直立不動で見つめる中、早雪を案内してきた講師だけは腹を抱えて笑い転げていた。かなりの笑い上戸らしいが、何故笑われているのか、早雪には塾を出る頃になってもわからなかった。
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