31:「俺、好きな人いるんだよね」
「ごめんね、車やないんよ」
「じゃあ歩いて帰れるね」
マフラーを首に巻いた琥太郎は、はにかんで横に並んだ。
琥太郎の手には、「試験お疲れ」と久世先生に最後に渡された缶コーヒーがある。コートのポケットから取り出した手袋に缶コーヒーを突っ込んだ琥太郎が、早雪に渡す。
「さゆちゃん持ってて」
(本当に、とんでもないスパダリに育ててしまった……)
カイロのように温かい缶コーヒーを両手で持つ早雪の隣を、嬉しそうに琥太郎が歩く。学生服を着用しているため、コートは学校指定のものだが、手袋は早雪が琥太郎のために選んだ物だ。濃い茶色の皮が琥太郎の大人びた雰囲気とあっている。去年の三月に贈った、琥太郎への誕生日プレゼント。
低い声で早雪に語りかける琥太郎は、気を抜いてしまえば腕を絡めたくなるほど、素敵だった。無意識にくっつかないよう、ものすごく注意してコーヒー缶を握りしめる。琥太郎につっつかずに済む、マストアイテムとも言えた。
二月の凍えるように冷えた夜の空気が、話す度に口の中に入り込む。けれど、話さないという選択肢は早雪に、そしてきっと琥太郎にもなかった。
「今日のとこが本命やったんやろ?」
「うん。だから先生達も離してくれなくって――あ、今日ね。ホテルで朝ご飯食べたんだけど」
「うんうん」
「あれはまずいね。テンション上がっちゃった」
「わかる~! ビュッフェだった?」
「うん」
「全部食べたい! ってお皿に並べちゃうよね」
「ね。つい取り過ぎちゃった」
「琥太君でもそんなミスを……? え、試験には影響出なかった……?」
「うん。感触も悪くなさそうだから、安心して」
「よかったー、って?! もう結果出るの?!」
「ううん。でもなんとなくの点数はわかるから」
「そっか……! よかったね。琥太君、いっぱい頑張ったもんね」
安心させてあげたい立場なのに、また安心させられている。
満面の笑みを浮かべた早雪を、琥太郎も「ありがとう」と目を細めて見つめる。寒さに、その鼻の頭は赤くなっていた。
じっと琥太郎の赤い鼻を見つめていると、琥太郎は居心地悪そうに視線を外して、口を開いた。
「――……ねえ。さゆちゃん」
琥太郎が白い吐息を吐き出す。
「うん?」
「俺、めちゃくちゃ頑張ったんだよ」
「うんうん」
今日ばかりは手放しで褒めてあげようとにこにこ頷く早雪に、琥太郎は無言で頭を差し出してくる。
(かっわいっ……!!)
百八十センチ越えの男が、無言で「褒めて」と頭を差し出している。あまりに可愛くて、早雪は我慢出来なかった。
「本当に、お疲れ様。大変よく頑張りました」
ご希望通り、わしゃわしゃと琥太郎の頭を撫で回した。カットの時以外で琥太郎の髪に触れるのは、本当に久しぶりだ。
(弟を褒めるのは、姉として普通だから……)
思う存分撫でる手は、出来る限り力を込めていた。少しでも力を抜けば、自分の指が勝手に悪さをしそうだったからだ。早雪はあまりにも自分を信用していない。
しばらく撫でていた早雪が手を離すと、琥太郎はおもむろに顔を上げた。その表情は満足げで、早雪もふふふと笑みが漏れる。
「さっき来てた子達も、みんな一緒の大学受けたの?」
「いや。俺と一緒のとこ受けたのは他に二人いるけど、どっちもさゆちゃんが来た時は教室の方にいたから」
「そっか……さっきいた、女の子は? どこ受けたの?」
顔見知りが少しでも一緒の大学にいた方がいいだろうと思って尋ねたつもりだったのに、本当に気になっていたのはこっちだったのだと、口に出して初めて、自分の浅ましい本心を知る。
「吉岡さん? どこだったかな。センター前から変わってなければ、ひーちゃんと同じとこじゃないかな?」
「吉岡さん……あの子が……」
「?」
聞いたことのある名前に俯く早雪に、琥太郎は首を傾げた。
以前、夜遅くまで一緒に勉強をして、帰りも一緒に送ってもらっていると言っていた女生徒だった。
(前は本当に、気にならなかったのに……)
今は二人でどんなことを話したのか、二人がどんな風に一緒に頑張って来たのか、そんなことが気になってしょうがない。
琥太郎と一緒に見た、彼女に勧められた映画は面白かった。他にも、彼女に勧められてやってみたことがあるのだろうか。四年も前に高校を卒業した自分なんかよりよほど、彼女との方が同じ話題で盛り上がれるに違いない。
「さゆちゃん、どうしたの?」
「えっと、あの子とその、いつも夜まで二人で頑張ってたんやな、と思って……?」
沈む早雪を心配した琥太郎を見ていられず、斜め上を見ながらしどろもどろに弁解すると、琥太郎はぽかんとした。
「……まさか、まだそんなこと言ってるの……?」
驚きと呆れの入り交じった声で琥太郎が呟く。ぽかんとした表情を厳しいものに変化させた琥太郎が「さゆちゃん」と名前を呼んだ。
「吉岡さんとはここずっと一緒に帰ってないし、たとえば俺と吉岡さんだけが居残る日があったとしても、絶対に何も起きないから。それに、いつも先生も一緒だったからね」
「は、はい」
気迫のこもった珍しい長文に、早雪は気圧されつつ頷いた。
そんな早雪に、琥太郎は不満げな表情だ。
足を進めつつ逡巡していた琥太郎は、何かを覚悟したように小さく頷くと早雪を見下ろし、何気ないトーンで言った。
「――受験も終わったし、この際だから言っておきたいんだけど」
「うん」
「俺、好きな人いるんだよね」
早雪は持っていた缶コーヒーを落とした。ガトンッ、と大きな音が鳴る。
驚愕する早雪の反応など予想していたとばかりに、冷静な琥太郎は缶コーヒーを拾うと、早雪に手渡した。
「知ってて欲しいんだ。俺、その人に本気だってこと」
琥太郎の心はもう離れているのではないかと、思ったこともあった。
だが、そんな疑問を吹き飛ばすほど強い眼差しが、彼の気持ちを如実に早雪に伝えている。
(どうしよう)
冬の寒さを感じないほど熱い瞳でじっと睨み付けられ、早雪の頬はぞくりと粟立った。
(どうしよう――……う、嬉しい……)
好きな人が、自分に好きだと伝えてくれている。
胸が沸き立ち、足が震える。思わず、しゃがみ込んでしまいそうだった。
(でも、頷けるはずない……)
早雪と琥太郎は、一人の男女として知り合う前に、姉と弟になるべく出会った。両親を裏切ることも、姉と恋愛なんていう破滅行為に琥太郎を引きずり込むことも、早雪には出来ない。
「……それは、その人が、琥太君を変えたから……信頼とか憧れを、恋だって、勘違いしてるんやないの?」
震える声で、けれど視線は逸らさずに早雪は反論した。
琥太郎の感情が恋だと認めるわけにはいかない。
琥太郎を好きになってしまった早雪にとっては残念なことだが、年上への憧れを恋愛感情と錯覚することは往々にしてあることだ。早雪の宇津木への思いも、勿論そうだった。
けれども琥太郎は首を縦には振らない。
「そうかもね。でもその時、俺を変えてくれたのはその人だけだったから」
「大人なら、誰だって――」
「確かに、優しくしてくれるかもね。でも、お父さんに『服買いに連れてこうか?』って言われても、別に興味ないって俺が思った。わざわざ変わろうなんて、微塵も思わなかった」
「……」
「その人の言葉だったから……どんな風に俺を変えてくれるのか気になって、変わった俺を見てその人がどんな顔をするのか見たかったから、俺は変わりたくなった」
「それはやっぱり、憧れなんやないの?」
早雪は声を震わせないよう必死に自制したが、気持ちの勢いは止められなかった。
「琥太君には凄い人に見えたんかもしれんけど、その人やって、なんでも出来るわけやないよ。こんなはずじゃなかったってきっとがっかりする。見せてない顔だってあるし、知らないこともいっぱいやし、面倒臭いとこもたくさんある」
「面倒臭い人だなんて、俺が一番よく知ってる」
苛立たしげに琥太郎が吐き捨てた。予想以上にショックを受けてしまった早雪は固まった。
琥太郎は一呼吸すると、まるで小さな子どもに言い含めるように努めて優しい声を出した。
「憧れが始まりだったら、何が駄目なの? そこから恋になっちゃ駄目? それって、かけがえのないものじゃないの? その人が俺のことをおまもりだって言ってくれたみたいに――俺もその人への思いを、特別なおまもりにしちゃ駄目なの?」
手の中の缶コーヒーが熱を伝えてくるように、琥太郎の言葉が早雪に染み入ってきて、じんじんと心が震えた。
早雪はもはや、言葉を発すことすら出来なかった。
小刻みに震える指先で手袋に包まれた缶コーヒーを握りしめ、琥太郎の気持ちを衝動として受け止めることしか出来ない。
「――大人だ子どもだっていっつも言うけど、そんなのこっちだってわかってる。わかってるんだよ」
苦々しく、琥太郎が感情的になって言葉を吐き出す。
「でもそんなの、変えられないし――変えたいとも思わない。だって、たとえばあの時会ったのが十五歳のさゆちゃんでも、十七歳のさゆちゃんでも、俺はきっと変わろうって思えなかった。あの時の、十九歳のさゆちゃんだったから、俺は好――」
「駄目――!」
早雪は琥太郎に飛びついた。
何も考えられないほど夢中に、ただただ琥太郎の言葉を止めようと、ぎゅうぎゅうに彼を抱き締める。
「い、言っちゃ駄目、言っちゃ駄目だから!」
決定的な言葉にしないでと、早雪は心から祈った。あまりにも必死過ぎて、涙が滲む。早雪の声が震えたことに気付いたのか、激情に支配されていた琥太郎が冷静になる。
「ま、待って待って。泣かないで。わかった言わない。言わない、言わないから」
琥太郎が、自身にしがみつく早雪の体を抱き締めた。
腰と背中に回された琥太郎の腕のせいで、早雪の踵は浮き、背は仰け反った。
「泣くのはやめて。俺のせいでまたさゆちゃんが泣くとか、絶対無理。ほんと無理」
日頃は飄々としているくせに、早雪のこととなると、琥太郎は途端にこんな声を出す。
以前――早雪の誕生日の夜に、彼の前で泣いてしまったのがよほど堪えたのだろう。その顔はひどく狼狽している。
心底参っているような、切実に慈しんでいるような――そんな琥太郎を、どうすれば愛さずにいられたんだろう。
呼吸を整えて顔を上げると、琥太郎は早雪をずっと覗き込んでいたらしく、ほっと息を吐いた。白い息が琥太郎の頬にかかって消える。
安心した琥太郎に、早雪もふっと息を吐いて笑った。
そんな早雪の頬を、目を細めた琥太郎が手袋をしていない指で包む。
「あー……可愛い……」
思わず漏れたような声だった。声に温度が灯るほど感情が滲んだその声に、早雪の顔が真っ赤に染まる。
――かぁあああぁっ
これまでも琥太郎からは、散々可愛いと言われていた。
言われ慣れているはずなのに――触れなくてもわかるほどに、早雪は今、顔が熱い。
目を見開いた琥太郎が、顔を真っ赤にした早雪を見つめる。
「……お前ら、何やってんの。こんな往来で」
突然の声に、琥太郎に抱き締められたままだった早雪はびくりと体を震わせた。
琥太郎の腕の中で、早雪が体を捻る。そこには、僅かな街灯の明かりだけでもわかるほど嫌そうな顔をした嘉一と、早雪と同じほど顔を真っ赤に染め上げた拓海がいた。
慌てて琥太郎の胸を突き飛ばすも、琥太郎はびくりともしなかった。それどころか、琥太郎は素早く自分のマフラーを解くと、何故か早雪の顔をミイラのようにぐるぐる巻きにした。
「なっ、琥太く――?」
「駄目駄目駄目駄目! タク、嘉一! 今、さゆちゃん見たら駄目だから!」
顔をマフラーで覆った早雪の前に琥太郎がおどり出た。そして早雪を自分の背に隠す。
「ああ?」
嘉一の不機嫌な声がする。
親のキスシーンに遭遇したような嘉一の表情を思い出し、早雪マフラーの巻かれた顔を両手で覆い「ううう」と悶絶する。
「タクッ、嘉一連れて帰って!」
琥太郎がなおも慌てた声で、友人に告げる。
「ん」
拓海は言葉少なく頷くと、嘉一の腕を引っ張って廣井家の方へ向かう。
早雪がこっそり琥太郎の背から覗くと、嘉一は「あんだよ! おいって! 歩けるっつの! タク!」と引きずられながらも叫び続けていた。
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