32:卒業式
「さゆちゃん俺ね、高校を卒業したよ」
リビングの明かりを付けた瞬間、琥太郎が口を開いた。
スイッチに手をやったままだった早雪は、出だしの声が掠れていた琥太郎を、ゆっくりと振り返る。
壁際に鞄を置き、ソファーに座る。琥太郎も着いてきて、いつもの定位置――早雪のすぐ下のラグに直接座った。
「十八歳にもなった」
琥太郎はまっすぐに早雪を見上げている。
「さゆちゃんにとってはまだ、子どもかもしれないけど――」
「待って」
この話の行く末を察し、早雪は額を片手で覆った。
「琥太君――」
「うん」
琥太郎が眉を下げ、悲しそうな笑みを浮かべて、早雪を見つめる。
「うん。待ったよ」
その痛々しい表情に、早雪は二の句が継げなかった。
いつもにこにこ笑って、早雪の言うことをなんでも肯定した弟はいない。
そこには、一人の、成人した男性がいた。
「卒業まで待った」
琥太郎の手が伸び、膝の上に置かれていた早雪の片手を両手で握る。早雪の手は凍えるように冷えていたが、琥太郎の指先も同じほどに冷たかった。お互い、温度を感じさせない触れ合いで、手を重ねる。
「次はいつまで待てばいい? お酒が飲めるようになるまで? 大学を卒業するまで? 就職するまで? ――その後は? さゆちゃんの勤続年数越すまで? それとも、さゆちゃんの年齢超えるまで?」
早雪のためらいを見透かしたかのように、あり得るはずもない前提までもを条件として突きつけてくる、最後の言葉は鋭かった。
鋭利な言葉は早雪と共に琥太郎まで傷つけたようで、彼まで苦しげな表情を浮かべる。
「俺が駄目なら、駄目でもいいよ。でも、せめて言わせて。――そんで、振って。俺が駄目なら、俺なんか眼中にないって、ちゃんと振って」
早雪の手を握る琥太郎の指に、ぎゅっと力がこもった。
「さゆちゃん」
聞き慣れた声が、聞き慣れない真剣さを伴って、早雪を呼ぶ。
「俺はね、ずっとさゆちゃんが――」
「い、言わないで……」
思わず、口にしていた。
命綱のように琥太郎の手を握りしめながら、それでも彼を拒絶する。
「お願い……言わないで……駄目……」
「……振っちゃえばいいんだよ。ちゃんと振ってくれたら、今度こそちゃんと弟になる。さゆちゃんが望むなら、この家も出る。あっちで就職して、出来る限り帰ってこないようにする」
「駄目……」
「――俺は出来るよ、さゆちゃん」
いつの間にか、膝に付くほど背を曲げていた早雪の顔を覗き込むように、琥太郎が体をよじる。
琥太郎の顔を見ることなんか出来るはずもなく、胸に抱いた琥太郎の手を、早雪はぎゅうぎゅうと自分に寄せる。
(――出来ないのは、私だ)
琥太郎の言葉を聞いていて、嫌だと思った。無理だとも、駄目だとも。
弟なんて無理だ。家を出るなんて嫌だ。振るなんて出来るはずがない。
(もし、一度でもはっきりと、琥太君に言葉にされてしまったら――)
あやふやにして、見て見ぬ振りをしていた物を突きつけられたら。
(私はもう、絶対につっぱれない)
それだけは、絶対にしてはいけないことだった。
大人として、姉として、琥太郎のことが好きな一人の女として――沢山の未来を掴める彼のためにも、そんなことを許してはいけない。
(琥太君は、わかってない)
血は繋がっていないとはいえ姉弟で恋愛なんか、出来るはずがないと。
歪な二人を世間がどう見るか。信頼してくれていた両親だって、裏切ることになる。
大事な家族が中傷の的になることだって十分にあり得る。
恋に恋をしている琥太郎は熱に浮かされて、何もわかっていない。
(――本当に?)
そんなことが、あるだろうか?
(こんな、頭のいい子が?)
早雪ですら思い浮かぶ可能性を、一度も思い浮かばなかったなんてこと、本当にあるだろうか?
(……逃げたい)
逃げて、目を逸らして、問題を先送りにして、やり過ごせばいい。
そうして、何度も琥太郎の気持ちを否定して、愛しい琥太郎を拒絶して、大事な琥太郎を傷つけて――
そこまでしてまで。
(守らんといけないものって、なに……?)
琥太郎の手が動く。早雪から離れようとしていることを察し、思わずぎゅっと手を握って引き留める。
そんな早雪を安心させるように、上に重ねていた手でそっと、琥太郎は早雪の手の甲を撫でた。そして下の手はそのままに、ゆっくりと上の手だけ琥太郎が動かす。
次に触れたのは早雪の頬だった。早雪よりも先に彼女の涙に気付いた琥太郎が、目尻に浮かんだ雫を親指で拭い取る。
「俺の気持ちがどうとか、俺の未来がどうとか……そういうのは全部、もういいから」
声があまりに痛ましくて、早雪は顔をあげた。
「お願いだから、さゆちゃんの気持ちを教えて」
琥太郎の表情は苦悩に満ちていた。
(覚悟、してるんだ……)
つい先日、「さゆちゃんが泣くとか、絶対無理」と言っていた琥太郎が、早雪が泣くことをわかった上で、告白にしているのだと知る。
「さゆちゃんがどう思ってるのか、俺が聞きたいのは四年前から――ずっと、それだけ」
真っ直ぐにそそがれる気持ちに抗えず、早雪はふるりと唇を震わせた。
「だって……弟なんだよ?」
震える声は、どう聞いても、拒絶の色を孕んではいなかった。
「さゆちゃんは前に、うちのお母さんは常識を優先させて幸せになっちゃ駄目なのか、って怒ってたのに、なんで自分だと駄目になるの?」
そんなことをいつ言ったかも、早雪は覚えていない。けれど琥太郎は、どんな言葉だって早雪の気持ちを取りこぼさず、きちんと覚えていてくれている。
「――俺だってね。毎年、年取ってるんだよ」
揺れる早雪の瞳を、琥太郎が覗き込んだ。
「もう中学生でも高校生でもない。……さゆちゃんにどれだけ迷惑かけてたのか、わかってもきた」
琥太郎の目に灯った熱が、どんどんと温度を上げていく。
「でもさ、俺は……ずっと本気だったんだよ。この四年、真剣じゃない日なんて、一日もなかった。だから、お願いだから、目、逸らさないで。振るなら、弟だからじゃなくて――ちゃんと、振って欲しい」
そこで一度言葉を句切ると、琥太郎は一度息を吸う。
止める時間なら、あった。
けれど早雪は止めなかった。
「――さゆちゃん、好き」
琥太郎が、いつもの表情で笑った。
だがその大きな体が微かに震えているのが、繋いだままの手から伝わる。
こんな琥太郎を見るのは、初めてだった。
いつも堂々として、なんてことないって顔をして、なんでもテキパキとこなしてしまうくせに――今だって、堂々とした笑みは浮かべているくせに。
今まで何度も自分のペースに巻き込んで、早雪を引っかき回し続けてきた琥太郎が、初めて見せた弱み。
(それが、振ってくれって……)
早雪は息を吸って、天井を見上げた。
(――私はどんだけ、この子に甘えてきたんやろう)
琥太郎の気持ちを偽物と言い切り、琥太郎に告白すらさせさせてやらず、弟なのだからと、琥太郎のためだからと彼を傷つけることから逃げていたのは、自分だった。
『この四年、真剣じゃなかった日なんて、一日もなかった』
(私は一瞬だって、真剣に向き合ったことがあった?)
傷つくことを――傷つけることを恐れて、逃げてばかりいた。
(本当に、それでいいん? そんな自分で、琥太君に胸を張れる?)
そんな自分を選んでしまえばきっと、琥太郎が憧れてくれた
(人生なんて、選んでいくことの繰り返し)
もう何年も前に、早雪が琥太郎に言った言葉だった。
ならば、傷ついても、そして傷つけても、早雪が選びたいものは決まっていた。
「スマホ」
早雪は天井を見上げたまま、ぽつりと言った。
「え?」
早雪の返答を待っていた琥太郎が、早雪の手を握ったまま早雪を見上げる。
「スマホ、取ってくる」
「……さゆちゃん?」
琥太郎に返事をする余裕もなく早雪は立ち上がった。あれほど必死に握っていた琥太郎の手を、早雪は簡単に解いた。
自分の鞄に向かい、震える手で鞄からスマホを取りだすと、早雪はソファーではなくその下の、琥太郎の隣に座った。
琥太郎の体が強張る。早雪は正座をし、スマホを両手で握った。
(この時間ならもう、法事は終わっている)
昭平が運転中な場合、助手席に座っている可能性が高い母へ、早雪は電話をかけた。
{――もしもし? どうかしたの?}
数コールの内に繋がった電話の向こうから、エンジン音が聞こえる。予想通り、車で移動している途中のようだ。
「お母さん」
母を呼ぶ声は、堪えきれずに震えしまった。
これまでずっと慈しんでくれた母を裏切るのかと思うと、胸の辺りがぎゅっと締め付けらた。今すぐに電話を切って、なかったことにしたくなる。
けれど、溢れた涙を手の甲で拭いながら、早雪はきっぱりと言った。
「昭ちゃんの耳に、電話当ててくれる?」
早雪の一挙一動を、琥太郎は固唾を呑んで見守っている。
{昭平さん、代わってって}
{お? さゆちゃん?}
{そう}
スピーカーの向こうから、両親の睦まじい声が聞こえる。
早雪は震え始めた足を、何度も何度も手のひらで摩って、落ち着かせようとした。
{もしもしさゆちゃん? どうしかした?}
「――お父さん」
初めて早雪が昭平をそう呼ぶと、電話の向こうで昭平が息を飲んだ。
早雪は、遠く離れた彼には見えていないことなど百もわかっていながら、リビングのラグに額がつくほど、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。私に琥太郎をください」
緊張した声は固い。
「絶対幸せにするから。何があっても、私が守るから」
次から次にこみ上げる涙が、頬を伝って鼻からカーペットに滴り落ちる。
「琥太郎を欲しがることを、どうか許してください」
最後の方は嗚咽が混じって、上手く言葉に出来なかった。喉が痛いほどに嗚咽が漏れる。そんな早雪の耳に、昭平の返事が届く。
{勿論}
宥めるように優しい声が、スマホから聞こえる。
{さゆちゃんがいるなら、琥太郎は絶対に幸せになるから。安心して、一緒になって}
「ふっ……うっ、ああ、あああっ……!」
そんな風に優しい声で、こんなに嬉しい言葉をもらえるだなんて思っていなかった早雪は、大きな声を出して泣き崩れた。驚かれ、見下され、家を出て行けと言われても仕方がないと思っていた。それが、琥太郎の好意を突き放せなくなった――好きになってしまった早雪に取れる、責任だと思っていたのに。
{大丈夫だって、さゆちゃん。そんな思い詰めてたんやね、頼りにならん父親でごめんね。帰ったら、また話そう。大丈夫。家族なんやから、なんでも力になるよ。大丈夫だからね。琥太郎に変われる?}
震える指でスマホを持つことすら出来なくなっていた早雪のスマホを、スピーカーから漏れる昭平の声を聞いていた琥太郎が手にした。
「お父さん? うん。わかった。大丈夫。……俺がいるから。うん。ありがとう」
泣き崩れる早雪に代わり、彼女の横で昭平と通話をしていた琥太郎が、スマホをリビングテーブルの上に置いた。そして床に突っ伏して泣く早雪の背をよしよしと撫でる。
「さゆちゃん」
琥太郎に向き合わねばとわかっているのに、涙が止まらなくて、顔も上げることも出来なければ、声も出なかった。
「――ずるい。俺四年も待ったのに。先にお父さんに言うとか」
笑いを含んだ琥太郎の声に、早雪が思わず顔を上げる。琥太郎は嬉しそうにはにかみながら、ティッシュボックスを差し出してきた。
(……琥太君の慰め方、ずるい)
早雪は絶対に、笑ってしまう。
差し込まれた笑いに、涙が止められてしまった。
箱からティッシュを数枚抜き取り、じゅんと鼻をかむ。涙でぐしゃぐしゃの顔も拭う。
「幸せすぎて怖いとか言う言葉あるじゃん? 俺、あれ嘘だと思ってたんだよね」
その間ずっと、琥太郎はぼさぼさになった早雪の髪を指で摘まみ、すごく不器用に顔から退けていた。
「でも今、死ぬほどわかる。めちゃくちゃ怖い。信じられないで夢みたいだし、これが現実だったら現実だったで、こんなに幸せになったせいで、これからいつ捨てられるんだろうって恐怖の中で生きてかないといけないんでしょ? 怖すぎる」
また早雪を笑わせようと冗談を言っているのかと思ったが、あっけらかんと言っているように見えて、琥太郎の手は小刻みに震えていた。
琥太郎の震える指先を見て、笑っていた早雪は更に笑ってしまった。
「しばらくは私が守ってあげるから、琥太君も早く、さゆちゃんのこと守れるようになって」
琥太郎の目を見つめながら、ひどく優しい気持ちで微笑むと、琥太郎も眉を下げて笑った。
(私……琥太君のこの顔、凄く好き)
困ってもいないだろうに下がる眉が、早雪に心を許してくれているようで、ずっと前から愛しかった。
「やっぱり信じられない。俺、明日死ぬのかもしれない」
微笑みあう穏やかな時間を甘受しすぎた琥太郎が、冗談交じりに言う。
「死なんで。ちゃんとさゆちゃんの面倒見て」
「一生見る……」
しおらしい顔をして、しおしおと琥太郎が近付いてくる。広げた足の隙間に早雪を差し込み、琥太郎はぎゅっと早雪を抱き締めた。座った体同士が密着する。姉として近くにいた時にはあり得なかった触れ合いに、琥太郎の広い肩幅や太い腕を感じ、心が一気に引き寄せられる。
「琥太君……」
すり、と琥太郎の太い首に一度額を押し付けると、早雪は顔を上げた。早雪の濡れた瞳がねだるものは丸わかりだろう。
一瞬にして二人から香った濃厚な愛の気配に身を委ねた早雪は、琥太郎の太股に両手をつくと、首を傾げながら唇を寄せた。
――なのに。
「駄目」
「え?」
「駄目。先に言って」
首をのけぞり、琥太郎がお預けを食らわす。
「めちゃくちゃしたいけど、まじで震えそうなほど我慢してるけど、言質とるのが先」
「……」
「さゆちゃん、ちゃんと言って」
言質だなんて愛のないことを言う癖に、言葉にされたいという、とんだ我が儘なロマンチストに、早雪は観念してぽつりと言った。
「……琥太君。あのね、好」
き、と言った瞬間、琥太郎の唇が早雪の口を塞いだ。
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