33:日常の終わり
「――ありがとうございます。またのご来店をお待ちしております」
入り口で客を見送るスタッフにあわせて、シャンプー台にいた早雪も声を出す。カラロンとドアベルが鳴った。
たたみ終えたタオルをシャンプー台の後ろに積みながら、早雪は琥太郎のことを考えていた。
朝、今日ばかりは琥太郎の髪をセットしてあげたかったのに、出勤時間が早すぎて顔も見られなかった。琥太郎の高校デビューを後押しした自負のある早雪は、出来ることなら、高校生活最後の日も、自分の手で琥太郎を飾り立てたかった。
(琥太君の卒業式の写真、欲しかったな……お母さんに撮ってって頼んでるけど……)
「西さん!」
「はい!」
呼ばれればすぐ返事――が染みついている早雪はタオルを棚に押し込むと、すぐに呼ばれた先に駆けつけた。
「ちょっと、ちょっと!」
マネージャーが小声で、しかししっかりと急かしながら早雪を呼びつける。店の入り口で呼ばれたため、予約の確認か、受付業務かと思っていたのに、どうにも様子が異なる。
手招きされ、そのまま店の外に出た早雪は目を見開いた。
「――え!? 琥太君!?」
「さゆちゃん……仕事中にごめんね」
そこには、これでもかというほど眉を下げ、困った表情を浮かべた琥太郎がいた。
コートの中のブレザーのボタンは全てむしり取られ、ネクタイも失っていた。袖のカフスボタンまで失ったブレザーから伸びる手にも何も持っていない。えらく男前な格好だ。
「西さん、この子、前迎えに来た子よね? 思い出したのよ! インスタで見たことあったなって! コタローやんか! 知ってる子やったん!? なんで早く言わんの!」
「すみません。マネージャーが琥太郎君をご存知だとは思わず……?」
まさか身近な人間にまで浸透していたともしらなかった早雪は困惑して答えた。更に、ここ一年ほどは琥太郎が受験生のためにInstagramへの投稿頻度もかなり減っていた。
宇津木店長の妻であるマネージャーは、どうやら客を見送る際に、店の近くにいた琥太郎に気付き、引き留めたようだ。
マネージャーがぐいんと早雪の腕を引き、耳打ちする。
「西さん、コタローに今度うちでカットモデルしてくれって交渉しておいて。ついでに店のインスタにも出てもらおう。いい? うんって言うまで帰しちゃ駄目よ」
マネージャーは琥太郎ににっこりとよそ行きの笑顔を浮かべると、店に戻った。呆然としたまま、早雪は琥太郎に向き直る。
「琥太君……?」
「ごめん。こっそり外から見るだけのつもりだったんだけど……」
「大丈夫だよ。前に声かけてって言ったん、私やん。何かあった?」
卒業式終わりにわざわざ姉に会いに来た琥太郎の意図が汲み取れず、早雪は尋ねた。
「今日、乗せて帰ってもらいたくって」
「え? ……皆で遊んだりはしないの?」
「もう顔出して来たよ」
気付けば、もう夕方だ。早雪の美容室は街にある。この辺りまで電車に乗って、皆で卒業式後に遊びに来ていたのだろう。
「すぐそこのマッグで待ってるから」
琥太郎が指さす先には、早雪も大好きな二十四時間空いているハンバーガーチェーン店がある。営業時間から「いつまででも待つ」という意思を感じ、早雪はなんとなく焦り始めた。
「……今日も帰り、遅くなっちゃうけど……」
「うん。待ってる」
その瞳に見覚えがあった。好きな人がいると、早雪にわざわざ宣言をした時の、琥太郎の目だった。
琥太郎が高校を卒業した日に、十八才になったその日に、忙しい早雪に負担を掛けると知りながら、わざわざ琥太郎が店まで来た。
その明確な理由まではわからなくても、悪い予感がして早雪は冷や汗を流した。
「……いやでも本当に、何時に帰れるかわかんないし……」
「安心して。俺、何時まで待ってても、もう補導されないから」
おあつらえ向きに成人年齢に達した男の言葉に、早雪はひゅっと息を呑んだ。
「さゆちゃん――」
琥太郎が背をかがめ、早雪を覗き込む。
「逃げずに迎えに来てね」
ついに明確に命令されてしまった早雪は、ただ「はい」と項垂れることしかできなかった。
「コタロー君、まだ待ってるの!? もう今日はいいから帰んなさい」
時計の短針が九を過ぎた頃、マネージャーに呼び出された早雪はタイムカードを切らされた。
いやです残らせてください、と泣きつきたかったが、上の言うことにはイエスと返事をするしかない。特に、早雪とマネージャーの会話を聞いていた琥太郎が愛想よく「自分なんかでよければ」とカットモデルを引き受けたものだから、マネージャーはご機嫌に琥太郎に傾倒しっぱなしだ。早雪は泣く泣くお礼を言って、店を出た。
果たして本当に、琥太郎はこんな時間まで待っていた。
窓ガラス越しにマッグを覗くと、琥太郎が窓際の席に座っていた。
(……格好いいな)
コートを着て、長い指で紙コップの縁を掴んでいる琥太郎は、もの凄く格好良かった。物憂げな雰囲気と、琥太郎の落ち着いた立ち振る舞いが、彼をひどく大人びて見せる。
ぽやんと見惚れていると、窓ガラスの内側にいた琥太郎が早雪に気付いた。瞬間、眉を下げてぱぁっと笑う。
(この顔が、好きで……)
目を逸らさねばならなかったことも忘れて、椅子から立ち上がってこちらへやって来る琥太郎を、つい見つめ続けてしまった。
「さゆちゃんお疲れ様。寒くない?」
「うん、大丈夫」
ドアを開けるなり、早雪を気遣う琥太郎の胸に顔を埋めたくて、仕方がない。ひっつきたくなる気持ちをなんとか押しとどめ、早雪はマッグの駐車場に琥太郎を連れて行く。
車に乗せると、いつもはすらすらと話し始める琥太郎が黙っていた。車を発進させ、街のネオンが少なくなってくる頃、早雪は「あっ」と声を出した。
「こんな時間だし、コンビニとかになっちゃうけど……ケーキ買って帰る?」
「お母さんから、ケーキ冷蔵庫に入れとくから食べてねって、お昼にLINE入ってたよ」
「そっか、じゃあ早く帰ろっか」
「うん」
それ以降ぱったりと口を噤んだ琥太郎の緊張が伝わってくるようで、早雪も何も話しかけられないまま、家に着く。
「ただいまー」
「ただいま」
同じ言葉で同じ家に帰ってくるようになって、四年。帰ってきた琥太郎がどこで靴を脱ぐのか、服をどこに掛けるのか、どんな風に頭を低くしてリビングのドアを潜るのか――そんなことまで知っている。
だから今から、琥太郎が何を話そうとしているのか――
早雪はやっぱり、わかってしまうのだ。
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