26:ハッピーバースデー 1


(最悪だ……)


 酒で失敗なんて初めてだ。それが琥太郎のことばかり考えていたせいなのは、早雪自身が誰よりもはっきりとわかっていた。


(だって琥太君が、琥太君が急に男の人みたいなことばっかするから……)


 可愛い可愛い世界一の弟が、突然男の人になってしまった。


 これまでと同じことをされていても、自分の受け取り方が変わってしまっている。一々、全ての行動を意識してしまう。意識させられてしまう。隣の家へ逃げ出すほどに。


 琥太郎が近付くだけで、触れるだけで、心がざわめき立つ。


 まさか弟に迫られているだなんて職場の人間に愚痴れるわけもなく、ただただ酒のペースだけが上がった。その結果、見るも無惨な醜態を晒した。


(……覚えてる。居酒屋で抱き上げられてすり寄っちゃったのも、私から服掴んじゃったのも、頭を撫でる手を振り払えなかったことも……それに――)


『なんで、なんで琥太君は……』


 酒に溺れた、甘ったるい自分の声を覚えている。


 ――なんで琥太君は、私なんかを好きになってくれたの?


 そう聞こうとするのを止めるのに、どれほどの自制心が必要だったか。


(琥太君の気持ちを知ってて、甘えようとした。お酒のせいにして、少しぐらいなら、って……聞きたかった。聞かせてほしかった)


 そんなこと、姉弟で許されるはずがないのに。


 服を掴んだ指をどうか剥がさないでと祈っていた切実な気持ちも、心細さも、人恋しさも――全て、許されないことだ。


(私が年上なんだから、ちゃんと、ちゃんとしてあげないと……)




***




「あ、おはよう。さゆちゃん」

「……おはよ」


 朝、学生服に身を包んだ琥太郎が、目玉焼きを焼いていた。ダイニングテーブルで寝間着姿のままうとうととしている典子の前には、皿に置かれたトーストがある。あそこに、フライパンから目玉焼きがビューン、ヒョイと飛んで行く寸法なのだろう。


 早雪はいつもの朝の景色をなるべく視界に入れないように、リビングからすっと視線を剥がした。


「お母さん、私もう出るねー」

「え? 早いんじゃないの?」

「ちょっと寄るところあるから。いってきまーす」

「あら。いってらっしゃーい」


 寝ぼけ眼で典子がぽやぽやと返事をする。洗面台から出て来た昭平も「さゆちゃん早いね? いってらっしゃい」と声をかけてくれたので、手を振って別れる。


(琥太君は気付いちゃったかな……)


 ドキドキと胸が鳴る。緊張していたせいか、車の鍵が中々差し込み口に入らない。


 もたもたしていると、コンコンと車の窓が叩かれた。体がびくりと揺れる。

 驚いて窓の外を見ると、琥太郎がいた。


「さゆちゃん、今日早いの? 朝ご飯食べてないでしょ。これ、どこかで食べて」

 早雪が窓を開けると、琥太郎が包みを窓から差し出した。それはサランラップに包まれたサンドウィッチだった。目玉焼きとハムが挟んである。きっと早雪のために慌てて包んだのだろう。

 早雪は一瞬浮かびそうになった苦い表情を、営業スマイルで覆い隠す。


「わざわざ、ありがとうね」

「いいよ。それより、二日酔いとか大丈夫?」


 掘り返したくなかった昨日の話題を振られ、早雪は笑みを貼り付けたまま頷く。


「もしかして昨日迷惑かけちゃった? ごめんね、あんまり覚えてなくて」

「気にしてないよ」


 気にするべきだ。あんなことを高校生に――大事な弟にやらせた馬鹿な大人を、見限るべきだ。


 早雪の笑顔に違和感を持ったのか、琥太郎は高い背をかがめ、車の窓から腕を伸ばした。早雪の頬に、琥太郎の大きな手のひらが触れる。


「……やっぱりくまが出来てる」


 琥太郎の切れ長の目が早雪を至近距離で覗き込む。


「お酒飲んだ次の日は、沢山水を飲むといいんだって。お仕事大変だろうけど、休めそうな時は無理せず休んで」


 高校生が気にかける必要もないようなことを知っているのは、早雪のために調べてくれたためだろう。何をさせているんだと苦々しい思いが浮かぶ反面、喜びも湧いてくる。


 だらしない姿をさらした姉にも、琥太郎の気持ちを知っていながら甘えようとした早雪にも、琥太郎は落胆していない。

 がっかりすべきなのに、それよりもずっとホッとしている。そんな自分が更に許せなくて、早雪は前を向いた。その拍子に、早雪の頬を包んでいた琥太郎の手も離れる。


「帰り遅くなるから、お母さんと昭ちゃんのことよろしくね」

「わかった。頑張ってね」


 琥太郎は聞き分けよく車から離れた。窓を閉め、琥太郎との間に物理的な壁を作る。


「いってらっしゃい」


 窓の向こうで、琥太郎がそう言って手を振った。早雪は丁度鳴り始めたエンジン音で聞こえなかった振りをして、車を発進させる。

 カーブミラーで後ろを振り返ると、琥太郎はまだ手を振っている。


(――気付かれちゃってもいいんだ、ううん。気付いてくれたぐらいが、きっといい……)


 弟は手を繋いでいいかなんて聞かないし、あんな風に親密な空気で頭を撫でたりしない。ましてや姉のくまを気にして顔を覗き込むなんてこと、あってはならない。


(琥太君にそんなことさせてたのは……私の甘さ)


 もっときちんと、拒絶してあげないといけなかった。自分の間違いを認め、今からでも関係を正すべきだ。


(琥太君と距離が近すぎた。離れていればきっと琥太君も冷静になる。――すぐ他の子を、好きになる)


 信号で止まると、助手席に置いていたサンドウィッチが目に入る。

 随分と寒くなってきた朝方の空気にぶるりと震えながら、早雪はハンドルを握り直した。




***




 十一月二十二日――今日は早雪の誕生日である。


「辛い。淋しい。無理。生きていけない」


 閉店後、店舗のトイレの清掃をしていた早雪はしとしとと泣いていた。


 もうひと月、琥太郎とまともに会話をしていない。顔すら合わせていない。


 母には「また喧嘩したの? あんたが大人なんだからちゃんと折れてあげなさいよ」と、兄弟あるあるとしてよく周りから聞いていたありがたくもなんともないお小言をもらい、昭平には気を遣わせている。


 避けているのは早雪なのだから悲しむ権利などないのだが――しんどいことこの上ない。


「抱きつきたい。よしよししたい。ブローしたい。一緒にお茶飲みたい。ココア入れて欲しい。よしよしされたい。ぎゅってされたい……」


 醜い本音を職場のトイレに吐き出して、水を流す。水洗トイレは渦を巻いて、汚れと一緒に早雪の本音も洗い流してくれた。そのまま下水を通って濾過されて、この地上のどこにもなくなってしまえばいい。


 早雪に避けられていることに気付いているのかいないのか、琥太郎からはLINEもこない。最後に届いた、あざと可愛いくまがダンスを踊っているスタンプが送られてきた日付は、なんと二週間も前である。


「西さんー。ちょっと一旦家に帰ってくるから」

 客用トイレの掃除道具を片付けていた早雪のもとに、宇津木がスマホを片手にやってきた。早雪は慌てて掃除道具入れを閉める。


「わかりました。何かあったんですか?」

「子どものお尻拭きがなくなってたって。買って帰ってまたすぐ来るから」

「すみません。でしたらあの、今日は――」


 早雪の固辞する姿勢が伝わったのか「そう? 悪いね」と宇津木が謝る。


「とんでもないです。また店長の都合がよろしい時にお願いします」

「はい、わかりました」


 店が閉まった後、店長の厚意で練習をさせてもらっていた早雪は、唐突に空いた時間をどうしようかと持て余す。


(誕生日なのが、逆になぁ。今から家に帰ると、夜ご飯ちゃんとしなきゃってお母さん焦らせちゃいそうだし、一二美に声かけると、ヤスと予定組んでてもこっちに来ちゃいそうだし……)


 成人した今、子どもの頃のように特別な一日というわけでもない。三百六十五日のうちの、ただの一日でしかない。


「どうする? 一緒に出る?」

「もしかして、残って練習していてもいいですか?」


 この店では店長、もしくはマネージャーが店じまいまで一緒にいることが多いが、閉店準備はすでに終わらせている。ダメ元で聞いてみた早雪に、店長は「いいよー」と軽く答える。


「じゃあ戸締まり頼んだ」

 はい、と宇津木は慌ただしく鍵の束を早雪に渡して、店から出て行く。


 メインフロア以外の電気を消し、暖房と音楽も止めた室内は、営業中の店から雰囲気がガラリと変わる。世界中から隔離されたような静けさだ。

 早雪はウィッグをスタンドに固定させる。


 一緒に美容学校を卒業した同期の中には、すでに美容業界から去った者もいる。早雪もいつそうなるのではないかと、心配してくれる先輩もいれば、見下す先輩もいる。

 スタイリストになるための試験真っ最中の早雪は、ここ最近ずっと焦っていた。


 さわさわと落ち着かない気持ちをため息一つで切り替え、ウィッグに向き合った。





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