25:無限の未来

 車に戻ると、典子と宇津木が昔話に花を咲かせていた。

 酔い潰れた早雪を見た典子が宇津木に謝る。琥太郎は早雪を後部座席に押し込んだ。二人が乗ったことを確認した典子が、宇津木に分かれを告げ、ゆっくりと車を発進させる。


 家に向かう夜の道は、時間が遅いせいで閑散としている。暗い町の中にぼんやりと浮かんだ信号がチカチカと点滅する。

 ヘッドライトが照らした道に従って走る車に揺られていると、典子がバックミラー越しに話しかけて来た。


「こんな面倒なお姉ちゃん、もう嫌になっちゃったんじゃないの?」


 琥太郎の気持ちを知る典子が笑いながら尋ねる。


「嫌になれれば、楽なんだろうにね」


 抱きかかえた体の重みも酒臭い吐息も、車の運転すら出来ない自分も、男に簡単に酔い潰される早雪も、全てが切ない。


 暗い視界に浮かぶ対向車線のライトが、沈んだ琥太郎の横顔を照らす。


 暗い車内でスマホの画面が光っている。早雪を肩に乗せたまま、ブラウザで検索していた琥太郎は、画面に並んだ文字を読んだ。


(お酒の名前だったんだ……)


 琥太郎が検索していた文字は「カルーア」と「カシオレ」だった。


 親指でサッとスマホの画面を消し、シートに背中からもたれかかった琥太郎は、深いため息をついた。


「……しんど」


 あんなに簡単に投げられる言葉も、琥太郎にはまだわからない。


 それに、いつか琥太郎が当たり前のように「カルーア」を頼み出したとしても、早雪との四つの年の差が埋まることは、永遠にない。


 先ほど腹立ちのままに吐いた暴言だって、考えなしだった。自分への暴力は対応するつもりでも、あそこで他の女性が取りなしてくれなければ、職場での早雪が立場を無くしていたかもしれない。

 そんな、一つずつの足りない知識や経験が、悔しくて歯痒い。


(一気に何もかもを経験して、さゆちゃんを簡単に守れるくらい、大人になれれば良いのに)


「そうよー。人を好きになると、相手が誰でもしんどいの」

「誰でも?」

「誰でも。その人の全部を支配出来ないし、独占も出来ないし、独占もしてもらえない」


「お母さんも……お父さんに、しんどいってなる時あったの?」


 父のこう言う話を聞くのが嫌で今まで尋ねたことはなかったが、好奇心に負けた。


「当たり前じゃなーい。特に私達は年も年だったし、再婚同士だし……お互い、可愛い可愛い子どももいたしね。自分達の立場とか、親の年齢とか住んでる場所とか、まあ、考えなきゃいけなかったことも多かったから」


 ハンドルを握る典子の表情は見えなかったが、共に暮らし始めて三年もたてば、彼女がどんな顔をしているのか、何となく想像がついた。


 しかし――


「早雪だけが特別なわけじゃないのよ」


 釘を刺すための言葉を口にした典子の表情だけは、帰り道にどれだけ考えてても、わからなかった。




***




「ほら、さゆちゃん着いたよ。ちゃんと自分で着替えて」


 彼女のベッドに横たわらせ、琥太郎はぺしぺしと軽く早雪の頬を叩いた。寝ぼけた早雪が低く呻く。


「んん……出来ない」

「皺寄っちゃうよ。服大事にしてるから、いやでしょ?」

「いーやー。着替えさせて」

「さゆちゃん、俺の忍耐力試すのやめて」


 ただでさえ琥太郎は、早雪の部屋に入るといつも途方に暮れる。どこもかしこも早雪の匂いや気配がして、どう自分を保てばいいのかわからなくなるからだ。


 許されるなら、その首筋に顔を埋めて、服の隙間に手を入れ、思うままに触れたい。だが一瞬でもそんな欲望に身を委ねてしまえば、途中で止める自信がない。


「出とくから。なんかあったら呼んで」


 今日の早雪が許しても、明日の早雪は絶対に自分を許さない。それがわかっているからこそ、琥太郎は明るい口調を装って早雪から離れた。


 しかし、酔っ払いの動きとは思えない俊敏な動きで、早雪が琥太郎の服をハシッと掴む。


「さゆちゃん?」


「なんで、なんで琥太君は……」


 早雪が沈んだ声で「なんで」と繰り返す。だが、どれだけ待っていても、その先が続かない。


「……なあに?」


 琥太郎はゆっくりと促したが、早雪は答えなかった。酔っていても尚、口にしたくないようだ。


(なんで、姉を好きになったのかって? それとも、なんで好きな気持ちを隠さなかったのか、って?)


 どちらにせよ、これほど一途に早雪を思う琥太郎に投げかけるには、あまりにひどい言葉だ。


(でも……嫌いにもなれない)


 自分勝手はお互い様だ。

 早雪の望み通りに、琥太郎は彼女を諦めてやれない。


「謝ってあげないよ」


 謝るということは、この気持ちに罪悪感を抱いているということだ。

 早雪を好きになったことを、なかったことにしたがっているということだ。


 早雪を好きなことは、辛いことも多い。気持ちを受け入れてももらえないどころか、許してさえもらえない。それに、自分が子どもなことも、度々思い知らされる。


 だが琥太郎は早雪を好きな気持ちを恥じたこともなければ、悪いことだとも思っていない。

 どれほど辛く切なくとも、琥太郎の持っている中で一番、上等なものだと誇ってさえいる。


 琥太郎の言葉に、早雪が顔を歪める。


「琥太君……私はね……」

「うん」

「可愛いよ。……琥太君が、可愛いよ。何したって、可愛いんだよ」

「四つ下で、弟だしね」

「いつか後悔するよ……四つも上で、姉なんて……私、琥太君の汚点になりたくない……」

「後悔なんてしない。汚点になんて、なるわけない」

「ほら、もう若い……」


 考える間もとらず即答した琥太郎にくしゃりと泣き笑いを浮かべて、早雪は枕に顔を埋める。

 そんな早雪の後ろ頭を、琥太郎は心底愛しい気持ちで、ゆっくりと撫でた。髪の隙間から覗く頭皮を指の腹で撫で、耳の後ろのくぼみを親指で辿る。早雪は振り払うこともなく、じっとしていた。


「……――琥太君の未来は、無限なのに」


「そんな酔ってても振られんの、俺」


 自分のあまりの脈のなさが不憫になって、琥太郎はくっと喉の奥を震わせて笑った。


「観念してよ、さゆちゃん。俺の気持ちは俺のものなんだよ。……それに」


 早雪が引っ張る手の感覚を、突っ張ったTシャツから感じる。そんなことでさえ、愛しくて。


「もうとっくに、無限の未来からさゆちゃんを選んでるんだから」


 琥太郎の声は、眠り始めた早雪にまで届かなかったようだ。

 琥太郎のシャツを握る早雪の指を丁寧と解く。そして、それはそれは大切に、早雪の顔の横に置いた。




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