20:普通な男
ノックの音がして、梨央奈は髪を拭いていた手を止めた。梨央奈の部屋をノックする人間は限られている。
お風呂上がりの自分の腕に、顔を近づける。腕を嗅ぎ、シャツを持ち上げて胸元の匂いも嗅いだ。肩までもない短い髪を引っ張って、鼻の下に持っていく。念入りに洗った髪からは完全に、煙草の匂いが消えている。
梨央奈は恐る恐るドアに近付いた。しかし、返事はしなかった。
梨央奈から返事をもらえないことに気付いたのか、ドアの前の人物――万里がドア越しに話しかけてきた。
「梨央奈、ごめんな」
殊勝な声が、ドアの向こうから聞こえる。
今まで一度だって聞いたことがない消え入りそうな声に、梨央奈はほだされてしまった。
足をいじいじとフローリング張りの床に擦りつけたあと、わざと不満げな表情を作って、至極ゆっくりとドアを開けた。
「……」
微かなドアの隙間から、万里を見上げる。予想していたよりもずっと申し訳なさそうな顔をして、万里がすぐ前に立っていた。
毒気が抜かれるが、梨央奈はドアノブを握ったまま、いつでもこのドアは閉められるんだぞとばかりの顔をして、あえて厳しい声を出した。
「謝り方が横柄すぎます」
「ごめんなさい」
「……」
「……」
「……」
すごく素直に謝られてしまって、梨央奈もこれ以上は、つっぱねられなかった。
ふぅと息を吐いて、ドアを開ける。
完全に開いたドアに、万里の目元が緩んだ。いつもの、口角を上げるだけの笑みとは違う、目元まで下がった柔らかい笑顔だ。
完全に、怒る気は失せてしまった。許してやる代わりに、拳を握ってポスンと万里の胸を叩く。万里は微動だにすることなく、甘んじで殴られた。
「……あんな怒ることないと思います」
「うん、ごめん」
「コタロー君も、もちろん私も、煙草なんか吸ってないですし」
「わかってる」
「スマホだって、本当に忘れちゃったんやし」
「うん」
「塾はたまたま一緒になっただけやし、なんならちょっと気まずいくらいです」
「そっか」
ポスンポスンと殴りながら説明をするが、先ほどが嘘のように万里は大人しく梨央奈の話を聞いた。
(さっきは一体なんやったん……)
あんな風に、万里に怒られることがあるなんて、思ってもいなかった。
――年上で男でイケメンの万里は、梨央奈と同じところに立ってはいない。
だから万里は梨央奈が何をしても怒らないし、腹も立てない。
ペットに腹を立てないのと同じで、本気で喧嘩なんかしてももらえない――そう、無意識にとらえていた。
いつも余裕綽々な万里は、高校生の梨央奈にとって、出来ないことなんてないんじゃないかと思わせられるような、そういう人だった。なのに、自分の勘違いで三つも年下の梨央奈を煽るような言い方をするなんて、随分、大人げないところもあるではないか。
(別に、いいけど)
万里が完璧じゃなくて――自分と同じく不器用で、年上だけど子どもっぽいところもあるなんて。
(ほんとにっ。別にっ。いいけど)
こうして仲直りした今では、万里の感情を垣間見られたことを、なんだか喜んでしまっている気がする。そのことを認めたくなくて、梨央奈は顰めっ面を維持した。
悪い風に勘違いされたからといって、怒られたからといって、彼を嫌いになるわけじゃない。そういう段階は、多分とうに過ぎていた。
――というのに、万里の方は不安なようだ。
殊勝な声で梨央奈に尋ねる。
「撫でていい?」
(いっつも、頭を撫でるどころやないこと、勝手にしておいて……!)
ここで、「いい」と言ってしまえば、なんだか自分が望んでいるようではないか。
万里が素直になったからといって、梨央奈まで素直になれるものではない。
梨央奈は頬を赤くして、苦々しい声色を出す。
「……いつも好きにしてるやないですか」
「梨央奈にいいよって言われたいし、今度から梨央奈が嫌がることはしない」
万里の真剣な声に、梨央奈は途方に暮れた顔をした。
(この人もしかして、世渡り上手すぎて、喧嘩したことないとか……?)
今でこそ泰輝と仲が良い梨央奈だが、幼い頃はそれはもう母の怒髪が天から降りてくることがないくらい頻繁に喧嘩をしていた。喧嘩なんて、時間が経つか、仲直りしてしまえば終わってしまうものなのに、そういう概念がないのかもしれない。
兄弟がいるかいないかはしらないが、いても兄弟喧嘩とは無縁に生きてそうだ。姉がいるなら可愛がられていそうだし、妹なら目に入れても痛くないほどに可愛がってそうだし、兄なら互いに干渉せずに生きてそうだし、弟なら面倒見がよさそうだ。
「そこまで落ち込まなくても……私もう、怒ってないですよ」
どう伝えたらいいかわからず、梨央奈はもごもごと言った。万里は高い背をかがめて、梨央奈に目線を合わせる。
「ほんと?」
距離が近かったため、顔がとても近くなった。
途端に頬を赤らめた梨央奈は「ほんと!」と万里を両手で押す。
「嫌いにならん?」
「こんなことくらいでなりませんよ」
(やっぱり、喧嘩慣れてないんや)
なんだか可愛く思えて、梨央奈はふっと息を吐くように笑った。
そんな梨央奈に片眉を上げた万里が、梨央奈の腰を両手で抱くように手を回す。突っぱねていた両手は折り曲げられ、万里と密着した。
「なら、少しは好き?」
ハスキーで落ち着いた声が、梨央奈の耳に真っ直ぐと降ってきた。
梨央奈の目を横目で見つめながら、万里が梨央奈の耳元で尋ねた。耳に人の吐いた空気が触れる感触に、ぞわりと肌が粟立つ。
至近距離にある真剣さを伴った瞳は、梨央奈を今にも絡め取りそうな熱が籠もっている。
(なんこれ?)
こんな視線を異性から受けたことがない梨央奈は、完全に固まった。
一ミリでも顔を動かせば、万里の顔とぶつかりそうで、梨央奈は身じろぎ一つ出来ない。
先ほど「今度から梨央奈が嫌がることはしない」と言ったばかりではないか。ならば、これはなんなのだ。確かに梨央奈は嫌だとは言っていない、言っていないが、聞かれてもいない。
脳みそが混乱状態に陥っている。梨央奈の目がぐるぐるとしだしたことに気付いているだろうに、万里は梨央奈の腰を抱いたまま離れようとはしない。
「ふ」
「ふ?」
「普通!」
震える腕になんとか力を呼び戻し、梨央奈は万里の胸をつっぱねた。驚くほど簡単に拘束が解かれた。万里は両手をホールドアップのかたちで上げ、これ以上「梨央奈が嫌がることはしない」意思を伝えている。
「ふうん」
万里の声が頭上から聞こえるが、梨央奈は顔を上げる勇気がなかった。今万里と真正面から向き合ってしまえば、何か恐ろしく大きな波に呑まれ、戻ってこられないような大合戦にでも挑まねばならない気がしたからだ。
「そうだよな」
心なしか弾んだ声で、万里がうんうんと頷く。
梨央奈の濡れた髪をわしゃわしゃとかきわける手は、女性の髪に触れることに慣れた手つきをしていて、その温度差にまた梨央奈はぐるぐると目を回す。
「梨央奈、塾何曜?」
「……月曜と木曜?」
「ん。遅くなる日は連絡入れろよ。迎えに行くから」
「え!?」
混乱状態のまま頭を撫でられていた梨央奈は、驚いて顔を上げた。
「梨央奈にそんな副流煙吸わせたくないし、毎度やと先生にも迷惑やろ」
大人に冷静に「迷惑」と言われると、梨央奈も強くは出られなかった。帰り道だからと送ってくれるのは久世先生に甘えていたが、甘えすぎていたかもしれない。
「……でもそれやと、迷惑かける相手が先生から清宮さんに変わるだけやん」
「いんだよ、俺は」
「なんで」
「下心があるから」
「……なんか、してほしいことでもあるんですか?」
梨央奈は顔をしかめながら尋ねた。
大抵のことなら出来そうなこの男が、一体どんな下心があれば、梨央奈の塾まで迎えに来ようというのか、全く以てわからなかったからだ。
万里は梨央奈をじっと見つめる。梨央奈は負けじと睨み返した。
(なんか、すごい、居心地悪い)
薄着に羽織ったパジャマがすごく心許なくなり、濡れた髪が恥ずかしくなった。死ぬほど今更なのに、自分の狭い部屋に二人きりなことが急に気になる。
先に視線を外したのは万里で、ふっと笑う。
その表情に、梨央奈は知らず息を吐きだした。それがなんだかとても、何故か容赦されたようで、なんとなく悔しい。
「そうやな、ママさんの夕飯とか?」
自分から下心と言い出した癖に、取って付けたような理由に聞こえた。
「……それは私の一存じゃなんとも、ですね……」
「じゃあ、お願いに行くから梨央奈ついてきて」
「えー……いや、はい。そうですね。私からもちゃんとお願いします」
二人で階下に降り、ことの顛末を話すと、母は殊の外喜んだ。
元々、「お節介なおばちゃん」を煮詰めたような人なため、人にご飯を食べさせたがる上に、相手がイケメンなら尚のこと楽しいのだろう。
しかも梨央奈の塾に迎えに行ってくれるとあれば、母自身が夜に備える面倒も減る。
「お手並み拝見ね」
にこにこと微笑む母に首を傾げる梨央奈の隣で、何故か万里が会釈をしていた。
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