21:上機嫌と不機嫌
――本当に、翌週から万里が塾まで迎えに来た。
それは大学の長い夏休みを終えても、変わらなかった。万里は講義を終えると泰輝と共に吉岡家へ帰ってきて、吉岡父の席で夕食を食べ、梨央奈を塾まで迎えに来る。泊まっていく日もあれば、梨央奈を送り届けてそのまま一人暮らしをしている家まで帰る日もある。
兄も母も、全くの他人が梨央奈を迎えに来ることに、なんの異論もないらしい。朝が早く帰宅も遅い父とは週末ぐらいしか顔を合わせないので、もしかしたら父よりもよほど万里の方が顔を合わせているかもしれない。その父からも、この件で梨央奈が何かを言われたことは無い。
とにかく、自分の周りの大人が問題ないと言うのならいいんだろうと、梨央奈も受け入れることにした。
(……あ。あったか~い、になってる)
万里を待っている間に、梨央奈は塾の前にある自動販売機をチェックしていた。暗い夜にぽっかりと浮かぶ自動販売機のディスプレイの中には、彼がいつも飲んでいる缶コーヒーも並んでいる。
(よく飲んでるし……喜ぶかな)
気付けば、万里について考えることが増えていた。
スマホの扱い方をノートにまとめたのも、そうだ。
受験勉強で不在がちな梨央奈の代わりに、他の誰かに聞きに行くのだろうかと考えたら、ほんの少しだけ、嫌だった。それが、以前駅で会ったような大人な大学生や、通知で見た綺麗なお姉さんなのかなと思うと、もう少しだけ嫌になった。
ほんとうに僅かに、ちょびっとだけ、微かに嫌なだけだったが、勉強の合間を縫って丁寧にノートにまとめた。これを見れば、五歳児だって操作できるというほど、丁寧にまとめた。
結局ノートを渡した後も度々梨央奈に持ってくるので、ノートが活用されているかはわからないが、他の人には持って行っていないようである。
(お礼だったら、変やないよね……)
たかだか百二十円。されど、百二十円。
お迎えのお礼には、足りないかもしれないけれど、やり過ぎかもしれない。万里に対して、梨央奈は冷静な判断が出来なくなっていた。
(やっぱ、清宮さんにだけ買った、って思われるん嫌やから、みんなの分買おう。そう、うん。そうしよ!)
こんなところで何度も硬貨をチャリチャリと入れて、何故か四本も缶ジュースを買ってしまった梨央奈は、買い終わった後に「むしろこっちのほうが変で恥ずかしいのでは?」と気付いたが、後の祭りだ。
(清宮さんの車に乗ったら、はい、って。なんでもない顔して渡す。……。はい、って。いつもありがとう、はい。って)
頭の中で、渡す時のシミュレーションを何度も繰り返す。万里に渡す缶以外は鞄に仕舞い、そわそわと梨央奈は待った。
(はい、ありがとう、はい、ありがとう……)
塾の脇に生えている雑草をローファーで潰し終えた頃、駐車場に光が差す。見慣れた万里の車が入って来た。
バックして駐車される車に向かって歩き始める。心臓はバクバク言っていた。
(はい、はい。ありがとう、はい……)
梨央奈が助手席のドアに近付くと、いつものように万里が体を倒し、助手席のドアノブを指で引っかけてドアを開けた。
(は――)
「外で待たない」
万里に連絡を入れた後、いつも「中で待ってろ」と言われるが、梨央奈は律儀に外で待ってしまう。
わざわざ迎えに来てくれているのに待たせるのは嫌だし、万里にだらしない女だと思われたくないからだ。
(――はい、ありがとう……のタイミング、完全に失った……)
困った顔をした梨央奈に、万里は厳しい顔つきを崩さない。
梨央奈は手の中の缶コーヒーをこねこねしながら言った。
「……でもまだ、寒くないし」
「そういう心配やないからな」
梨央奈は助手席にしずしずと座った。脳内シミュレーションでは、既に梨央奈の手から離れているはずだった缶コーヒーを、両手でぎゅっと握りしめる。
万里は梨央奈と話し合うことに決めたのか、ハンドルに肘をついて梨央奈に体を向ける。
「夜に一人で待ってるのが、危ないっつってんの」
「塾のすぐ前だよ」
「先生達の仕事は、外で待ってる梨央奈を見ることやもんな」
梨央奈がムッとしたのを正確に把握した万里が「ちょっと待った」と首を横に振る。
「今のは俺の言い方が悪かった」
万里はハンドルに体重をかけ、三秒ほど目を瞑ると、梨央奈の方を向いて静かに言った。
「頼むから、俺に梨央奈の五分、ちょうだい」
そんな風に言われて、嫌だと突っぱね続けられるはずがない。
こんな状況で命令されれば、反発心や遠慮で更に外で待っていたくなる梨央奈だが、お願いされてしまうと、聞いてやりたくなる。万里にあげた五分を、万里が塾の中にいてと言うのなら、塾の中で待つことぐらい出来る。
「……駐車場に来たら、絶対にすぐに連絡くれます?」
往生際悪く梨央奈は尋ねた。
「約束する」
「じゃあ、わかりました……」
渋々頷いた梨央奈の頭を、万里がポンポンと叩く。
「シートベルト、自分で出来んのやっけ?」
「出来ますっ!」
万里と話していたために後回しにしていたシートベルトを引っ張ろうとして、手に握っていた缶コーヒーに気付く。
梨央奈は口をもにょもにょさせたあと「はい」と万里に差し出した。
「?」
「ありがとう」
ようやく任務を完遂し、梨央奈はほっと息を吐く。
運転席に座る万里は一瞬、虚を衝かれた顔をしたあと、「はああ」と大きなため息をついた。
「……梨央奈は、俺の機嫌とるの、上手いなあ」
くしゃっと笑った万里が、身を乗り出した。抱き締められたかと錯覚するほどの至近距離に、梨央奈の体が固まる。
万里が何をしようとしているのか察した梨央奈は、大声で叫んだ。
「清宮さん! 自分で出来るってば!」
「缶コーヒーのお礼」
「お礼のお礼って、変!」
「俺、今、機嫌いいからさせて」
機嫌がいいと、何故梨央奈のシートベルトを締めたくなるのか。
シートベルトを掴んだ万里が、ベルトの端で梨央奈の体を擦らないように、外側に大きく引っ張る。
機嫌がいいと言うだけあって、鼻歌でも歌いそうなほど表情筋が緩んでいる。そんな万里を見て、梨央奈は窓の外に視線をやった。
車の助手席は運転席との距離が近すぎて、前を向いていたってすぐ横に意識がいってしまう。梨央奈が外を見るのは、運転席を気にしないように、逃げの体勢を取るのと同じだった。
(最近なんか、息が苦しい)
同じ空間で、じっとしていられない。それなのに、じっとしていたい気もする。
意識していることを知られるのが恥ずかしくて、つい怒ったような物言いをしてしまう梨央奈に、万里はいつも楽しそうに接する。そんな顔を見る度に、また可愛くないことばかり言ってしまう。
「鞄何入れてんの。今日めっちゃ重そうやけど」
梨央奈の渡したコーヒーを飲みながら運転していた万里が、梨央奈の膝の上の鞄を見て尋ねる。梨央奈は意識してゆっくりと顔を動かして、鞄を見た。
「ジュース。泰ちゃんと、お母さんとお父さんの分」
「……梨央奈は俺の機嫌、落とすんも上手いなあ」
「え?」
なんでもない、と言うと、万里は慣れた手つきでハンドルを動かして、吉岡家へと向かった。
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