22:切りとられた時間
『いいこと聞いたお礼に、男の落とし方、教えてやろうか?』
彼にしてみれば、自分みたいなモブ人間は全くの恋愛対象外なのだろう。
もしかしたら、牽制の意味を込めてわざと言ったのかもしれない。そのくらい、線を引くことに慣れている人だった。
(こんなイケメンが選ぶ恋人って、どんな人なんだろう)
少女漫画の相手役に憧れるような、そんな気持ちで何度かそんなことを考えもした。
(――なるほど。こんな人なわけね)
そして、梨央奈の手の中には、持ち慣れたスマホ。
画面には、腕を組んで自撮りをする、美しい一組の男女の写真。
ピンクラベンダー色の髪の美しい女性を腕に巻き付けた、見慣れた男。昼休みに好奇心からInstagramで万里の名前を検索した梨央奈は、これでもかというほど顔を歪めていた。
関連にも万里はどんどん出てきた。週末にやっているらしいバスケでの写真や、大学での写真だ。先ほど見つけたツーショット以外の写真は、全体写真や、どう見ても隠し撮りというような写真しかない。前に「写真は好きじゃない」と言っていたとおり、友人らともあまり撮らないようだ。
そんな中で一際目立つ、仲睦まじいツーショット。
相手は、以前彼のスマホの中でチラリと見た美女だった。
(あー……。わかってた)
モブはモブ。
イケメンと縁が出来たからといって、なにがどうなるわけもないと――わかっていたのに。
(わかってたのに、なあ)
ショックなんて、受けないつもりだった。兄の友人で、ちょっと親しい知人。それだけの人。
さすがに、現在万里に恋人がいないことくらいは知っているが、画面に映る彼女がその座に一番近い女性なのは、誰が見ても明白だった。
(甘やかされてたから、つい、勘違いしてしまった――)
梨央奈以外にも休日を共にする女性はいたし、梨央奈とは撮っていないような写真を撮る女性もいた。それが現実で、それだけが事実だった。
初恋は苦く終わった。
だから――
張っているつもりの予防線も、抱いていないつもりの期待も意味はない。
(好き勝手弄んでくれやがって)
梨央奈はInstagramのアプリを閉じて、スマホをポケットにしまった。
***
梨央奈は、負けず嫌いである。
(私も、腕、組んでやる)
万里への気持ちに気づいた梨央奈を突き動かしたのは、琥太郎の時には沸いてこなかった対抗心、もしくは欲望だった。
あの女性がしていることを自分がしたところで、何も変わらないかもしれない。でも、何かせずにはいられなかった。
拗ねて、万里から距離を取れば、楽に気持ちから逃げられる。
けれど、塾の迎えで毎週二日顔を合わせる状況では現実的ではないし、不義理に過ぎる。いくらお礼に夕飯を馳走しているといっても、それは梨央奈が払っている対価ではない。梨央奈にできることは、礼儀正しくお礼を言うことだけだ。それだけは、絶対に守らねばならない最低限のマナーでもあった。
芽生えた対抗心を実行に移すのに、時間は必要ない。必要なのは、勢い。ただその一点のみである。
――だがこれが、思ったよりも難しかった。
ほんの数十センチ横に目的の腕はあったが、視線をやることすら出来なかった。触れるなんて、問題外だ。気づいたばかりの恋を意識しすぎるせいで、いつも以上にカチコチに緊張してしまう。
万里の車の助手席に乗り込んだ瞬間には確かにあった勢いが、今は見るも無惨に消えていた。
(この人なんなん……)
一体どんな神経をしていれば、あんな風にベタベタと触れるのか。
万里のようにさり気なく、何の気なしを装って、すっと腕にくっつきたかったのに、出来ない。意識すればするほど、全く以て、出来なかった。
「……腹でも痛い? コンビニ寄ろうか?」
そしてついに、もじもじしすぎてこんなことを言われてしまった。
(……最悪)
ショックのあまり、涙目になる。何処の女子高生が、好きな相手にトイレの心配をされて喜ぶと思うのか。恥ずかしくて悔しくて、梨央奈は俯いてブルブルと首を横に振った。
「――ちょっと寄り道して帰るか」
今度は小さく頷いた。
運転している相手に声を出さずに反応するのが不親切だと気付いたのは、万里が車を止めた頃だった。ガチャゴッと、梨央奈には名称すらわからない車の部品を万里が動かした音が、BGMもついていない夜に響く。
真っ暗な夜の景色はいつも見る場所と違って見えて、梨央奈はここがどこだか、一瞬わからなかった。
万里が車を止めたのは、家から少し離れた田んぼ道の路肩。いつもの、塾から吉岡家へ帰り道とは違う。寄り道、と言った言葉に違わず、わざわざ遠回りしたようだ。
(……やだ。なんなんこれ、嬉しい……)
車通りも人通りも無い。真っ暗な空を、さらに真っ暗な山が区切っている。
万里が梨央奈のために選んだと思えば、それだけで特別な場所に見える。胸が高鳴った。
(この時間は、私のためだけの時間……)
久世先生に迷惑をかけるからでもなく、吉岡家での夕食の対価でもない。万里が梨央奈のためだけに、用意してくれた彼の時間。
車のエンジンを切った万里が、ガチャリとドアを開けて車から降りる。梨央奈も慌ててシートベルトを外して、車から降りた。
ローファーを地面に付けると、緊張でカチコチになっていたせいか、下半身に力を入れにくくて焦る。なんとか平気な顔をして踏ん張った梨央奈は、震える体が伝えてくる緊張を深呼吸で追い出した。
制服のスカートから覗く足に、つんと冷たくなった風があたる。虫の声はもう随分と小さくなっていた。
離れた場所で立っている万里を見ると、空を見上げていた。倣って梨央奈も上を見ると、闇の深い空に沢山の星が瞬いている。
息を呑むほど美しい。秋の透明な空気のおかげで、より一層星が綺麗に見える。
驚くほど心地よくて、驚くほど落ち着かなかった。
風よりも虫の音よりも星よりも、ただ立っているだけの万里に意識が向く。
「なんかあった? 友達と喧嘩でもした?」
満天の空の下で万里が振り返り、梨央奈を見る。
(――……すごいな)
こんな瞬間が、自分の人生にあるなんて、思ってもいなかった。
澄んだ空気、乾いた土の匂い、好きな人、好きな人の運転する車、震える足、バクバクとうるさい心臓。
(幸せで、涙が出そうなことって、あるんや)
びっくりした。あまりにも自然に胸がいっぱいになって、涙が溢れそうだった。
(私はきっとこの瞬間を、おばあちゃんになるまでに――何度も……何度も、思い出すんやろうな)
夜が暗くてよかった。梨央奈が泣きそうになったことは、きっと万里にはバレなかったに違いない。
(家に、帰りたくない)
この時間を、この一瞬を、ずっと感じていたかった。胸がいっぱいで、呼気が震える。夜の温度も、秋の匂いも、万里の眼差しも、全てを覚えていたかった。
「――あんま遅くなると、ママさん心配するな」
梨央奈が何も返事をしないでいると、スマホをちらりと見た万里が言った。
(こんなに、特別で、幸せな時間なんに……)
そんな、常識的な言葉で終わらせられる万里に図らずも衝撃を受ける。
梨央奈は一瞬だって家のことなんか頭を過らなかった。過ぎったとしても、自分から話題に出したりしなかったろう。もう少し、ただ二人でここにいたかった。
ショックと悔しさを勇気に変えて、梨央奈は一歩足を踏み出した。ジャリ、とアスファルトの上に落ちてあった小石と、ローファーの底が擦れる音が、静かな夜に響く。
目をぎゅっと閉じて、思いっきり飛びつく。
体当たりのように、万里の背後から彼の服にしがみついた。完全に気を抜いていた万里の体がよろめく。
体勢を崩しながらも、梨央奈を支えようと万里が反対の手を伸ばす。その手が梨央奈を掴む前に、梨央奈はパッと万里の腕を放した。
「腕を組む」とは表せなかったに違いない。スムーズには程遠い。けれど、梨央奈にはこれで精一杯だった。
呆気にとられた顔をした万里に、梨央奈はバクバク暴れる心臓をなんとか抑えながら言った。
「……か、帰ろっか」
「……ん」
梨央奈はそれ以上何も言わずに、駆け足で助手席に戻った。万里も何も聞かずに、運転席に乗り込む。
心臓が、口から出そうだった。
車が発車してからもずっと、梨央奈は窓の向こうを見ていた。幸福感と満足感でにじむ涙を、見られたくなかった。
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