23:内緒の求愛方法

「あー、疲れたー。あー疲れたなー」


 その晩、吉岡家に泊まることにした万里は、泰輝の部屋に入るなり泰輝にもたれ掛かった。その顔は、普段の余裕めいた表情が見る影もないほどに、緩みきっている。


 万里が吉岡家に遊びに行くようになって二年が経つが、最近はその目的が変わってきていた。


 万里が自分から梨央奈の塾の送り迎えをすると伝えたことで、万里の気持ちは吉岡母にまで筒抜けになってしまった。

「付き合うまでは手を出さないでね」という一言で大事な一人娘を預けてくれるのだから、吉岡母からの信頼に背かないよう、万里も気を引き締めねばならない。


「……どしたん、清」

 ちょっとキモいんで離れてもらえますか、と丁重に泰輝に引き剥がされても、万里は笑顔のままだ。


「梨央奈がこうしてきた」

 今日も吉岡家に泊まるため、スウェットに着替えていた万里が、同じく部屋着の泰輝の腕に巻き付く。


 普段なら、決して誰にも話さないようなことでも、今の万里は泰輝に話したくて仕方がなかった。

 それほどに、梨央奈が可愛かったし、初めての恋に浮かれていた。


(こんなんもう、俺のこと好きやろ)


 ご機嫌な万里に巻き付かれ、心底嫌そうな顔をした泰輝は「あー。あるあるー」と返事をする。


「梨央奈、懐くとそうやって、すぐくっついてくるよなー」


「……は?」


「俺もよくやられるわ」


「――はあ??」


「おめでとう。兄認定」


 すがすがしいほど満面の笑みで、泰輝が言う。

 万里は絶句して、泰輝を見た。


「お前ら兄妹でんなことすんの……?」

「する。全力でする。毎日する」


 万里の受かれ具合が鬱陶しくて、彼女のいない泰輝はしれっと嘘をついたのだが、ショックが先行していた万里はそのことに気付かなかった。




***




「俺は梨央奈のお兄ちゃんではありません」

「……はい?」

「男に、あんまり簡単に飛びついたりすんなよ」

「はあ?」


 歯を磨きに一階に下りた梨央奈は、どうやら今夜も泊まるらしいトイレ帰りの万里と出くわし、出会い頭にそう言われた。


 先ほどまで胸がいっぱいで、母が作ってくれていた夜食も入らなかったくらいの幸せな気持ちが、瞬時にパーッンと消し去る。


(簡単にって、どんだけ、私が勇気出したと……)


 自分は簡単に腰を抱いたり、頭に乗ってきたりするくせに。梨央奈は怒りでわなわなと震える。


(なんなの……兄だとか、思ってるわけないやん。清宮さんの方が、泰ちゃんみたいに過保護で、妹扱いしてるくせに……)


 ムカムカした梨央奈は、万里を一度キッと睨んで、洗面台へと向かった。


「梨央奈?」


 どことなく不機嫌な顔をした万里が、洗面台までついてくる。梨央奈が歯ブラシに手を伸ばすと、万里も自分の歯ブラシに手を伸ばした。あまりに泊まる回数が多いため、吉岡家の歯ブラシスタンドには万里用の歯ブラシも立てているのである。


 歯ブラシを濡らそうと水を流すと、万里も横から歯ブラシを水流に突っ込んできた。

 梨央奈が歯磨き粉の蓋を開け、自分の歯ブラシにつけていると、万里も歯ブラシを差し出してくる。ムカムカしながらも、梨央奈は万里の歯ブラシにも歯磨き粉を付けてやった。


(ほら。あんなこと言っておいて、自分は近いやん。なんなん、なんなん!)


 洗面台の鏡に映った、並んで口に歯ブラシを入れる二人は、到底カップルには見えない。

 かといって、あまりの顔面偏差値の違いから、万里の言う通り兄と妹にも見えない。


 並んでいるのが苦しくなって、梨央奈は急いで歯を磨き終えて濯ぐ。


 涼しい顔で歯を磨く万里の鼻をなんとか明かしたくて、タオルで口元を拭いながら、万里を鏡越しに睨んだ。


「――男の落とし方、教えてくれるって言ってたの、まだ有効ですか?」


 ぶっ、と万里が歯磨き粉の泡を吹き出した。

 目を見開いて梨央奈を見る万里に満足し、梨央奈は顎を持ち上げる。


「どうなんですか?」

「……もう駄目」

「そうですか。じゃあいいです」


 おやすみなさい、と言って梨央奈は洗面台を出た。ドタバタと大慌てで洗面台で動く音がする。

 階段を上り、梨央奈が自室のドアに手をかけた時、後ろからやってきた万里が、梨央奈の背後から腹に手を回した。


「?!」


 そのままドアノブを持っている梨央奈の手に、万里が自分の手を被せて強引にドアを開ける。そして梨央奈ごと、万里は彼女の自室に体を押し込んだ。


「清宮さ――」

「どういうこと? コタローと気まずいって言ってたんは嘘?」


 梨央奈の腹を抱いたまま、背中から覆い被さるように万里が抱きついてくる。万里が話す度に呼気が頭皮と耳にあたり、体の全てが毛羽立った。万里の吐息は梨央奈と同じ歯磨き粉の匂いで、その感じたことがない生々しさに、背筋に震えが走る。


「ちょ、清み――」

「梨央奈」


 体を捻って離れようとした梨央奈は、万里の一言で動きを止めた。梨央奈の腹を抱く万里の手に力がこもる。


「なあ、嘘なん?」


 耳朶に吹き込むように話しかけられ、梨央奈は腰が砕けそうだった。顔を真っ赤にした梨央奈は、動転しながらも口を開く。


「ほ、ほんと!」

「じゃあなん? さっきの」

「ち、違う人」

「……?」

「ほほ、他に、好、きな、人が、出来たからっ――!」


 だから、落とし方を、教えてもらおうと。

 梨央奈は混乱した頭で言い放った。


「……なんそれ」


 呆然とした声で万里は呟くと、梨央奈の顎を持って自分の方を向かせた。


「誰?」

「な……?」

「誰なん?」


 体は抱き込まれたまま、顔だけ後ろを向くきつい姿勢なのに、体勢よりもずっと、息が苦しかった。万里にギラギラと燃える視線を向けられると、呼吸が浅くしか出来ない。


「な、なんで、言わなきゃ……」

「誰か知らんと、落とし方なんか教えてやれんやろ」


 自分で聞いておきながら、こんな風になるとは思ってもいなかった梨央奈は、慌てて口を開く。


「それは、もういいっ……!」

「いい訳ねえだろ」


 低い声で言った万里は梨央奈に顔を近づけて「誰だよ」と再び聞く。


 密着した体と、キスしそうなほど近い姿勢に頭が完全に混乱した梨央奈は、思わず叫んだ。


「――じゃ、じゃあ! 清宮さん!」


「……は?」


「清宮さんが相手だった場合は、何したらいいんですか!」


 今にも気絶しそうなほど顔を真っ赤にした梨央奈の叫びに、万里は呆気にとられた顔をする。


「……――好きな男って、俺?」


「そんなことあるわけないやないですかっ!!」


 ――そうかと問われれば、違うと言ってしまうのが、梨央奈である。


 ぽかんとしたまま口を開いた万里に、食い気味で否定した梨央奈は自分の天邪鬼さに腹を立てる。


(この、この口が! この口が!!)


 梨央奈の意思とは関係なく、ゼロコンマ一秒で返事をしてしまうのだ。せめて予備動作があれば、素直に頷くことだって出来たかもしれないのに、突然は駄目なのだ。


「……あっそ」


 梨央奈の顎と腹を掴んでいた手から、万里が力を抜く。突然解放されたせいでよろめいた梨央奈は、ぽすんとラグの上にしゃがみ込んだ。足が震えて、力が入らない。


 しゃがみ込んだ梨央奈を冷たい目で見つめた万里は、頭を掻くと、ため息交じりに言った。


「俺なら、手でも握って、好きって言やぁ、いんじゃないの」


 百人中百人が、「適当」だと言うであろうありがたいアドバイスをもらい、梨央奈は猛烈に腹を立てた。


(聞くんじゃなかった!)


 梨央奈はこんなに心をかき乱されているのに。こんなに混乱しているのに。

 万里との温度差が悔しくて仕方がない。


「ありがとうございます! 覚えておきます」


 やけっぱちに叫んで立ち上がった梨央奈の手を、万里がパシリと掴んだ。


「嘘」


 俯いた万里が、小さな声で呟く。


「……え?」


「俺なら街中でフラッシュモブやられて、チューリップ百本で出来た花束渡されたい」


 顔を伏したまま、万里が淡々と言う。


(人を何処まで、おちょくれば……!!)


 絶対に、百パーセント――いや、二百パーセント、万里が好みそうにないシチュエーションである。絶対にやられたくないことを言っているに違いない。

 梨央奈は自分の腕を強く振って万里の腕を払うと、にっこりと笑顔を浮かべた。


「私、清宮さんのことそこそこ信頼してたんですけど――」


 万里が慌てたように、ガバリと顔を上げた。その表情は焦っているようにも見えたが、怒り心頭に発する梨央奈には、些末だった。


「あてにした私が馬鹿でした」


 出て行ってください。

 腕を組んでそう言った梨央奈に、万里は一言も反論せずに従った。




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