19:はじめての


「……何言って怒らせたん?」


 先ほどまで一緒にいた梨央奈の兄・泰輝が、玄関ドアを開けて外に出て来る。


「俺、八つ当たりされたん久々」


 ドアを閉めた泰輝は、サンダル姿で万里のもとまでやってきた。

 門扉の前に立ったまま呆然としていた万里は、はあと深いため息を吐く。


「……いらんこと言った」

「そうみたいやな」


 あんな風に梨央奈を怒らせたのは初めてだった。これまでやんややんやと突っかかってくることはあったが、万里の許す範囲内で、梨央奈が怒っているだけだった。

 それが今は万里が――梨央奈の許す範囲を、完全に踏み越えてしまった。


「――キープしてんなよって、カッとなった」


 腰を落とし、両膝の上に腕を置き、項垂れる。

 シルバーアッシュの髪がさらりと流れた。並んでまで買ったお気に入りのスニーカーが目に入ってきても、万里の気持ちはちっとも浮上しない。


「キープって?」

「……好きな男がいるっつーから、さっさと告白しろっつってんのに、しないし」

「うん?」

「告白しないけど諦めるとか言って、結局諦めてねーじゃん。なのに俺には諦めたふりしてんの」

「それをキープって?」

「他になんがあんの」


 万里の周りの女子はそうだった。気になっている男がいても、付き合っている彼氏がいても、万里の前ではそんな男は存在しないふりをする。あわよくばと、自分のいいように万里を扱おうとする。


 なんだかよくわからない突風に煽られて、万里の胸はぐしゃぐしゃにかき乱されていた。

 そんな万里に、泰輝が「うーん?」と首を捻る。


「普通に、ただの知り合いなんやない?」


「……は?」


「そもそもキープとか、梨央が清を恋愛対象に見てなきゃ出てこん発想やろ? 梨央的には別に――諦めるとか清に約束したつもりもないくらいの、ただの知り合いなだけなんやない?」


 万里は人生で一番、呆気にとられた。


 女性に恋愛的な視線や感情を向けられるのは、万里にとって当たり前のことだった。万里が望む望まないにかかわらず、身近な女性にとって万里は絶対的な恋愛対象で、大小の差はあれど必ず関心を持たれていた。


 小さくとも隙を見せれば絡め取られるのが常で、万里はそれに辟易しつつも、仕方のないことだと受け入れていた。


 なのに、まさか――唯一万里が意識した梨央奈にとって、自分がその枠内に入ってもいないだなんて、思ってもいなかった。


 あまりにぽかんとしている万里を見かねたのか、泰輝もしゃがみ込んだ。


「清は、梨央がさっさとそいつに告白してケリつけて……そんで、自分を見て欲しかったんだよな」


 梨央奈によく似た顔が、憐れみの表情を浮かべて万里を見た。


「……びびるぐらい純真な顔して、恐ろしいほど抉ってくるな」

「違った?」

「……そうなんやと思う……」


 万里は両手で顔を覆った。夏の生ぬるい夜風が万里のオーバーサイズのシャツの隙間から入り込んでくる。全身にじっとりとかいていた嫌な汗に、ぬるい風が触れて気持ちが悪い。


(そんな可能性、考えたこともなかった)


 万里にとって梨央奈は、泰輝の妹で、特別に可愛いがっている子――ただそれだけだった。それだけのつもりだった。


「梨央から諦めるって聞いて、嬉しかったんや」


 泰輝の、質問ではなく確認のような、慈しみ深い声がして、万里はこくんと小さく頷いた。


「なのに諦めてないやんって、混乱したんやなー」


 また小さく、こくんと頷く。


「清、初恋やん」


(知らん。こんなん、知らんかった)


 世の中の大抵のことは、上手くやっていた。


 こんな風に自分の感情がままならなくなったり、冷静に物事を見られなくなったり――好きな相手を怒らせたり。


 そんな自分になるだなんて、思ってもいなかった。


 自分から近付くのは、梨央奈だけだった。

 LINEを自分から教えたのも、足繁く通うのも、笑わせようとするのも、からかうのも、失恋につけ込もうとするのも、スマホを自ら見せるのも、チョコが欲しいと強請るのも、一緒に旅行したいと思うのも、全部――全部、梨央奈だからだ。


 大きな体を丸めて、項垂れる。


 万里は初めて、恋をした。




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