18:冷たい眼差し

「こんな時間までなにしてたん?」


 案の定、吉岡家に住人のような顔をして立っていたのは万里だった。梨央奈は早足になりそうな気持ちを抑え、意識してゆっくりと歩いた。


「何って、塾ですよ」

「遅すぎん? てか女一人で帰ってくる時間やないやろ」


 万里が梨央奈のために門扉を開ける。門扉を潜り、梨央奈は段差に足を引っかけた。


「いえ、そこまでは送っ――」

「――煙草臭い」


 梨央奈が万里の横をすり抜ける途中、すんと彼に鼻を寄せられた。

 驚いて顔を上げると、珍しく顔をしかめた万里がこちらを見下ろしている。


 大きな体から醸し出される威圧感に、体が止まる。


 基本的にいつも梨央奈に優しい万里が、こんな風に不快感を表すのを初めて見た。


 梨央奈が僅かに怯えた空気を出す。その仕草がやましいことがあるように見えたのか、万里の眼光が鋭くなった。そんな目を向けられてしまったことに、自覚以上の淋しさが襲う。


(……煙草? ――あ。久世先生が吸ってたから……?)


 万里から視線を外すため、僅かに俯く。自分の髪を引っ張って鼻に近づけると、確かに煙草の匂いがした。

 先生のことを言おうと口を開いたが、目の前にいる万里がいつもの彼とあまりに違うため、どう話せばいいかわからず声が出なかった。


 言い淀んでいる梨央奈を見て、更に機嫌を悪くする万里に、梨央奈は完全に萎縮した。


「――吉岡さん!」


 突然名前を呼ばれ、梨央奈はびくりと体を震わせた。

 慌てて振り返ると、先ほど別れたばかりの琥太郎がいた。暗い闇の中、吉岡家の門扉についている小さな明かりが、琥太郎を照らす。


「えっ……コタロー君?!」


 梨央奈が名前を呼ぶと、万里はぴくりと眉毛を動かした。


「これ」

 走って来たらしい琥太郎は、少し息を弾ませながら梨央奈に手を突き出した。


「忘れてたよ」

 琥太郎が持っていたのは、梨央奈のスマホだった。先ほど家族にLINEを入れたあと、そのまま久世先生の車のシートの上に置きっぱなしにしてしまっていたようだ。

 梨央奈は顔を青ざめさせて琥太郎に駆け寄る。


「うそっ……ごめんね!」

「大丈夫。まだ外にいてくれてよかった。チャイム押して呼び出すの、勇気要ったから」

「わあ……本当ごめん。わざわざありがとう」

「うん」


 琥太郎が目線を上げた。不思議に思い、梨央奈は琥太郎の目線の先を追う。梨央奈のすぐ後ろに立っていた万里を見ていたようだ。


 琥太郎は万里にぺこりと会釈した。万里は琥太郎に会釈を返さず、いつもよりも冷めた表情で彼を見ている。


「お兄さん?」

「あ、うん。似たような――」

「違う」


 会釈は返さなかったくせに、否定は早かった。

 梨央奈は驚く。積極的ではないが、場の空気を読んだり、人に気を遣ったりすることが上手な万里が、こんな風に冷たい言い方をするとは思っていなかったからだ。


「そう――ですか。引き留めてすみません。じゃあ……吉岡さんまたね」

「う、ん。こっちこそごめんね、ありがとう! また」


 琥太郎は深く追求せず、にこりと微笑んで梨央奈に手を振った。梨央奈も呆然としながら琥太郎に手を振り返す。


 琥太郎の後ろ姿を見送る梨央奈に、万里が抑揚のない声で話しかけた。


「――あいつ、コタローやろ」

「え? うん」

「同い年やなかった?」

「そうだよ」

「あんな匂いさせて、学校にバレるんも時間の問題やな」

「……え? 何が?」

「煙草」


 梨央奈は驚いて、万里を仰ぎ見た。万里はいつも通り無表情なのに、いつもよりもずっと冷めた瞳をしていた。別人になったような万里が怖くて、いつもの万里に戻って欲しくて、梨央奈は慌てて否定する。


「違います! コタロー君は吸ってない」

「こんな匂いつくほど近くにおったんやろ。あいつからも無茶苦茶匂ってたし……」

 いつものように軽口を叩ける雰囲気ではない。あの空気は万里が作ってくれていたのだと、いやでも思い知らされる。

「それは、塾の先生が吸って。車で送ってもらったから。だって、先生が吸うんやもん……」

 焦るせいで、下手な説明しか出来なかったが、万里は梨央奈を急かすことなく聞いていた。だがその冷たい視線に晒されるだけで、一人で勝手に焦ってしまう。


「先生?」


 意外そうな声に、梨央奈は大急ぎで頷いた。塾とわかればきっと、万里も機嫌を直してくれるに違いない。


「そう。授業終わったあと、いつもコタロー君と二人で残ってるん。帰りに先生が送ってくれてて――」


「へえ」


 梨央奈の説明を聞いた万里は、梨央奈の予想とは裏腹に、余計に冷たい声を出した。


「やるやん」


 気だるげに万里が自分の首の後ろに手を当てた。少しかがんでも、梨央奈よりもずっと高い視線から、梨央奈を見下ろす。


「コタロークンの塾突き止めて、通い出したんや。こんな時間まで一緒にいられるもんな」


 いつも通りの平坦な声を装っていたが、その声には紛れもなく、怒りが滲んでいた。


(なんでこんな怒ってるん……?)


 まさか本当に、久世先生が言うように、フラフラしているように万里にも見えたのだろうか。


(受験。応援してくれてるって、思ってたんに……)


 梨央奈は応援されていたかった。特に、万里には。


「スマホも。上手い上手い」

「……え?」

「見つけてもらえてよかったな」


 万里が何を言っているのかわからなかった梨央奈は、数秒後に言葉の意味を理解してカッと顔を赤らめた。


 万里は、琥太郎に追いかけさせるためにわざと梨央奈が車の中にスマホを置いてきたと言っているのだ。琥太郎との特別な時間を演出するために。


「告白する気はないとか言って。梨央奈もやっぱ女やな」


 冷たい瞳と声が梨央奈に突き刺さった。

 門扉の僅かな明かりが、万里の端正な顔を照らす。


 冷淡な視線を浴びれば浴びるほど、梨央奈の心にふつふつととある感情が湧き出てきた。梨央奈は拳を握りしめ、ぶるぶると体を震わせる。


「そっれが――」


「?」


「それがっ、なにかっ、貴方にっ、迷惑を、かけましたかっ?」


「!」


 もう我慢ならなかった。

 応援してくれているとばかり思っていた万里から軽んじられたショックは、恐れを怒りに変えた。


(―― 一緒に広島に行くって、言ったくせに!)


 誰のせいで、こんなに必死に頑張ってると思っているんだ。もちろん自分のためだが、そんな風に心の中で八つ当たりをする。悔しさと怒りで、梨央奈は声を震わせた。


「私が女で、何か、貴方にご迷惑を、おかけしましたか?」


 にっこにこの笑顔で、額に青筋を浮かべた梨央奈が言うと、万里は顔を引きつらせた。


「梨央――」


「って言うか、お忘れのようですが、最初から女だわ。男だった瞬間なんか一度もないわ」


「梨央奈――」


 ぶち切れた梨央奈を万里が慌てて取りなそうとするが、梨央奈は一切請け合わなかった。先ほどまでの威圧感は消え失せている。


「清宮さん」


「はい」


「おやすみなさい」


 今まで生きてきた中で一番強い眼力で万里を睨み付けた梨央奈は、そのまま振り返りもせずに玄関へと向かった。

 バタンッと勢いよく、近所迷惑なほど大きな音をたてて玄関扉を閉める。


「あれ? 清と会わんかった? いくらなんでも遅いって、梨央奈迎えに行ったんやけど」


「そんな失礼な人、ちょっと存じ上げませんね!」


 廊下で出くわした泰輝に怒鳴ると、梨央奈はドスドスドスと洗面所に向かった。一刻も早くシャワーを浴び、こんな煙草の匂いを落としてしまいたかった。




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