17:終わった恋の見つめ方
梨央奈の通っている塾は、塾が開いている時間帯なら、授業時間以外は好きに自習室を使える。とはいえ塾が大好きな生徒なんて早々おらず、大半の生徒は授業が終わればすぐに帰宅する。
ただ中には塾で勉強したがる物好きな生徒もいて、学校から直行する生徒もいれば、塾の授業を終えた後、塾が閉まるまで居座っている生徒もいる。
梨央奈は後者だった。授業が終わると、母に貰った夕食代を握りしめ、近所のコンビニへ向かう。空き教室で簡単にご飯を詰め込むと、また自習室に戻って勉強を続ける。
「西ー、吉岡さーん。今日も僕が乗せて帰るから」
「はーい」
「お願いします」
ひょい、とドアの向こうから顔を覗かせた久世先生が、自習室に残っていた最後の二人――梨央奈と琥太郎に声をかける。
梨央奈の通う塾は、定刻に古い大型バスで生徒を送迎するのを売りにしている。しかし当然のことながら、夜の十一時にもなればバスの送迎時間はとうに過ぎている。
原則、居残る生徒は自力で帰るよう言われてあるが、梨央奈と琥太郎は久世先生の厚意で家まで送り届けてもらっていた。
「電気消していい?」
「うん、ありがとう」
鞄の中に勉強道具をしまい込んだ梨央奈は、教室のドアを潜りながら琥太郎に礼を言う。琥太郎は、パチンと音を立てて電気のスイッチを消すと、自習室の扉を閉めた。
高校二年のクリスマス――恋心が罪悪感に負けた日。
琥太郎への想いは梨央奈の中で、既に過去のものになっていた。
三年生になって入った塾に琥太郎がいた時は、自分勝手にも居心地が悪くなった。
夏帆を通じて顔見知りになってしまっているせいで、知らない振りをするわけにもいかず、こうして二人で残る時は、一人で気まずくなってしまう。
「君達は立派だねえ。毎日毎日飽きもせずこんなとこ来て……」
「飽きてますけどね」
「出来れば来たくないですけどね」
久世の戯れ言に、琥太郎と梨央奈は疲れを滲ませた声でつっこむ。
琥太郎と久世先生とともに、塾を出る。久世先生が塾を施錠すると、駐車場に停めてある先生の車に三人で歩いた。
電気の消された塾は、いつも通っている場所なのに、どことなく不気味に見えて早足になる。
通学鞄を胸に抱え「お邪魔します」と言って、久世先生の車に乗り込む。
煙草の匂いが染みついた車内は、梨央奈が唯一知っている男の車と、全然違っていた。
夜の田舎の道路は基本的に車が通っていないため、閑散としている。信号が点滅信号に変わっている箇所もある。夜に出歩いたことなどなかった健康優良児の梨央奈が夜の町の匂いを知ったのは、塾に通い始めてからだった。
「吸ってい?」
「どうぞ」
「ごめんね。窓開けるから」
久世先生は運転席側の窓を僅かに開けると、煙草に火を付けた。塾にいる間は電子煙草にしているらしく、物足りないとよくぼやいている。帰宅時間のこのタイミングで吸う煙草を、久世先生はとても楽しみにしていた。
琥太郎は助手席に座り、梨央奈は後部座席に座る。前の席の会話は聞き取りにくいため、いつも梨央奈は後部座席の真ん中に座って、二人に顔を近づけていた。
家族のグループLINEに「今から帰ります」と打っていると、運転している久世先生が梨央奈に話しかける。
「吉岡さんは女の子なのにこんな遅くまでフラフラしてて、怒られないの?」
「……本当にフラフラしてたら怒られるかもしれないですけど、塾ですから。怒られませんよ」
遅くなったら連絡しろとは言われているが、冬に一人で牡蠣を焼くのを容認していることからもわかるように、基本的に放任主義だ。人に迷惑をかけたり、命の危機でもない限り、梨央奈がしたいことをさせてくれる。
「そうなんだー。僕ね、最近知人に女の子が産まれたんだけど、そっりゃもう可愛くってねえ。こんな時間に野郎の車になんか、絶対乗せたくない」
「いや、自分のこと野郎って……」
「あっはっは。僕みたいな男の車なんか絶対乗せない」
笑い声をあげたくせに、久世先生は真顔で言い切った。よほど可愛い子なのか、小さい子が好きなのだろう。
(……清宮さんは、小さい子好きかな)
好きでも嫌いでもなさそうだ。
怖がられれば近寄らないし、近寄られれば相手をするタイプだろう。相手をするとなれば、かなり上手に遊んであげそう――なんてところまで考えて、はたと気付く。
(なんでここで清宮さんが出てくるん……)
勝手に脳内に入り込んできた万里に少々ムッとして、梨央奈は考えるのをやめた。そして考え込んでいる間に、車窓の向こうが家の近所の景色になっていることに気付き、慌てて声をかける。
「あ、先生そこでいいです」
「りょうかーい」
大通りから一本入った場所にある吉岡家の前の道は、私道のために随分細い。車通りのない時間とは言え、遠慮が勝つ。
ここからなら歩いても一分もかからない。いつも久世先生に送ってもらう時は、ここで下ろしてもらっていた。カッチカッチと音を立ててウィンカーをつけると、久世先生は車を路肩に寄せた。
「じゃあ、また来週」
「気をつけて帰ってね」
「ありがとうございました」
車を出ると、久世先生と琥太郎それぞれ窓越しに手を振って、梨央奈は歩き始めた。
学校指定の重い鞄を肩に担ぎなおし、家路を辿る。田んぼの上を通り抜けてきた、夏の夜の匂いがする。
――チチチ チチチチチチチ……
――ホッー ホホッホホー ホッー ホホッホホー
虫や、蛙、鳩の鳴き声が騒がしい。一瞬で夏物のセーラー服が梨央奈の太股に張り付いた。
街灯すらほぼない夜道を感覚で歩いていると、玄関先に人の影があることに梨央奈は気付いた。
「遅い」
でかい図体と、玄関灯に照らされた白い頭で、遠目でも誰だかわかっていた。梨央奈は自宅の門扉をキィと開けると、しずしずと敷地内に入る。
「こんな時間までなにしてたん?」
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