21:恋というもの

 人と人が触れ合えば心が動くものだということを、夏帆は知らなかった。


 好きな人なら、人並みにいた。


 クラスの女子皆が好きだったりょーちゃん。

 仲のいい友達と好きな人がかぶっていない証明に、好きになった山瀬君。

 大人で優しくて頼りがいのあった、小学生の頃の教育実習生の久世先生。


 その誰とも、拓海に対する感情は違う気がした。


 手を繋いで話をする時、少しかがんでくれるところ。

 突拍子もないことを言っても、笑うだけで呆れないでいてくれるところ。

 仕事バイトの愚痴を言わないところ。

 友達と仲がいいところ。

 いつも夏帆が食べ終わるまで、決して急かさずに待ってくれるところ。

 両手で履歴書を受け取ってくれたところ。

 優しくしようと努力してくれるところ。


 いいなと思うところは、多分無限に挙げられる。


 元々、いいなと思って声をかけた人だった。声が好きだった。隅っこにいた夏帆に気付いてくれた。


 たったそれだけの、いいなだった。

 けれどそんなものと今は、全く違う。全然違う。


 男の子の背中だ。男の子の指で、男の子の声。

 手を繋ぐのも、カフェへ行くのも、LINEをするのも、男の子とは全部初めてだった。


 だから、こんなに嬉しいのだと、そう思っていた。





「夏帆さん、今日何時頃電話してい?」

 移動教室の最中に三組を通った拓海が、窓際に座っていた夏帆を見つけ声をかける。

 何の予告もなく話しかけられ、夏帆は大きく動揺した。


「あっ……今日は、夜までバイトある日やから」

 顔面がカチンコチンに固まってしまったのを感じる。必要以上に澄ました声が出た。


「なら十時頃?」

「――うーんと」

「……――あー。もしかして都合悪い?」

「多分。出来そうだったらLINEする」

「ん」


 お互いに手のひらを見せ合って、軽いバイバイをする。拓海はすぐに窓から離れ、琥太郎らと六組へと戻っていった。


 拓海がいなくなったことにほっとする夏帆を見て、前の席に座る梨央奈が怪訝な顔をする。


「どしたの夏帆」


 夜までバイトがある日でも、いつも普通に電話をしていたことを梨央奈は知っている。


「だって、急だったんだもん」

「なにが?」

「拓海君が通るなんて、思ってなかった」

「は?? そんなん、いっつも普通に対応してたやん」


 心底訳がわからない、という顔をする梨央奈に、心がふふふと笑う。


「そっかぁ。ドキドキしちゃったんや~」

「えっ、なん。そういうこと? いつの間に?」

「ううう……」


 夏帆が机につっぷすと、立っていた心がしゃがんだ。夏帆の座っている席の机に両手を乗せ、天板から顔を半分ほど覗かせる。


「いー感じやったもんねー。二人」

「そおー?」

「ふふ。梨央ちゃんにはココがおるやん~」

 心がにへらと笑うと、梨央奈は心の髪を取って、無言で編み出す。


「……私、さっき。素っ気なかった?」


 机から体を起こし、両手で頬を隠しながら、夏帆は尋ねる。


「ちょっとね」

「んん……なんか、こないだから上手く話せなくて」


 拓海から触れられ、彼の輪郭が強くなったあの日から五日――夏帆は上手く拓海と接すことが出来なくなっていた。


 午後まで通常通り授業があるとはいえ、今日は終業式だ。明日から冬休みに入る。拓海と学校で会うのは、今日からしばらくの間おあずけ。


 だというのに、夏帆は拓海との距離にも戸惑っていた。これまでの自分は何を考えていたのかと問い詰めたいほど、近い。


 日課にしていた一日一ぎゅっも、出来なくなっていた。

 そもそも、いつも夏帆から抱きついているため、夏帆がしなければ成立しない。拓海も「しないの?」と尋ねてくることもなかった。夏帆がしたいからさせていただけで、拓海にとっては忘れてしまう程度の日課だったに違いない。


 帰る時はいつも繋いでいる手も、上手く繋げる気がしなくて、最近はずっとスマホを手に持っている。隣にいる拓海に話しかけられてもそちらを向くことが出来ず、真っ直ぐ前を見たまま会話を続ける不自然さだ。

 家に帰ってからのLINEの返事も、いつものようにポンポンと送り返すことが出来なくて、既読をつけてから無駄に時間をたててしまう。

 土曜日にまた街に出かけた時も、前みたいに色んな店に勝手に入ったり、物色したりすることが出来なかった。言葉数も少なく、あんなにリサーチしてくれた拓海の厚意を無下にするようなデートにしかならなかった。


(好きな人なら、いたつもりやった)


 だから、たかだか恋ごときで、こんなにも自分がままならなくなるとは思ってもいなかったのだ。


「嫌な女だって思われたかな」

「何それ、知らんわ」

「ごめんね。生理やったん~って言っといたらいーんだよ~」


 こちらに来ようとしていた松木が、心の言った「生理」という単語にびくりとして、反転した。魔除けのような効果を目の当たりにした夏帆は、また突っ伏す。


「そんなの拓海君には言えないよ……」


 言ってから、松木に生理だと思われても、気にもしなくなっている事に気付いた。

 あんなに自意識の塊で、男子からどう思われるか悩んでいたというのに、弁解しようとすら思わなくなっている。


「やーん。夏帆ちゃん可愛い~」

 髪の毛を編み込まれた心が、ぎゅっと夏帆に抱きつく。素直な心の可愛さにきゅんとした夏帆は、梨央奈を見た。


「梨央奈……私もしてくれる?」


 髪の毛の先を両手でぎゅっと握った夏帆に、梨央奈はくいっと顎をあげた。




***




 サイドを編み込んだ髪を、高い位置で一つに束ねる。ポニーテールを揺らしながら夏帆は、廊下を歩いていた。


 今日は拓海も夏帆もバイトの日だ。拓海はまた出来る限り早く来てほしいと言われているらしく、別々に帰ることになっていた。


 しかし、せめて先ほどの態度を直接謝りたかった夏帆は、一瞬でもいいから会えないかと期待して六組に向かった。拓海なら、約束もせず夏帆が会いに行っても、嫌がったりはしない。


 習字教室に通う小学生を待たせるわけにもいかないので、扉から覗いて、拓海がいなければすぐにバイトに向かうつもりだ。その時は帰宅後に拓海にLINEで謝ろう――そう思っていた夏帆は、六組の教室に向かう廊下で足を止めた。


「夏帆さんに、ちょっと困ってる」


 琥太郎と拓海が、六組の教室の前の廊下で会話をしていた。二人とも窓の方を向いているため、近付いた夏帆に気付かなかったのだろう。六組の前の廊下は丁字になっているため、夏帆は思わず隠れてしまった。


 自分の名前の後に続いた、不穏な言葉に心臓がバクバクする。


「――夏帆さんのあの、悪い癖あるやん」


 息を呑む。


「あー。あれはちょっと、びっくりしたね」

「ちょっと? 嘘つくなよ。サユチャンで想像してみろよ」

「……んー。俺にだけならいいけど」

「マジで?」

「嘘ついた。今だとちょっとまずいかな」

「――俺も、前は。びびるけど面白いなくらいにしか考えてなかったんやけど……もう最近、普通にやばい」


 窓の手すりに両肘を突き「我慢出来ん」と拓海が腹の底から本音を吐き出すような声で呟いた。


 琥太郎は微かに頭を縦に振った。きっと小さく「うん」みたいな相槌を打ったのだろうが、さすがにその声までは聞こえなかった。


「早くこの期間終わらんかなって、ずっと考えてる」


 拓海のため息交じりの声に、琥太郎が困ったような笑みを向けた。そして大きな手のひらで、拓海の背をポンポンと叩く。


「がんばれ」

「ん。……とりあえず、クリスマスまでは、どうにか耐えるわ」


 そこで会話は打ち止めになった。二人が黙っていると、教室から「コタロー! 三浦ー! 先生来たよー!」と呼び声が掛かり、二人は窓から離れて教室に戻った。


 夏帆は引きずるように、脚を動かす。


 ずっと、息を止めていたような気がした。

 呼吸をする度に無数の棘が心臓に突き刺さるような痛みで、まともに思考が動かない。


(悪い癖? 普通にやばい? ……我慢出来ん?)


『……とりあえず、クリスマスまでは、どうにか耐えるわ』


 夏帆が信じていたものや、拓海と一緒に築き上げたと思っていたものが、音を立てて崩れていく。


(拓海君はこの関係に満足してなかった? それどころか、私の事を、我慢出来ないほど……)


 悪い癖と言っていた。気付かない内に、何度も何度も――なにかしてしまっていたのだろう。


 拓海は優しい。

 きっと、夏帆を傷つけないように、夏帆には言わないでいてくれた。


(私が彼女・・だから、優しくしてくれる。けれどそれは……だから、優しくしてくれてたわけじゃない)


 そもそもが、そういうことを見極めるための「お試し期間」だった。


 理に適っている。正しい活用の仕方だ。拓海は夏帆を裏切っていない。拓海は何も、悪いことをしていない。耐えられない、と言わせるほど拓海に酷いことをずっとしていたのは、夏帆だ。


 気付けばいつの間にか校舎を出ていた。いつもは二人で帰っていた道を一人で歩く。

 前に戻っただけ。これが普通だった頃に、戻るだけ。


(好かれてるかもなんて、ほんと笑える。いつまで経っても私は――自意識過剰だ)


 十二月の冷たい空気が、夏帆の心に吹き荒れた。




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