10:世界一可愛い弟
(――あの時にはもう、好きだったんだ。この人を)
けれど、そのままでは勝負にすらならないと知っていた。
もっと努力してこの人に意識される自分にならなければ、恋愛対象に見てもらう土俵にすら上がれていないのだと、きっと本能で悟った。
「今度お母さんにも淹れてあげてよ」
「うん。練習するから、また飲んでね」
「おっ。いいよー。お母さんにお披露目するまでに、こっそり腕上げとこっか」
にこにこと表情を緩めた早雪が琥太郎を見下ろす。
「琥太君は、話す時のリズムがいいね」
「?」
「私の話、聞いてくれてるんやなってわかる」
「そりゃ、会話してるからね?」
早雪と琥太郎は高低差こそあるが、目の前にいて、確実に声が聞こえる距離で会話をしている。
「そうやなくって――なんて言ったらいいんかな?」
頭よくないから、上手い言葉が出てこん。と困ったように笑う早雪に、琥太郎も一緒に笑った。
「大丈夫。なんとなくわかるよ。人の話、どうでもいいなって思いながら聞くこと多いし」
「ええ?」
琥太君が? ほんと? と驚いた顔をしたあとに、早雪がふっと笑った。
「そうやった。この子、面倒くさがりな上にメンタル鬼つよやった。見た目がいいから忘れてた」
「さゆちゃんのおかげやね」
「言うようになりおって」
笑う早雪が身を寄せて、琥太郎の頭をワシャワシャと撫でる。
「じゃあ私も、適当に流されてることあるんかな」
「え? ないよ」
「え? ないの?」
「うん。俺、さゆちゃんの話は全部ちゃんと聞いてる」
記憶力はいい方なので、彼女と話した内容もほとんど覚えている。早雪と話す時は、さっさと会話を終わらせるための言葉を選んだり、上辺だけのお世辞を言ったりしない。
「えー。何。うちの弟、まじで世界一可愛いんだけど……」
しみじみと言う早雪に、自分の立ち位置を認識させられる。
「弟最高。ずーっと自分の弟が欲しかったんだよねえ」
「その理由で欲しかったなら、嘉一君よりかは遙かに人道的に扱ってもらっててホッとするよ」
春休みの間に、早雪と一二美の嘉一への対応を散々見ていたせいで、琥太郎は半ば本気で言った。
琥太郎は元々一人っ子な上に、そこまで人と深い仲を築いたことがない。父息子の間ですら遠慮がある。家族だからといって、あんな風に甘えたりつっぱねたりしたこともなかった。
琥太郎がしみじみと感じていると、早雪がスッと目を細め、真剣な表情をした。
「琥太君、ありがとうね」
琥太郎は笑みを深めて続きを促す。
「さっき、お母さん達の前で、何も言わないでくれて。――あーあ。なんともないつもりやったんに、連絡先消したらしんみりしちゃった」
琥太君のこと、酷く言ったクソ野郎なのにね。と、後半は明るく早雪が言った。先ほど縁側で、気持ちを切り替えていたのかもしれない。
「消す派なんだ」
「うん。まあ無理でしょ。寝といて今更友達とか」
ゴホッ、と琥太郎は咽せた。口から噴き出したココアが部屋着に飛び散る。
「琥太君!? 大丈夫!? ごめんね?!」
早雪がテーブルに、自分の分と琥太郎の分のココアを置き、慌ててティッシュボックスを持ってくる。ありがたく受け取り、ジャージに染みたココアを適当に拭き取った。
(――好きだって気付いたら、唐突に気持ちが追いついてきてしまう)
これまで早雪が恋人の家に外泊することは、当然あった。
経験はなくとも、そういうことをしているのだろうと邪推する程度の知識はある。
(ただ、好きって気付いただけなのに……)
それだけでこんなにもしっかりと、嫉妬を自覚するとは、思ってもいなかった。
「ほんとごめん。そうだよね。まだ十五歳……。いやあ、嘉一とか表情一つ動かさず普通に聞くから……」
それは随分と耳年増になっていることだろう。
赤裸々に話す一二美と早雪の間に座り、お菓子を摘まみながらゲームをしている嘉一がまざまざと想像出来てしまった。
「……さゆちゃん」
「ん?」
「恋人、またすぐ作るの?」
「んー。そうだねえ」
先日の眼鏡屋の男を思い出す。あの感じからして、出会いが少ないとは思えない。
早雪の返事が曖昧なのは、わからないからだろうか。それとも、「寝る」なんて単語一つで噴き出してしまうような子どもに、詳しく話をするつもりがないのだろうか。
琥太郎はぎゅっと早雪の服を掴んだ。
「作んないでよ」
「琥太君?」
「さゆちゃん男見る目ないし」
「おい」
「俺を世界一格好良くしてくれるまで、俺に専念してよ」
早雪の顔を覗き込むように、下から琥太郎が見上げた。琥太郎から、こんなに早雪に近付いたことはない。
降る沈黙に、胃がキリキリとし始めた頃、早雪がガシッと琥太郎の両頬を掴んだ。
「……――可愛いかよっ……!!」
「?」
「わかった。さゆちゃん、焦って彼氏作んないことにする。またクソ野郎掴まえたら……って、さゆちゃんの心配してくれたんやね。ありがとうね。もうほんと可愛い」
意図は違うが、違うと説明するようなことでもない。
琥太郎は早雪の答えに満足して、にこにこと笑って聞いていた。
***
「あら。あーあ、こんなところで」
パチリ、と目を開ける。
カーテンを閉め忘れていたせいで、リビングの大きな窓から朝日が入り込む。ついたままのテレビでは、四本の色違いの列車を背景に、サイコロがコロコロコロコロコロと転がり続けている。
カーペットに座る琥太郎はソファーに寄りかかり、ゲームのコントローラーを持ったまま寝落ちていた。早雪はソファーの上で、丸まるように横になっている。
「二人でゲームしてたみたいやね」
「だいぶ暖かくなってきてるとはいえ、まだ寒いのに……こら早雪。琥太ちゃん風邪引かすんじゃないわよ」
早雪と琥太郎の上には、一枚ずつ肌掛けがかかっていた。先に寝落ちてしまった琥太郎に、早雪がかけてくれたのだろう。
琥太郎が寝ぼけ眼でぼんやりと聞いていると、典子が早雪の肩を揺すった。
「あんた今日バイトじゃなかったっけ?」
「――やばい!」
口の端から涎を垂らしていた早雪は、一瞬で起き上がった。
「今日、朝からっ!!」
「お馬鹿! さっさと行きなさい! 先輩待たせたら立場なくすよ!」
「ぎゃああああ」
悲鳴を上げながら、早雪は髪をまとめつつ階段を駆け上る。典子が慌てて小さなおにぎりを三つ作り、ラップに巻いてタッパーに突っ込む。
「信号待ちで食べなさい」
「ありがとうー! 今日はもうマスクしていく! 目だけトイレでメイクするっ!」
典子から朝食とも弁当とも呼べないタッパーを受け取ると、早雪は「いってきまーーす!」と元気よく玄関から飛び出した。
台風一過とばかりに、西家の朝に静けさが舞い戻る。ビシッとスーツを着た昭平と違い、やれやれとばかりに娘を見送った典子はまだカーディガン姿だ。朝の早い時間から予約が入っていない限り、典子が隣の店へ顔を出すのは九時頃である。
「琥太ちゃん、寝づらかったんじゃない? ご飯食べたあともっかい寝てきてもいいからね」
「典ちゃん甘やかさなくていいよ。それより琥太、いくらお姉さんになったからって、さゆちゃんは女の子なんだから――」
「お父さん、お母さん」
早雪がバタバタと用意している間、ソファーの座面にしなだれてスマホをいじっていた琥太郎は、ゆったりと起き上がって両親の前に移動した。
「なんだ?」
「どうしたの?」
朝の用意の中、琥太郎を振り返った二人に、スマホを突き出す。
「俺、将来さゆちゃんと結婚したい」
液晶画面には法律事務所のQ&Aページが表示されており「連れ子同士での婚姻は法律上何の問題ありません」と書かれている。
「――っえええええええ!!??」
琥太郎の言葉とスマホの中の文字に、両親の目玉が見開かれる。
西家の朝の静けさは、露と消えた。
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