08:初恋のあとあじ 1
「――あの」
学生服を着た誰もが顔を強張らせ、受験会場である志望高校まで歩いていた、中学三年生の朝。
「これ、落としませんでした?」
声をかけられた気がして振り返った梨央奈に、一人の男子学生が一枚の紙を差し出していた。
訝しんで梨央奈が彼の手元を見ると、その小さな紙切れは受験票だった。
外では強気な顔をするくせに、梨央奈は実は小心者だった。
受験校に来るまでに不安すぎて、梨央奈は何度も受験票を取り出し、持って来ているかどうかの確認をしていた。最後に確認した時に、しまい方が悪く、鞄から落としてしまっていたのだろう。
道に落ちていたのを拾ってくれたと思わしき男子学生に、顔を青ざめさせた梨央奈は頭を下げ、受験票を受け取った。
「……わ、私のです! っありがとうございます!」
「いえ」
冴えない眼鏡をしたボサボサ髪の男子学生は小さく会釈をすると歩き出し、梨央奈を通り過ぎた。
高校の門に入っていく後ろ姿を、梨央奈は少しの間、頬を染めてぼうっと見ていた。
この時の梨央奈は、まさかそれから数ヶ月後に――
「これ、落としましませんでした?」
同じ声を、違う顔から聞くなんて、思ってもいなかった。
梨央奈の落としたプリントを拾ってくれた、女子の間で話題の男子生徒の声を聞いて、梨央奈は心臓が止まりそうだった。
――こんなの、恋が走り出しちゃっても、しょうがないじゃないか。
***
梨央奈はリビングのソファーに座り、スマホを見ていた。
ソファーの座面に両足を乗せ、ソファーの肘掛けにおいた自分の片腕にしなだれて丸まっている。
その表情は、幸せをどこかに置いてきてしまったかのように、ほんのりと虚ろだ。
「そういうのが好みなん?」
ソファーのスプリングが沈んで、座面が揺れる。すでに聞き慣れた、低い声が隣からした。梨央奈がもたれかかっていた方向とは反対側のソファーに、万里が座ったのだ。
背もたれに回された腕は、梨央奈の肩までゆうに届いている。
泰輝の部屋で遊んでいたはずの万里が、至近距離から梨央奈のスマホを覗き込んでいた。
「やめてください。見ないで」
梨央奈はスマホを胸に抱くと、自分の顔も腕に押し付けて万里から隠れた。
スマホの画面を見られるよりも、赤面を悟られるのが嫌だった。
こんな風にホイホイと距離を縮めてくるこの男と違い、梨央奈は純情なのである。好きな男でなくとも、とびきりのイケメンがこれほど近付けば、顔の一つや二つや三つ赤くなる。
「俺の方が顔いいやん」
「……顔がいい男は言うことが違いますね」
呆気にとられ、梨央奈は万里のほうを向いた。心底関心して言う梨央奈に、万里が笑っている。先ほどの言葉が、顔を自分に向けさせるための呼び水だったことに気付いて、悔しくなる。
「雰囲気はいいな」
「まだ言うか。実物も格好いいですよ」
胸で隠していたスマホの画面を開く。表示されているInstagramの画面を見て、万里は興味深げな声を出した。
「会ったことあんの?」
「……同級生です」
その一言だけで、梨央奈が見ていた写真の相手が、梨央奈にとってどういう人間なのか見破った万里が「へえ、そうなん」と眉を上げてうそぶいた。
「面白がってる!」
梨央奈はくっついている体に向かって、ぐっと力を込めた。びくともしなかったが、梨央奈の反抗心を汲み取り、万里が梨央奈の背中をポンポンと手のひらで叩いて宥めようとする。
「そろそろ告白した?」
「してませんし、するつもりもありません。コタロー君、好きな人いるって有名やし」
梨央奈の好きな相手――
Instagramで学校の誰よりもいいねを押されていて、高校デビューした男子で、それを全く恥ずかしがっていない。格好良くて、頭がよくて、堂々としていて、優しくて――そして、好きな人がいるからと、全ての告白を断っている。
「梨央奈、ママさんと一緒でミーハーやったんやな。俺に興味ないから、こういうやつ嫌いなんかと思ってた」
いけしゃあしゃあと、万里がもの凄いことを口にする。
スマホを梨央奈の指からすり抜くと、万里はしげしげとInstagramの画面を見た。画面を勝手に触りはしないが、表示されている写真をよく見ようと顔を近づけている。
「ミーハーやないもん。好きになったん、コタロー君の優しいところやし」
「へえ? コタロー君に落とし物でも拾ってもらったん?」
顔を真っ赤にした梨央奈に、万里はにやーっと口の端を持ち上げる。
「図星なん。梨央奈、お前ほんと可愛いな」
「清宮さん嫌いっ」
梨央奈はスマホを取り上げると、両膝に突っ伏して顔を伏せた。もう何一つ、万里に情報を与えたくない。
「告白せんの?」
「せん」
「男に受ける服、選んでやるよ」
「いらない」
「ぐっとくる告白の仕方、一緒に考えるか?」
「やだ。いらんってば、やめて。コタロー君のことは、もういいんやもん。諦めるの」
丸めていた体をもっと縮める梨央奈を見て、万里が梨央奈の背を撫でる。
「梨央奈?」
その声が優しくて、梨央奈はつい甘えてしまう。
「……モテる清宮さんには、わからんもん」
「なんで。お前可愛いやん」
「そんなん言うの、泰ちゃんだけやもん」
「俺も言ったやん」
「泰ちゃんが言うからやろ」
困ったようにため息をついた。呆れられたかと焦ったが、万里が撫でる手を止めなかったので、梨央奈はほっとする。
しかし、そんなことでほっとしてしまった自分を許したくなくて、梨央奈は誤魔化すように口を開いた。
「告白なんて……そんなこと、する資格もない」
「ん?」
いつもこちらをからかって遊ぶくせに、こんな時ばかり――梨央奈が本当に望んでいる時ばかり――万里はいつも優しい声を出す。
梨央奈は胸に込み上がってきた熱さを堪えきれず、自分の両膝を抱く手に力を込めた。
「……こないだの、クリスマス」
「うん」
「夏帆が彼氏と別れちゃったの」
「うん」
万里も吉岡家に顔を出していたので、詳細な説明は必要なかった。夏帆がどんなに悲しんでいたか、万里は直に見ている。
「――そ、そのと、きっ」
梨央奈の目から、涙が零れた。泣くのはずるいとわかっているのに、抑えきれない。
万里の腕に力がこもって、抱き寄せられる。
その温もりが更に、梨央奈の涙を溢れさせた。胸を締め付ける苦しみを吐き出して、万里の匂いを吸って。途絶えることなく嗚咽が漏れて、喉が痛い。
「か、夏帆っ、泣いてたのにっ……」
「うん」
「わ、私っ、夏帆が、コタロー君に、会っ、たって、聞いて、な……何話っしたん、かなとか」
「うん」
「誰と、いたのかな、とかっ。――く、クリスマスに、一緒にいたなんて、その人っ、が、コタロー君の、す、好、きなっ人なんかなっ、とか」
「うん」
本当に、元々告白なんかする気なんてない、恋だった。
自分が学校で一番目立つ男の子に恋をする、モブの一人だとわかっていた。
モブはモブらしく、学校で気配を感じて、Instagramで日常の顔を覗いて、偶然にも夏帆を介して紹介された幸運にこっそり浮かれて――本当に、それだけでよかった。
なのに、大好きな夏帆が泣いている時でさえ、梨央奈は琥太郎を思い出してしまった。
「夏帆のこと、考え、てっ、あげられんかっ――」
「そんなことないやろ」
梨央奈を抱いていた万里の腕が、しゃんとしろ、とでもいう風に、一度力強く梨央奈の体を揺らした。
表情も言葉も淡々としているが、万里の心の熱を伝えてくるように眼差しは強い。
「梨央奈。俺に聞いたやろ」
いつもの万里らしからぬ、強く厳しく――そして、やっぱり優しい声だった。
「どうしたらいいんかって。夏帆の味方でおってやりたかったんやろ」
返事をするために口を開けば、大きな泣き声が出そうだった。梨央奈はこくんと頷いた。
「なら、それが一番やろ」
梨央奈は自分の両膝に顔を埋めると、堪えきれずに泣き始めた。大きな嗚咽が次から次に襲ってきて、肩が大きく上下する。人目も憚らず、小さな子どものように泣いて恥ずかしいのに、全然止まりそうにない。
(そう思っても、いいんかな)
琥太郎のことを一瞬でも考えた自分が裏切り者のようで、夏帆に嘘をついているようで、ずっと苦しかった。
こんな自分を許してはいけないと思い込んでいた梨央奈を、万里が許す。
「梨央奈はちゃんと、夏帆の味方でいられたよ。大丈夫。お前は夏帆のいい友達だし、お前はいい女だよ」
わんわん泣きだしてしまった梨央奈は、いつの間にか万里の肩で泣いていた。
片手でとんとんと、梨央奈の後頭部を万里が叩く。万里の頬と、肩に挟まれて、梨央奈はしとどに涙を流した。
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