15:いつもそこにいる
呆然としたままバイト先に行った心は、パートさんにそれはそれは心配された。
心はいつもにこにことしていて、自分の感情の舵取りが上手い。そんな心しか知らない職場の人間は慌てふためいた。
職場の年齢層は高く、心よりも二回りも三回りも上の人ばかり。
交代前のパートさんが、スーパーマーケットで色々なお菓子を買ってきてくれた。いつもなら大喜びで飛びつく心が何一つ手を付けなかったことに、彼女達はまた頭を抱えたのだが、心にはそれを気にする余裕すらなかった。
(嘉一君……もう泊まり先に着いたかな……)
仕事の合間に、壁に掛かった時計をちらりと見やる。夕方のラッシュを終え、お客さんが少なくなった時間帯は考え事ばかりが捗る。
クリーニング店の名前がプリントされた大きな窓ガラスの向こうは、まだ薄ぼんやりと明るい。
(夏は日が長くて好きだったのに)
空の色が変わらないため、ずっと時間が経っていないようで、じがじがとする。
八時にはシャッターを閉め、閉店作業を終えた八時十五分には店を出た。車に乗り込み、ぽけっとする。すぐにエンジンをかけることすら出来なかった。
エンジンをかけた瞬間に、音楽が流れ出す。行きがけにはテンションが上がった曲を聴いていたくなくて、心はBGMを消した。
なんとか家まで帰り着くと、玄関に倒れ込んだ。
靴を脱ぐために動くのも面倒で、足の指だけでパンプスを脱ぎ捨てる。
リビングまで妖怪のようにずるずると這う。冷蔵庫に嘉一の作ってくれたご飯があるはずなのに、不義理なことに見る気も起きない。
クッションにほっぺたをぽてりとくっつけた心は、鞄からスマホを取り出した。
着信はおろか、新着のメッセージさえ来ていない。
元々、嘉一と心はまめにLINEをやりとりする間柄ではない。何か用事があれば朝晩に伝えられたし、学校に行かない日の大半は嘉一の部屋で一緒に過ごした。
(もうご飯作ったんかな……)
何を作ったのだろう。さっきの綺麗な人と、一緒に食べているのだろうか。
(聞けばいいだけなんに……)
LINEを開く。嘉一とのメッセージ画面の背景には、以前嘉一が作ってくれたご馳走の写真を設定している。
――もう着いた? ご飯食べた?
それだけで聞きにくいのなら、あたかもとってつけたかのように「冷たいもの食べ過ぎないようにね」と、伝えればいい。
(でももし、返事がなかったら……)
あの
LINEの返事がなくても、いつもなら逆に「楽しんでるのかな」と幸せになるのに。
『嘉一っ! やばいっ! まだニジマスとヤマメがおる! 焼いて!』
『まじか。ヤマメにすっぞ。何尾ある?』
焼いて! の声を思い出す度に、心が苦しくなる。
魚が何尾並んでいるかと、嘉一は聞いていた。もしかしたら泊まり先はあの女性の家じゃないかもしれないし、複数人で泊まるのかもしれない。
それとも、あの女性も心と同じで焼き魚を三尾も四尾もペロリと食べてしまうのだろうか。
嘉一の求めた「美味しい!」を、心以上の笑顔で言う女性なのだろうか。
「で、でも。嘉一君ならぁ――」
もう既に彼女と付き合っていれば、「恋人が出来た」と教えてくれるはずだ。
心の家にさえ用事がなければ来ない嘉一が、彼女でもない女性の家に泊まるなんて、絶対にない。
なのに心が晴れないし、こんなことを気にしている自分も納得いかない。
嘉一に彼女が出来れば淋しくなるとは思っていた。
けれど多分心は、自分が大切にしていた嘉一との思い出ややりとりを共有されたり、奪われたり、上書きされたりするとは、一つも考えていなかったのだ。
(もう魚、焼いたのかな……)
――ピコロン
床の上でどろどろうじうじとしていると、通知音が鳴った。
筋力という筋力全てを失っていた腕に力が戻り、心は生まれてきて一番速く動いたのではないかと思うほど俊敏に、スマホを顔の前に持ってきた。
【 KAHO / 夏休みやけど、今度―― 】
ロック画面に浮かんだ通知を見て、心はだらんとまた体の力を失わせた。
(なんだ……)
嘉一ではなかったことにがっかりした自分に驚いて、「違ぁう!」と一人叫ぶ。
「ごめん夏帆ちゃん! ごめぇん~~!」
肘をついて体を起こすと、ポチポチポチ、と慌てて返信を打つ。けれど一往復が限界で、またごろんとリビングの絨毯の上に寝転がった。
「元気が出ない……」
(ご飯食べてないからだ……でも、お腹が空かない……)
こんなこと、生まれて初めてだった。
助産師さえ驚かせたという心の食欲は折り紙付きだ。
何があってもご飯さえ食べれば元気になっていたのに、大好きな嘉一の料理が冷蔵庫にたんまり入っているのに――全く食べたくならなかった。
(見ない振り……が、出来ない)
こんなこと、もうずっとなかった。
見たくないことを見ないように生きるのは楽だった。
落ち込んだり、怒ったり、悔しかったり――そう言う気持ちを持ち続けるのは辛いし疲れる。自分を保てなくなる。
何事も一本線を引いた向こうの世界にあるように、客観視して生きる。
それが、心の選んだ、精一杯の生き方だった。
感情の起伏を減らすため、感情的になることも少なかった。何かに心を動かされることが、ずっと怖かった。
その結果、凄く悲しいことがないかわりに、凄く嬉しいことも少なくなった。
『よく食うんだろ。カレー一つで足りんの?』
『なあ。明日、あんたに弁当作ってきてもいい?』
『俺の作った弁当に、なんか文句あります?』
『橘は今日みたいに食ってくれりゃそれでいいんやけど。食ってくれんの? 食ってくれねえの?』
『小堀、そういうこと言うな』
『……この時期だと、いいとこもう全部埋まってんだろ? 一階の物件とかないよな?』
『モテてません!! ――それと、心もいい子です』
『――心のことなのに、勝手に色々決めてごめんな』
『……心がにこにこして横いてくれんの、いつもホッとする』
『心。飯の相談するぞ』
『まあ、されたかされてないかで言えばされた。けど義務にしたくなかったから、金は貰ってない。百パー俺の善意なことに、心は全身全霊で感謝しろ』
『任せとけ』
『――心は。俺が作ったのを、はぐはぐ食ってたらよくない?』
『……俺が食っていいん?』
『……泣きそう』
『マジで絶対残したくない……』
『ココ。帰るぞ』
『……じゃあ、手でも繋ぐ?』
『俺の楽しみ取んなっつってんだろ』
顔を置いているクッションが、しっとりと濡れる。
――凄く嬉しかったことを思い出そうとした。
浮かんできた記憶には、いつも絶対に嘉一がいた。
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