16:純情と献身


【 嘉一 / 今から帰る 】

【 嘉一 / 夜何が食いたい? 】


【 cocoro / 食べない 】


【 嘉一 / は? 】


【 cocoro / 何も食べたくない 】


 土曜日の昼過ぎに嘉一から着た連絡に、心は寝ぼけ眼で返事をした。結局昨日の夜は嘉一からの連絡を待って、ベッドでゴロゴロとするばかりで眠れなかったのだ。


(ああ、でも食べんと)


 嘉一がせっかく作ってくれたのに。嘉一は心の、「美味しい」を求めているのに。


(嘉一君のために、食べんと)


 そうは思っても、全身が泥のように重たかった。


 スマホを持ったままうつらうつらとしていると、ガチャガチャッと乱暴に鍵を開ける激しい音が玄関から鳴った。


 ――キィッ バタンッ


「心! 入るぞ!」


 いつもチャイムを鳴らし、礼儀正しく靴を揃え、必ずお邪魔しますと言う嘉一らしくない、乱暴な入り方だった。


 リビングのドアを開け、嘉一が駆け込んでくる。ベッドから体を起こし、心はボサボサの髪と寝ぼけた顔で出迎えた。

 非常に焦った顔をした嘉一は、心のベッドまで大股で近付いてくる。


「どうした。体きついんか?」


 心は緩く首を横に振った。櫛を通してもいない心の猫っ毛がふわふわと広がる。


「触るからな」


 心のおでこに手のひらを当て「熱はない……」といった嘉一は、台所へ向かった。冷蔵庫を開け、中に入っている料理が手つかずなことを確認すると、再び大慌てで戻ってくる。


 嘉一はこれまで見たこともないほど焦っていた。


「昨日外で食ってきた? なんかあった? バイトで失敗した? 誰かに嫌なこと言われた?」


 全てに首を横に振る。


 嘉一が心のために丹精込めて作った料理を、一口も食べなかった。

 それなのに、嘉一は怒るどころか心を心配する。


 心が料理を作ってもらう男性も、一緒に食べたい男性も、嘉一しかいなかった。


 そして、ずっと一緒にそうしていた嘉一も同じなのだと、漠然と思い込んでいた。


 こんなに特別な関係を築くのは、恋人だって無理なのだと――そんな風に思っていたのだ。


『廣井のこと、考えてやってる?』


(考えてるよ――年中、四六時中、ずっと! ずっと、考えてる)


 小堀に言われた時、深く考え込まないようにしていた言葉。


(嘉一君のことばっか、考えてるよっ……!)


 本当はもの凄く、腹が立っていた。

 嘉一を自分のもののように言う彼女の物言いに。


 嘉一と心の関係もやりとりも――これまでもこれからもを知らない彼女に、好き勝手に言われることにも。


「バイト、みんないっつも優しぃよ。それに、やなこと言われたって平気。私、クレーム処理上手いって言われるんやから~」


「心……」


「ご飯、せえっかく作ってくれたんに、本当ぉにごめんねぇ。けど、なんか、食べれんくってえ」


「……今から俺が、別の作っても食えない?」


「食べたくなぁい。もう嘉一くんのご飯は食べなぁい」


 無意識に、信じられないほど冷たい声が出た。


 ご飯を作ってくれた嘉一に申し訳ないなんて、よくそんな嘘がつけたものだ。心はこんなに、嘉一の料理を拒絶している。他の女に料理を作った嘉一に、呆れるほどに怒っている。勝手に、裏切られたような気分になっている。


 膝にかかったままだったタオルケットをぎゅっと握りしめる心に、嘉一も冷淡な声を出した。


「じゃあ誰の飯が食いたいんだよ」


「……」


「なんで黙んだよ。しゃべれよ」


「……」


 嘉一が心にこんな辛辣な言葉を向けるのは初めてだった。

 歪んだ表情からも、いつもと違い照れているのではなく、本気で機嫌が悪いことが伝わってきた。


 なのに心は、落ち込むどころか余計に腹を立てていた。むくむくと湧く反抗心をぶつけないためにも、口を閉ざしておくしかない。

 もう、にこーっと笑顔を作ることさえ、出来ない。


「なんだよ……好きな男でも出来たのかよ」


 何も言わず、嘉一の方を見もしない心に、嘉一は途方に暮れたような声を出した。


「そいつに、他の男と飯食うなって言われたん?」


 苛々している嘉一に、心はついに口を開いた。


「……それは、嘉一君やないのぉ?」


「は?」


「好きな子がおるんは、嘉一君やないの、って言ったのぉっ」


 嘉一を見ることも出来ず、握りしめたタオルケットを睨みながら、心はいつも通りの声を出そうと努めた。しかしどれだけ頑張っても、持て余した感情で声が震える。


「そんなん――俺は大昔からいるけど」


 今聞いた言葉が信じられなくて、心は反射的に嘉一を見上げた。心が自分の気持ちを理解するよりも速く、嘉一が心の頬を掴む。


 大きな両手で、痛いほどに顔を固定される。


「何、その顔」


「……」


「なんでそんな顔した」


「……」


「俺に好きな女がいるって聞いて、なんでそんな顔した――心」


 顔を背けようとしているのに、嘉一はそれを許さなかった。どれほど心が力を込めても、嘉一の大きな両手が、心の顔を嘉一の顔の真正面に固定し続ける。

 

 悔しくて、むかついて、傷ついて。心は顔を逸らそうと力を込めながらも、激しく非難する目で嘉一を睨み付けた。


 誰かを睨み付けるなんて初めてだ。けれどもう、自分ではどうしようもなかった。


 こんなにも心の心を動かす嘉一が、憎らしくて堪らなかった。


 しかし嘉一は、心がどれほど睨んでも痛くもかゆくもないという風に、彼女を真正面から見つめる。


「俺の飯以外も、気になるようになったか?」


 嘉一が緊張に濡れた声を出す。


「俺にも、興味出たんか?」


(そんなのとっくに出てるに、決まってる)


 けれど悔しくて、この感情をどうすれば打ち消せるのかわからなくて、心は黙ることしか出来ない。


「言えよ」

「……」

「じゃあ何考えてて、飯食えなくなった」

「……」

「そのくらいなら言えんだろ」


 ぶっきらぼうで、突き放したような言い方だ。

 両頬を掴まれたままの心は、嘉一から目線を外し、観念して呟いた。


「――嘉一君」

「……」

「嘉一君」


 嘉一の反応がないため、心は二度言った。嘉一はじっと心を見つめている。


「それは、ただ呼んだだけ? 質問の答え?」


(……嘉一君なら、察してくれるはずなのにっ)


 タオルケットを握る指先が、白くなるほど力がこもっていた。悔しくて、恥ずかしくて、仕方がない。


「心、言え」


 心と目線を合わせようと、嘉一が腕に力を込めて心の顔を揺らす。


「心、逃げんな。今だけでいいから、俺のこと考えて。今考えてくれたら――あとはもう、いつも通りにしてやれるから」


 怒っていたはずの嘉一の声が、いつの間にか震えていた。嘉一が泣きそうになっていることに、心底驚く。

 胸が痛くなって、心は顔に込めていた力を抜いた。


「俺が他の女と遊んでもいい?」


「……やだ」


「俺が他の女、家にあげてもいい?」


「やだ」


「俺が他の女に飯作ってもいい?」


「やだぁ!」


 顔を掴んでいた両手を嘉一が離した。

 ベッドに片膝を立て、座っている心を両腕で抱き締める。


「なんで?」


「……」


「心、言って」


 嘉一の顔が心の肩に押し当てられた。


(嘉一君……震えてる?)


 彼の体が小刻みに震えていることが、触れた体から伝わってくる。


 いつも自信満々で、頼りになって、不遜な嘉一が――心なんかを相手に震えているのだ。


「言って」


 掠れた声に、肩に吹きかけられる熱い吐息に、怒りが消え、愛しさが溢れてくる。


 どうしようもなく怒ったり、悔しかったり、悲しくなったり、喜んだり、お腹が空かなくなった理由を――心はようやっと見つめた。


「……好きやから」


 しおれた心の声がぽろりと転がる。


 ――恋なんて、するつもりがなかった。


(だって恋は、男の子とするものやから)


 男になんて、期待出来るはずもない。

 男は簡単に心と、心の大事なものをおかしいと決めつけ、踏みにじる。


(でも、嘉一君だけは違う。男の子の中で、嘉一君だけは特別――だから嘉一君とだけは、恋になんて、絶対にならないって……)


 嘉一との関係が何よりも特別だからこそ、そんなものに貶める必要がなかった。


 心にとっての友情は尊く、家族への愛もまた尊かった。

 自分にとって大切な何かに嘉一を当てはめていたくて、けれどぴたりと当てはまる言葉が特別・・しかなくて。

 自分でも上手く嘉一をカテゴライズ出来ず、ただただ、大切にすることしか出来なかった。


(でも――特別、で。特別・・のままで、よかったんだ)


 心が大切にしている特別なもの全てを、恋という名前に書き換えられるんじゃない。


 嘉一と心の間にあった全ての特別・・に、恋という文字が書き加えられる――たった、それだけだったのだ。


「何が。飯が?」


 思いを告げた心を、冷ややかな目をした嘉一が煽る。

 自分の気持ちのかたちにようやく触れた心は、震える唇を開いた。


「――っ嘉一君があ、好きやからあっ!」


 心がやけくそに叫ぶ。その瞬間、体が強く抱き締められた。

 勢い余って、二人してベッドに倒れ込む。

 ベッドが軋む音がする。押し倒された心は唖然としながらも、乗りかかる嘉一の重みさえ愛しかった。


 心を抱き締めたまま、嘉一が体を横たえる。狭いシングルのベッドに横並びに寝転がった。心のふわふわの髪がベッドのシーツに広がる。

 嘉一は心を、ぎゅうううううと強く抱き締めた。


「――長かった……。俺、本当によく頑張った……」


 嘉一が感極まった声を出す。自分の胸に心の顔を押し当てるように、嘉一が心を抱き締める。


 頭部に吹きかけられた震える息には、嘉一の喜びや安堵が滲んでいた。その思いに触れ、心の胸に万感が一気にこみ上げてくる。胸に詰め込みきれなかった愛しさが溢れ、心も小さな吐息を漏らした。


 目を瞑って嘉一の胸に身を任せる。ものすごい速さで、嘉一の心臓が鳴っていた。

 抱き締められた心は、もぞもぞと動く。普段の嘉一ならきっと腕の力を緩めてくれるのに、今日はそんな余裕がないようだった。ぎゅっと力を込めて心を抱き締める嘉一の腕を、心がツンツンとつつく。


「……嘉一君は?」


「んなもん、好きに決まってんだろ……俺の純情と献身舐めんなよ……」


 体が折れそうなほど、嘉一が心を抱く腕に力を入れた。



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