17:恋なんて
「んなもん、好きに決まってんだろ……俺の純情と献身舐めんなよ……」
体が折れそうなほど、嘉一が心を抱く腕に力を入れる。心がツンツンともう一度彼の腕をつつくと、嘉一は抱き締める力をゆるゆると緩めた。
心が顔を上げると、今にも泣き出しそうな、真っ赤な悪人顔と目が合った。この顔を見られたくないのも、抱き締め続けた理由だったのかもしれない。
嘉一の真っ赤な目元を心が指で摩る。くすぐったそうに一瞬顔を逸らしかけたが、嘉一はじっと堪えて心のしたいままにさせた。
もう怒っていないのを確認するように、心は嘉一の顔を好き勝手に撫でる。
二人で同じベッドに寝転んでいるというのに、二人を包むのはゆったりとした幸福感だった。
「……大昔からいるぅ、好きな女ってえ、私ぃ?」
心が下から嘉一を覗き込むと、嘉一は呆れた声を出した。
「他に誰がいんだよ。こんだけ心にばっか時間つかってんのに……他にいたら教えて欲しい……」
何年口説いたと思ってんだよ、と嘉一のほっぺを摘まむ心の指をものともせずに彼が言う。
「……だってえ、ヤマメぇ」
「は?」
「昨日ぉ、一緒にヤマメぇ。焼いたんやろお?」
嘉一はぽかんとして心を見た。
「ヤマメって……え、焼いたけど? なんで知ってんの?」
「……誰ぇ?」
「は? 全員言うん?」
別にいいけど、とほっぺを摘ままれたままの嘉一が指折り数えだした。
「俺だろ、父さんと母さんとじいちゃんとばあちゃんとひーと
「さゆ!」
外泊先が実家だったことに安心していた心は、件の女を見つけ、キリッと眉をつり上げた。ずっと嘉一のほっぺを引っ張っていた手を彼の胸に当て、ぐんと顔を近づける。
しかし嘉一は心の目を見つめながら、やましいことなど一つもないという顔で頷く。
「さゆ」
「……さゆ?」
「そう。さゆ」
どこかで聞いたことがある名前だ。どこで聞いたんだっけ、と考え込む心の髪を、嘉一が指でひと束掬う。
「
「……あーっ!
高校時代、何度か聞いた名前だ。学年一のモテメン琥太郎の高校デビューの立役者の名前を思い出し、すっきりした心は――「え?!」と叫ぶ。
「コタロー君の彼女おっ!?」
お姉ちゃんだったのでは? とぽかんとする心の前で、嘉一は心底面倒臭そうに吐き捨てる。
「あのはた迷惑な馬鹿共の話、したことなかったっけ?」
「な、ない」
「わざわざ話すほど、あいつらの重要度高くねえもんな」
面倒臭がる嘉一に詳しい話を聞けば、こちらに来ていた早雪を送り届けるついでに、実家に泊まってきたらしい。
「迎えに来いって言われて、断ったんやけど……」
「なんでぇ?」
「んなの、土日をさゆなんかに使いたくないからやろ」
心のためにこの一年以上、毎回土日を使ってくれていた嘉一が呆れた顔で言った。
二人を見かけたことを伝えると、ヤマメは旬が終わりそうな上に、スーパーマーケットで売っていることが珍しい魚だったため、二人ともテンションが上がったのだという。
誰かの彼女だと聞くと、もやもやしていたのが随分と軽くなった。しかし現金なことに、恋だと認めたらもやもやがしつこくなってしまっていた。
にこーと笑えばなんでも流せてきた心らしくない、じっとりとした目を嘉一に向ける。
「……いっつもさゆちゃんにも、ご飯作ってるのぉ~?」
随分と慣れた頼み方だった。
嘉一が魚を焼くことがどれほど上手いかなんて、張り合うわけではないが、心だって知っている。張り合うわけではないが。
「生まれた時から一緒やし、家が隣やし――ひーに作ったついでに――――…………何回かは?」
作ったことないよと言えば場が丸く収まるとわかっているのに、そうは言わない嘉一の誠実さを心は評価している。
しているが、ほっぺは膨れた。
「心が嫌なら、これからは絶対作らん」
「いーよぉ。ひーちゃんのついでなら」
嘉一の家族ならば仕方ない。
(でも、それ以外のご飯は全部私のだ)
心は嘉一に顔を寄せた。鎖骨の辺りにおでこをあてて、ぐりぐりと顔を振る。
体を強張らせて動かなくなった嘉一に気付いて、心は顔を上げた。思っていたよりもずっと近くに、嘉一の顔がある。
唇が触れ合いそうだった距離にぎょっとしたのは心だけではなかった。顔を赤くして心を見下ろしていた嘉一は、顔を背けて心の頭をぽんぽんと撫でる。
「――……大丈夫。俺の気の長さは知ったやろ。そんな急にガツガツせんから」
嘉一がこれまで、どんな風に心を見ていたのか、心は知らない。けれど今の言い方ではきっと、心のためにずっと頑張ってくれていたのだろう。そう勝手に喜んでしまうくらいには、心は嘉一のことを知っている。
心は嘉一のTシャツをきゅっと指先で摘まんだ。
「……せんの?」
「あ?」
『心、逃げるな。今だけでいいから、俺のことちゃんと考えて。今考えてくれたら――あとはもう、いつも通りにしてやれるから』
「……
嘉一が呆気にとられた顔をして、視線を心に戻す。
恥ずかしさで睫毛が震え、潤む瞳で嘉一を見つめる心を見た瞬間、獰猛な光が彼の瞳に宿る。スッと表情を消した嘉一が、隣に寝転んでいた心の上に覆い被さった。
「わかって言ってんの?」
ギラギラとした強い視線で嘉一が心を射貫く。身じろぎ一つ出来ない緊張感が心を圧迫した。
一触即発な空気を生み出した嘉一は、心の表情を見てすぐに退こうとする。
「悪い――」
どこかへ行きそうな嘉一の腕を、心が掴んで引き留めた。瞬時に体の動きを止める嘉一の首に手を伸ばし、ぐいっと引っ張る。
そして、見開いている嘉一の目を見つめながら、心は彼の言葉を真似した。
「わかって言ってんのぉ!」
嘉一の顔から、再び表情が消える。凜とした顔つきの嘉一は、真面目な表情をすると怖いほどに冷たく感じる。
真剣な表情で、嘉一は顔を寄せてきた。親密な触れ合いに、心の胸がぎゅっとする。
唇が重なる寸前で、嘉一が目線だけで「いい?」と尋ねる。
緊張で浅くしか出来なかった呼吸が、ほんの少し楽になる。
ゆっくりと瞼を閉じる心に合わせて、嘉一の顔が動く。
優しく触れ合った唇はすぐに離れた。
幸せな心地から、ぽわんとした心が瞼を開こうとした瞬間、顔にぽたりと雫が零れてきた。驚いた心が目を開けると、嘉一は心の頬に、自分の頬を合わせて顔を伏せた。
「くそっ、マジだせえ……」
「か、嘉一君、見たい」
「死んでも見せん」
ずっ、と嘉一が鼻を啜る音が肩口から聞こえた。嘉一の零した涙が嬉し涙であることを祈って、心は嘉一の肩に手を回す。
「嘉一君、ずっと、いっぱい、ありがとおね」
「――いんだよ。何度も言ってっけど。俺が勝手に、好きでやってたんやから」
男と親交を持つどころか、恋なんてするつもりもなかった心のことを諦めないでいてくれた。きっと怖がらせないように、すごく気も遣ってくれた。
そんなに何年間も――心を待ってくれていた嘉一に、ぎゅっと抱きつく力を込める。
『今日は咲かんでも、明日咲けばいい』
唐突に、丁寧に蕾の世話をしていた嘉一を思い出した。
嘉一はきっとずっと、そう言い聞かせて、心の傍にいてくれたのだ。
「嘉一君」
「あ?」
「お腹空いた……」
ぐぅうううう、と盛大な心の腹の虫が鳴き、二人は涙を止めた。
それから冷蔵庫の中の食事を温めて、二人で食べた。心の部屋で二人で食べるのは、初めてだった。
なんでもしてきた二人だが、これからはきっと、初めてのことばかりだろう。
彼は、友達で、
食べたい橘さんと食べ(させ)たい廣井くんの美味しい関係
おしまい
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