14:笑みを象る
「今日、夜帰れん。飯作っとくから食っといて」
夏の名残が残る強い日差しがレースカーテンの隙間から入り込む朝に、食器を洗いながら嘉一が言った。朝食は心が作るため、朝の食器洗いは嘉一の担当だ。
「えぇ? 自分でどうにかするよー?」
「俺の楽しみ取んなっつってんだろ」
そういえば、受験の時にも『今の俺から
「じゃあ、ありがたくー」
わはっと笑ってお礼を言う。嘉一はエプロンを外して冷蔵庫の側面に付けているフックにかけた。
「料理、そっち持ってっとくか?」
「手間やない~?」
「心が運ぼうとして、全部零してオジャンにするよかいいわ」
「そんなことしたことなくない~?」
「ゴミ捨てに行っただけで、階段スッ転んでデコに怪我したことしかないもんな」
「そんな……大昔のこと、持ち出さんくってもぉ……」
このマンションに引っ越したばかりの頃の話だ。ゴミを捨てるタイミングに慣れずに溜め込んでしまい、収集日の朝にゴミ袋二つを抱え、慌てて階段を駆け下りた心がこけたことを、嘉一はいつまでも忘れない。
鼻よりもデコを負傷した心の鼻の低さを、嘉一は涙を流さんばかりに笑ったのだ。
嘉一は涙を流しながら、こけた拍子に散らかったゴミを片付けるのを手伝ってくれた。
こけたことにも、怪我をしたことにも、ゴミを散らかしたことにもびっくりしてしまい、目をまん丸にしていた心は、未だ笑いの収まらない嘉一に支えられて立ち上がり、嘉一がゴミ袋を持ってくれた後ろをただついていき、しょんぼりとしたまま初めてのゴミ捨てを終えた――という、苦い思い出だ。
しょんぼりする心に、嘉一は「くっくっくっ」と口元に手の甲を押し当てて笑う。あの時の、豆鉄砲を食らった鳩のような心の顔を思い出す度に、笑えてしまうらしい。
「今日、授業のあとそんままバイトだろ。家出る前に、勝手にお邪魔しとくから」
何かあった時のためにと、互いに合い鍵を持っている。用事がなくても嘉一の部屋に入り浸る心と違い、嘉一は基本的によほどの用事がなければ心の部屋には入らない。下着を出しっぱなしになどしていないのに、女の一人暮らしということで気を遣ってくれているのだろう。
(いつでも勝手に入ってくれていいのに)
なんて言えば、慎みを持てと睨まれることはわかりきっていたので、心はいい子に「はぁい」とだけ返事をした。
***
バイト先のクリーニング店は、スーパーマーケットの駐車場にある。授業を終えた心は、いつも通りに車でバイト先に向かった。通勤時にマンションを通れば、嘉一の駐車スペースは空になっていた。すでに家を出ているのだろう。
車から流れるBGMは、嘉一とYouTudeで「歌ってみた」を聴きまくった曲だ。
女性の歌う片思いの曲。
料理や勉強をしながら、嘉一は少し掠れた、いつもより高い声でこの曲の鼻歌を歌う。
その声が好きで、彼が歌い出すと心は耳を澄ませる。心ががっつり聞いていると知ったら歌うのを止めてしまいそうなため、いつも鼻歌には気付いていない振りをして。
バイト先に到着するも、バイトの時間までまだ余裕があった。この暑い中、車の中にいるのも嫌で、心はエンジンを止めてスーパーマーケットに立ち寄った。自動ドアを潜った瞬間、膝の裏や首筋に触れた冷気によって、汗をかいていたことを実感する。
棚を見ながら、ぶらぶらと青果コーナーを抜ける。今日のご飯なんだろうなとわくわくしながら、とりとめもなく歩く。お肉コーナーに向かっている途中に、心は見慣れた背中を見つけた。
(嘉一君だ!)
どうやら、泊まりに行く前にスーパーマーケットに寄ったらしい。「いってらっしゃい」の声をかけようとした心は、しかしピタリと足を止めた。
「嘉一っ! やばいっ! まだニジマスとヤマメがおる! 焼いて!」
背の高いお洒落な女性が、嘉一の腕を強引に引っ張った。
そんなことを誰かにされようものなら、普段なら眉間の皺が三倍も深くなりそうなのに、嘉一はパッと顔を輝かせる。
「まじか。ヤマメにすっぞ。何尾ある?」
「えっとね~――」
びっくりして、心は商品棚に身を滑り込ませた。
とてもではないが、見ていられなかった。
(今日。帰らんって……え。か、彼女?)
ばっくんばっくんと心臓が鳴る。
(え、そうなん? いつの間に? もうお泊まりするほど……? え? ……――え?)
潮が引くように、一斉に血の気が引く。
(か、彼女)
心はその場にしゃがみ、膝を抱えた。そばを通っていた人が驚いたようにこちらを見たので、心は商品棚の下のほうの商品を見るふりをして、誤魔化した。とてもではないが、立ってなんていられない。
(彼女……)
その言葉が、ぐるんぐるんと心の頭の中を巡る。
(だ、大丈夫やと、思ってた……)
だって心は、恋をするつもりがない。
だから、嘉一が誰と恋をしようが、それは自分とは直接的には関係ないことだった。
嘉一に恋人が出来ても、嘉一と心の特別な絆は変わらない。
一緒にいる時間が減っても、嘉一の幸せのためなら我慢出来ると――
(……でも、だって……だって)
心は商品を見る振りを諦め、膝に顔を埋めた。
(……
鼻の奥がつんとする。
(ご飯、作ってあげるの? 嘉一君が? ――あの人のために?)
心にとって、嘉一のご飯は特別だった。
あれほど苦手だった男子の中で、嘉一だけが心を守ってくれた。救ってくれた。
心にとって嘉一の料理は、ただ生命を維持するためのものではない。
親に気を遣って安いものばかりを摂取していた心に、美味しい料理をお腹いっぱい食べる喜びを思い出させてくれた。
からかわれることが面倒でひと品ずつしか頼めなかった心に、テーブルの上に乗りきらないほどの料理を作り続けてくれた。
見知らぬ人に冷やかされても、友達に気を遣って何も言い返せなかった心に代わって、彼にしか言えない言葉でかばってくれた。
隣に暮らし始めてからは、毎日食べる度に思い出が増えていった。上手く出来た料理、失敗したレシピ、交わした会話、テレビの中のお笑い芸人、よく聴く音楽、調理中に汚してしまった服、笑い合った時間――その全てが、心にとって嘉一との食事の特別な思い出になっていた。
(そんな時間を、あの人とも……)
力なく、笑みを作る。
けれどいつも通りにこーと頬を持ち上げても、気持ちは晴れない。
――笑顔で嘘をついていれば、嫌なこともいつかは過ぎ去った。
だからそれでいいと、思っていたのに。
(見ない振りをしてた。気付かない振りをしていた)
だって、今が幸せだった。
幸せの中にいた。
ここから出てまで何かを変える理由が、これまでの心にはなかった。
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