14:水色のサテンリボン 3
万里は自宅へ帰らず、まっすぐ吉岡家へと向かった。
「お邪魔します」
「おう」
休日は家でぐだるのが正義と言って憚らない泰輝が、玄関ドアを開け、万里を迎え入れる。「鍵はかかってないから勝手に入っていい」と言われているのだが、じっと待っていると泰輝がいつも律儀に迎えに来るので、万里もいつまでも玄関の前で待ち続けていた。
「なんそれ」
「梨央奈へのホワイトデー」
「ほーん。んでそれは?」
「殴られた」
目ざとく万里の頬に走った赤い傷に気付いた泰輝が、にやにやと笑いながらもリビング収納から救急箱を探す。
「当ててやろうか。今日一緒に出かけるって言ってた、髪くるくるしてる人やろ」
「よくわかったな」
「そりゃ、自分は飴一個やったんに、それ見せられたらなぁ」
あったあった、と発掘してきた救急箱を泰輝が開いた。消毒液や化膿止めを一つずつ手に取りながら「どれがいんだか」と呟いている。
「のべつ幕なし、特別扱いせんやろ」
「梨央奈は特別扱いなん?」
「そう」
誰がどう見たって、万里は梨央奈を特別扱いしていた。泰輝もそれを知っていて黙認しているとばかり思っていた万里は、意外な質問に泰輝を見る。
泰輝は特に驚いてはいなかったので、確認を取っておきたかっただけなのだろう。泰輝はじっと万里を見る。その顔が、今日自分をじっと見上げていた梨央奈によく似ていた。
「ふーん。わかった。消毒と、キズパワーパット、どっちにする?」
「……消毒」
小学生のように顔に絆創膏を貼っている自分を想像して、万里は若干引きつつ答えた。
「ただいまー」
「おかえりー。梨央奈、来て! 早くっ!」
夕方遅く――高校生が遊びから帰ってくるには早い時間に、梨央奈が帰宅した。
玄関から梨央奈の声がした瞬間、万里の隣にいた吉岡母は大きな声で彼女を呼んだ。
「なーに? お母さ、ん――」
「おかえり」
台所に顔を覗かせた梨央奈が、花柄のエプロン姿でフライパンを振るう万里を見て固まった。そして上から下までじっくりと見たあと、顔を引きつらせて親指を立てる。
「……似合いますね」
「ありがとう」
その褒め言葉が、ジュラピケを貰うための世辞とわかって、万里は喉で笑う。
「いいでしょー。私へのホワイトデーのお返しなんですって」
「いつも世話になってますんで」
万里がホワイトデーにと夕食作りを提案すると、吉岡母はいたく喜んだ。
喜色満面の吉岡母は、万里に自分のエプロンを着せて、あれやこれやと楽しそうに口を出しながら、ずっと隣に張り付いている。
「はーあ。うちの息子なんか毎年、コンビニで買ったのど飴なんに……」
「いいやん。実用的やん」
「ほーんと万里君は格好いいのに料理までしてくれる優しい子で……こんないい息子欲しいわー。ねー梨央奈。ねー?」
「梨央奈はお兄ちゃん、泰ちゃんがいいでーす」
泰輝と梨央奈に冷たくされた吉岡母が、万里にキラキラとした目を向ける。
「ねえ? うちの子になりたいわよね?」
「んははっ」
万里は笑ってオイスターソースを手に取ろうとする。すると横からすかさず「あっ、もう少し待ちましょうね」と声がかかった。
「泰輝が玉葱嫌いだから、ちゃんと火が通ってからじゃないと食べないのよー」
「さすがに清が作ってくれたんは、半生でも生でも文句言わんで食いますけど」
万里と吉岡母を二人きりにさせると、吉岡母の圧が強すぎるために、泰輝もずっと台所で時間を潰してくれている。
「――清宮さん、やっぱ手際いい……」
帰宅後のあれやこれやを済ませてきた梨央奈が台所に戻って来ると、万里の手つきを見て感心したように呟いた。
「やっぱ?」
「料理上手いんやろうなって思ってたから。私が牡蠣焼くのめっちゃ真剣に見てたし、すぐに楽しそうに真似するし、牡蠣開ける時とかも手先器用やし」
牡蠣焼きに参加し始めて二年目ともなれば、牡蠣の蓋ぐらい眠っていても開けられるようになる。そのため最近では、主に万里が牡蠣の蓋を開けていた。梨央奈ほど牡蠣を無尽蔵に食べたいわけではないので、万里の方が時間と両手を持て余しているからだ。
牡蠣の殻を捨てに行ったり、網を取り替えたりといった雑事は、率先して万里がやっている。梨央奈はただ美味しそうに、牡蠣を食べていればいい。
(楽しそうとか――そんなん。見られてるとか、思ってもなかった……)
似合わない、と一蹴された「清宮万里」を泰輝も梨央奈も、当たり前のように見つけ出し、受け止めてくれる。
「梨央奈」
「はい?」
「俺も吉岡家の息子になる方法、あると思わん?」
「?! 思わん思わん!」
梨央奈はぎょっとして万里から離れた。吉岡母が目をギランと輝かせる。
「清宮さん、その冗談は言質にされるからやめたほうがいい」
横目で母を見ながら、焦った顔で梨央奈が両手を振る。ということは、梨央奈もわかっているのだ。万里がこの家の息子になる、最短の方法を。
「万里君、うちはいつでも大歓迎だからね!?」
「残念ながら、梨央奈に振られちゃったんで」
万里が涼しい顔で言えば、吉岡母の矛先は梨央奈へと向かった。
「ちょっと、梨央!」
「清宮さんのいつもの冗談だからっ!」
「お小遣いアップするから考えなおさない!?」
「お小遣いで私の将来を決めさせようとすな!」
「――梨央奈。帰ってくる時、連絡しろって言ったやろ」
自宅へと帰る前に、万里は梨央奈の部屋に顔を出した。頬に走っていたミミズ腫れは、梨央奈が帰宅する前には落ち着いていた。
梨央奈は教科書から視線を剥がし、ドアにいる万里を見る。
「一人で帰れますし。清宮さん、もうこっちに帰って来てたやないですか」
「迎えに行ったわ」
「なお呼べませんよ、そんなの」
学習椅子に座っていた梨央奈は、呆れた顔で「泰ちゃんも清宮さんも過保護……」とため息を吐く。
(呼べばいいのに)
梨央奈が一人で心細く電車に乗るくらいなら――梨央奈が呼ぶなら、どこにても、誰といても、何時だって、すっ飛んで迎えに行ってやるのに。
中々自分に甘えようとしない梨央奈が、万里は歯痒かった。休日に買い物に付き合えとも、スマホを貸せとも、旅行に連れて行けとも言わない。
万里から何も搾取しない梨央奈を気に入っていたはずなのに、何も求められていないことが、何故かもどかしい。
「梨央奈」
なんとか甘えさせたくて、餌をちらつかせる。
万里の顔の横で揺れる水色のサテンリボンを目に入れた瞬間、梨央奈は椅子から飛び跳ねて、すぐに万里のもとに駆けてきた。
「ありがとうございます!」
「もっと」
「ありがとうございます!!」
「もう一声」
「ありがとうございます!!!」
万里の前で、紙袋に両手を伸ばした梨央奈が、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。簡単に取らせては楽しくないので腕を高く上げると、梨央奈は背伸びをしてさらに手を伸ばした。バランスを保つために、万里の胸に手をついていることに気付いていない。
「ホワイトデーって障害物競走必要でしたっけ!?」
「なん? こんままトラック一周する?」
「しないいいい」
よほど欲しいのか、珍しく半べそをかいたような声を出す梨央奈に満足して、万里は紙袋を下ろした。
(こんな子どもっぽい真似、初めてやったな)
小学生男子のようなことをしてしまった。内心恥ずかしがっていると、梨央奈が満面の笑みを浮かべて万里を見上げる。
「清宮さん! ありがとうございます!!」
いつもなら絶対に何か一言言って茶化すのに、万里は何も言うことが出来なくなった。息を呑み、梨央奈をまじまじと見つめる。そして、そんな自分に驚いて、首を傾げる。
自分を持て余し、万里は梨央奈の頭に寄りかかった。梨央奈はジュラピケに余程ご執心のようで、万里を全く気にもせず、紙袋を開けようとしている。
ジュラピケばかり見ている梨央奈が面白くなくて、体重をかける。いつもなら「重い」だの「退いて」だのすぐに言い出す梨央奈は、やっぱりジュラピケに釘付けだ。
丁寧にビニールの包みも外した梨央奈は、フンフンと荒い鼻息でプレゼントを取り出す。ふわふわの生地の手触りに期待を込めながら、開いて――首を傾げる。
「……なんですか? これ」
「アンダーシャツ」
「日本語で言って」
「腹巻き」
「なんでっっ!!」
天井を向いた梨央奈が、力の限り叫んだ。
「なんでっ! 花の女子高生にっ! 腹巻きプレゼントするん?!」
目を見開いて万里に詰め寄る梨央奈は、4K並みの大迫力だ。万里は体中を震わせ、腹をよじって笑う。
「っ……!!」
本気で笑うと、声も出ないことを知った。
「おかしいと思った……バナナのお返しにしては、美味しすぎる話やと思った……」
壁により掛かってひぃひぃ笑う万里を、梨央奈が信じられないものを見る目でじっとりと見る。それがまたおかしくて、万里は更に笑った。
ようやく笑いが収まる頃、万里は眦に滲んだ涙を指で掬いながら、梨央奈に言った。
「外、寒いやろ」
梨央奈は鼻息荒くぷんぷん怒っていたのに、万里を見てぽかんとした。
「せっかく好きなもん食ってんだから」
腹巻きを見た瞬間、冬の空の下、体を震わせながら牡蠣を焼く梨央奈を思い出した。
梨央奈にプレゼントするなら絶対にこれだと購入したのだが、「花の女子高生」と言われるとは思ってもいなかった。それに、あんな笑顔も。
プレゼントしたのは万里なのに、思いもがけず、梨央奈に何か大きなものを貰ってしまった気分だ。
梨央奈は腹巻きをふにふにと揉むと「いただいた物ですから。大事に使いますぅ」と唇を尖らせて、不服そうに、けれど嬉しそうに言った。
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