15:会えない距離
高校三年生になってから、バイトをやめて塾に通い始めた。
塾の前には、自動販売機がある。
時折売り切れになる講師陣お気に入りのコーヒーの隣に、駅で万里に買ってもらったカフェオレが並べられている。
(勉強にはカフェインやから――糖分も必要やから)
そんな言い訳をしながら、梨央奈は今日もカフェオレのボタンを押す。
***
「最近、梨央奈おらんくない?」
日中はもう随分と暖かくなってきた。梨央奈と牡蠣を焼く冬が終われば、また泰輝の部屋に入り浸る日々が始まる。
泰輝の部屋のラグに座った万里が、コンビニで買ってきたコーヒーの缶を手の中で弄ぶ。万里はここしばらく間、梨央奈と顔を合わせていなかった。
「受験生やしな。三年生なって、忙しくしてる」
「へえ。どこ受けんの?」
何の気なしに尋ねた万里に、泰輝は沈黙を返した。
頻繁に夕食を共にしたり、家に泊まったりしていた万里は、当然教えてもらえるものとばかり思っていたので、泰輝の反応に面食らう。
「……俺もよく知らんのよね。本人に聞いて」
泰輝は早口で言うと「ちょっとトイレ」と部屋を出て行った。
梨央奈と泰輝は、万里が知る全ての兄妹の中で最も仲の良い兄妹だった。そんな妹の進路を、泰輝がよく知らないなんてことがあるだろうか。
万里が長い手足を組んで悶々としていると、階下から「ただいまー」という声が聞こえた。どうやら梨央奈が帰ってきたらしい。
梨央奈の顔を見るために、万里は下へ降りた。梨央奈を驚かそうと、足音を殺してリビングへ近付く。梨央奈の驚いた顔を想像するだけで、万里の胸が躍った。
内心わくわくとしながら廊下を歩いていると、ドアの開いた台所から話し声が聞こえてきた。
「――……やん。行きたいんやろ? 広島。ならちゃんと頑張らな」
「――わかってるよ、もう」
吉岡母と梨央奈の声だ。
梨央奈の鬱陶しそうな声のあとに、バタンという冷蔵庫の蓋を閉める音が万里の耳に届く。
(……――広島?)
それは、この地から遠く離れた県名だった。
万里は気配を消して後じさる。
顔を見ようとしていたことも忘れ、一目散に泰輝の部屋へと戻った。泰輝の部屋のラグの真ん中で、自分が何故これほどまでにショックを受けているのかもわからず、ただ呆然と項垂れる。
(……何も聞かされてない)
万里は梨央奈を特別扱いしていた。
泰輝の妹で、一緒にいて楽しかったから。
けれど梨央奈にとって万里は――遠く離れる大学の進路すら、別に伝えなくてもいい程度の――どうでもいい男。
「おわっ、なん? どしたん」
部屋に戻ってきた泰輝が、部屋の真ん中に突っ立ったままぼうとしていた万里を見てぎょっとする。
「……え? なん? まさか、なんかしょげてんの?」
おずおず、と泰輝が万里を覗き込んだ。
万里は感情が表情に出にくいため、きっと顔つきは変わっていない。それなのに、泰輝は万里の普段の言動をよく見ているから、ほんの少しの違いにもこうして気付く。
「うあぉあああ! なんなん、なんなん!?」
近付いてきた泰輝を両手でガシッと掴み、抱き締める。突然万里に抱き締められた泰輝は戸惑い、大声で威嚇するように叫ぶ。元気を補充した万里はすぐに泰輝を解放した。
「ちょっと梨央奈に聞いてくる」
「え……お、おう」
抱き締められたせいで混乱しているのか、泰輝は「達者でな」と部屋を出て行く万里を見送った。
「清宮さん、丁度よかった。これ持ってってください」
勉強机に座っていた梨央奈が、振り向きざまに万里に小さなノートを渡してきた。
梨央奈は、万里が自室に訪れても驚きすらしなくなった。万里はノートを受け取って中身を確認する。中には梨央奈が書いたらしい、整った小さな文字や図がびっしりと連なっていた。
「いつも清宮さんが聞いてくるようなこと、まとめておきました」
「……」
「これ見て頑張ってください」
梨央奈がどこかぶっきらぼうに言う。いつもの態度と変わらないのに、何故か強く拒絶されたように感じた。
ノートの中に書かれていたのは、スマホの操作方法だった。
これまで万里が聞いたことは勿論、困りそうだなと梨央奈が予想したようなことも書いてくれている。
これまで梨央奈は万里がスマホを持って行けば、文句を言いつつもススイと指を動かして操作してくれていた。暗黙の了解のようなもので、梨央奈は無理矢理万里に操作方法を覚え込ませようとはしなかった。
そういう万里の甘えを、年下の梨央奈が許してくれていた。
なのに――その時間は幕を引かれた。梨央奈の手によって。
もう甘えるなという拒絶なのか、遠い大学へ行くための準備の一環なのか、呆然としている頭では結論を出せない。
「……どうしてもわかんなかったら、スマホ持って来てもいいんで」
口をへの字に曲げた梨央奈の表情は、若干の照れを滲ませていた。完全に自分をシャットアウトしたがっているわけではないとわかり、万里は心底ほっとする。
「……清宮さん?」
ノートを持ったまま何も言わない万里に、梨央奈はおずおずと尋ねた。その顔も表情も、先ほどの泰輝そっくりで、笑えてしまう。
二人の反応に元気を貰い、万里は梨央奈をじっと見つめた。
「――梨央奈」
「はい?」
「俺になんか言うことない?」
「えっ……」
勉強椅子に座ったままの梨央奈は、万里を見上げて固まった。
万里は梨央奈から目を逸らさず、真顔で見つめ続ける。
梨央奈の小さな部屋に沈黙が広がる。梨央奈が幼稚園の頃から使っているヘローキティの目覚まし時計が、チッチッチッと音を立てて時を刻む。
万里がなおも黙り続けていると、梨央奈は観念したように口を開いた。
「……じ、実は」
意を決したように、梨央奈が両膝の上で拳を握った。
ピンと空気が張り詰める。強張った梨央奈の体を見て、万里はそっと目を閉じる。
「――この間、清宮さんに内緒で、泰ちゃんと庭でいいお肉を焼きました……」
「……は?」
「ご、ごめんなさい!」
思いもよらない告白に、万里が表情を崩す。梨央奈は膝につきそうなほど低く頭を下げた。
「肉……? いや、別にいいけど……え、でもなんで俺は誘ってもらえんかったん、それ……?」
「清宮さんはバスケで忙しい時期やから、誘うと無理するやろうし、隠しておこうって泰ちゃんが……」
忙しいも何も、大学に入ってからのバスケは既に遊びでしかない。
一二美に誘われ、週末に元部員らと公園や市営の体育館へ出かけたりすることはあるが、そんなの遊びの予定と何も変わらない。肉にしろ牡蠣にしろ、吉岡家へ誘われれば確実にこちらを優先した。
(泰輝、いい肉食われたくなかっただけやろ……)
誘われなかったことは堪えたが、今はそこではない。
万里は小さく首を横に振った。
「他にもあるやろ」
「他に……?」
梨央奈が心底不思議そうな顔をしたあと、「あっ!」と声をあげた。
「今年の冬は牡蠣焼きませんので」
「……は? なんで?」
「受験生ですもん」
「牡蠣くらい焼けるやろ?」
「準備入れたら一日かかりやん。無理ですよ。食べたいなら、いつもの直売所の横で牡蠣小屋やってるから、そことか行ってみたらどうですか?」
私はあんま人が沢山いるところで食べるんは好きやないですけど。と、梨央奈はあっけらかんと言った。
(牡蠣小屋へ行けって……? 一人で?)
梨央奈は本気で、万里が牡蠣を食べたくて文句を言ったと思っているのだろうか。
少なからず梨央奈も、自分と牡蠣を焼く時間を楽しんでくれていたと自惚れていた万里は、思いもがけないショックを余分に受けた。
「……わかった。行ってみる。他には?」
ため息交じりに尋ねるが、梨央奈は困った顔で沈黙を返すだけだ。
「……」
「……」
「む、虫歯が出来ました」
「歯医者行ったか?」
「行くの怖い……」
「今から予約入れろ」
「今から?!」
「入れろ」
スマホを取り出させると、梨央奈が涙目でスマホを操作する。
涙で滲んだ目で万里を見上げる梨央奈は可愛かったが、万里は真顔で見下ろし続けた。梨央奈は泣く泣く近所の歯医者に電話をかけ、予約を入れた。
「入れましたぁ」
これで歯医者に行かなきゃいけなくなっちゃった……と絶望する梨央奈に、万里はもう一度聞いた。
「他にもあるやろ?」
「え? ……えええ?」
もうない、絶対ない! と喚く梨央奈に、万里はぽつりと呟いた。
「――大学」
「!」
梨央奈は目を見開き、勉強椅子の背もたれを持って勢いよく立ち上がった。
「た、泰ちゃんが言ったん?!」
その意外な梨央奈の反応に、万里はこれまでにないほど衝撃を受けた。
驚きすぎて、声すら出ない。
――伝えるのを、忘れられているだけだと思っていた。
吉岡家にとって、そのくらいの存在感しかなかったことが淋しくもあったが、聞けば教えてくれるものだと、なんの疑問もなく思い込んでいた。
だが、梨央奈のこの反応では――
(まさか、隠されてた……?)
意味がわからず、万里は眉間に皺を寄せた。
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