23:アウトの境目


「さゆちゃん。面白いって勧められた映画、一緒に見ない?」

「いーよー。どんなの?」

「ギャグでちょいホラーらしい」

「へぇ」


 日曜日の夜のこと。

 明日は定休日なため、早雪はのんびりと自分のメンテナンスをしていた。風呂上がりの肌に三重四重に基礎化粧品を塗りたくり、コロコロと美顔ローラーを頬の上で転がしている。タオルドライした髪にはオイルを塗り込み、軽くラップをあててホットタオルで蒸している。


 彼氏の前では絶対にしないような、徹底的な舞台裏の顔である。


 なのに琥太郎は引くどころか、「タオル、チンしなおしてこようか?」などと早雪を甘やかすため、ついついタオルを渡してしまう駄目な姉が出来上がってしまう。


 ホットタオルをチンしている間に、琥太郎が専用の小さなリモコンを使って、動画の配信サービスをテレビ画面で起動する。リビングのソファーに座った早雪の足下に、琥太郎が座る。


「今日から配信されてるんだって」

「へぇ。誰おすすめ?」

「塾で一緒の子。知り合いに映画好きな人がいるって言ってた」

「へえー女の子?」

「うん」

「えっ!」


 肯定を聞いて、思わずびっくりしてしまうほど、自分の中にその選択肢がなかったことに早雪は更に驚いた。


「……言っとくけど、普通になんにもないからね」

「や、やぁ。そうなんでしょうけど」


 実際、琥太郎から他の女の子の話を聞いたことが初めてだ。何もない、とは言っても、何かしらあるのではないかと勘ぐりたくなる。


「その子と付き合ったりしないの? とか言ったら拗ねるからね?」

「言わない言わない」


 琥太郎に言われなければ言っていたかもしれない。早雪は慌てて首を横に振った。髪に貼り付けていたラップが落ちそうになり、手で押さえる。


「早川さんって覚えてる? タクの彼女」

「覚えてるよー」


 忘れようにも、忘れられない子だった。クリスマスの公園でギャン泣きしながらケーキを食べてたインパクトは、早雪の人生の中でも指折りの名場面である。


 正月恒例の廣井家での餅つきでは明らかに落ち込んでいた拓海をからかって遊んでいたが、バレンタインデーによりを戻したと聞いて「若いっていいな」と思ったものだ。


「その早川さんの友達。吉岡さんって言うんだけど、よく残ってるから帰りの車の中で話すこともあって」

「え。帰りの車って――先生が乗せて帰ってくれてるってやつ?」

「うん」

 早雪が知る限り、琥太郎が先生に送ってもらってくる日は、十一時を過ぎることが多い。


「女の子がそんな遅くまで……大丈夫なの?」

「さあ? 家には許可貰ってるんじゃないの? 知らない」


 琥太郎が興味なさそうに答える。早雪はハラハラとしてしまった。


「だってそんな、え、夜だよね?」

「……一応言うけど、俺達、勉強しに行ってるんだからね?」

「そ、そうだろうけどぉ」


 人生で一度も塾などというものに通ったことがない早雪は、ついワクワクソワソワな想像をしてしまう。


(だってそれって自主的に残ってるんやろ……? たぶん教室、ほぼ二人きりなんやないの……? そんなん絶対青春詰め込まれパックやん……?)


 二人きりの教室で問題を教え合ったり、視線を意識したり、明日の約束をしたり、帰り順で少しでも長く一緒にいようと画策したり……そういうドキワクイベントを勝手に想像していた早雪の頭に、温もりを取り戻したタオルが置かれる。


 上を見ると、レンジからタオルを持って来てくれた琥太郎が、呆れた目をしていた。そして腰を折り曲げ、ぐいっと早雪に顔を近づける。


「さゆちゃん。さすがにそれは、俺の気持ち知ってて――」

「アウト」


 揺るめていた表情を強張らせ、早雪はきっぱりと言った。

 弟の領分を越えていた琥太郎はため息をつくと、早雪の頭にホットタオルを巻く。


「こんな感じでいい? お姉ちゃん・・・・・

「もっとぎゅっとしていいよ」


 琥太郎がホットタオルで早雪の頭をギリギリと締める。


「痛い痛い!」

「弟にはまだ加減がわかんないみたいだね」


 タオルの巻き方に、弟は完全に関係ない。


(あ、そっか。拗ねてるのか……)


 そう思うと、早雪の足下に再びしゃがみ込んだ琥太郎の頭をわしゃわしゃと撫で回したくて仕方がなくなる。


(でも我慢……)


 しかし人間、出来ないと思えば思うほど、やりたくなるもので。


(琥太君の髪、もうずっとブローしたげてないなぁ。教えたとおりちゃんとブローもセットも出来てるし、私が今更やってあげる必要ないんやけど……カラーとカットもこの間したし、あと二ヶ月は触れないかなぁ)


 琥太郎が「再生するよー」と小さなリモコンをテレビに掲げる。早雪の膝辺りにある琥太郎の頭がくるりと振り返る。


「さゆちゃん?」

「あ、うん。お願い」


 早雪の顔をじっと見上げている琥太郎が、ふっと笑った。

 その大人びた表情に驚く。


「撫でる?」


 はい、と琥太郎が自分の頭を突き出した。琥太郎は早雪が彼の頭をわしゃわしゃしたくなるタイミングを、完全に把握しているのだろう。くっ、と悔しがりながらも、早雪はそろそろと手を伸ばした。


「これは……弟としてだから……」

「わかってるよ」


 ふふ、と笑った琥太郎は前を向き、再生ボタンを押した。琥太郎が背を向けてくれたことにほっとして、早雪は画面を見ながらワシャワシャと撫でていた。





「――さゆちゃん」


 映画が流れ始めてしばらくたった頃、琥太郎が頭をソファーの座面に載せて、早雪を見上げた。


「映画、予想より怖かったから近付いていい?」


「……」


 早雪は沈黙した。

 確かに映画はコメディだが、怖いときはガツンと怖い。全体的に不穏な空気も流れ続けていて、早雪もしっかりと怖がっていた。

 だがしかし――


「……琥太君?」


 わざとこの映画を選んだのだろうかと疑い、琥太郎をじっと見つめた。しかし琥太郎は純真無垢な目で、早雪をきゅるんと見つめ返す。


「なあに? さゆちゃん」


「……なんでもない。いいよ」


「ありがとう」


 琥太郎はにこにこと笑うと、ソファーに上ってきた。三人掛けのソファーだが、百八十センチもある琥太郎が座ると、一気に狭くなる。


「手繋ぐのは?」

「アウト」

「見て、こんな震えてる……」

「昭ちゃん呼んできてあげる」

「我慢します」


 その代わりクッション取って、と言う琥太郎にクッションを手渡す。大きな体を丸めてクッションを抱き抱えた琥太郎が、じっとテレビを見つめ出す。


(……今までなら、全く気にならなかったのに)


 ソファーの背もたれに首を預ける。


 ほぼ密着している右側に意識が持っていかれて、早雪はそれから全く映画に集中出来なかった。





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