28:巡らせ
クリスマスの夜――突然押しかけた夏帆を、吉岡家と、滞在中だった心は温かく迎え入れてくれた。
若干一名「だから今日はしないって言っておいたやないですか!」と梨央奈に追い出される、鬼のような見知らぬイケメンがいたが、この件については今度詳しく聞かせてもらうことにした。
せっかく直してもらった化粧もボロボロに剥がれ落ちた夏帆を見て、これからデートに出かけようとしていた吉岡家のパパママは二日連続のお泊まりを許してくれた。
それに、先ほどの鬼イケメンと外出したはずの梨央奈の兄からは、クリスマスプレゼントだとコンビニ袋いっぱいの駄菓子も貰った。
「ごめんね。死ぬまで女心のわからん兄で……」
心と夏帆は、おそろいのコンビニ袋を抱えて、梨央奈の謝罪を彼女の部屋で聞いていた。
一緒に出かけていた梨央奈兄の友人は女心が十分にわかっていそうだったが、梨央奈兄にヒントは一切与えなかったのだろう。
いや、泣いている妹の友人のためにコンビニの籠に駄菓子を入れまくる梨央奈の兄だからこそ、きっと引きも切らず女が押し寄せてきそうな鬼イケも、クリスマスまで一緒にいたに違いない。
心と一緒に、大きなコンビニ袋に入ったうますぎ棒やチョコバーバーを見て大笑いしていると、ささくれていた心が少しずつ落ち着いていった。
その日は三人で一緒にお風呂に入った。浴槽が狭くて一度に二人しか入れないため、体を洗う順番で交代していたが、三人で浸かりたいという心の要望を叶えるため、肩がぎゅうぎゅうの鮨詰め状態で湯船にも浸かった。
最終的には、夏帆が体育座りで隅に寄り、梨央奈の上に心が座る方法が一番楽だとわかったが、この知見を今後の人生で活かす機会はきっとないだろうと三人とも気付いていた。
梨央奈と心は拓海のことを聞いてこなかった。ただ、あんな泣き顔で吉岡家にダッシュで出戻った夏帆に、結果は察していたに違いない。
二日連続で借りた梨央奈のパジャマに着替えながら「別れたよ」と言ったら「そっかぁ」と「殺す」という両極端な言葉を頂戴した。
結局その日は夜遅くまでとことんしゃべり倒した。次の日は起こされぬのをいいことに、昼近くに起きて、遅い朝食をいただいた。
「心ちゃん、どう? 足りる? お母さんもっかいご飯炊いとこうか?」
「だいじょーぶです~。めっちゃ美味しい。おばちゃんありがとう~!」
「いいのよ~! しょうゆとか足りないものあれば何でも言うんよ?」
「はぁい!」
心のために作られた、テーブルいっぱいのご飯の中から、梨央奈と夏帆はおにぎりを摘まんでもそもそと食べる。
梨央奈の母もだが、夏帆の母も心が来ると大はしゃぎして料理を作る。以前夏帆の家に泊まりに来た時、鍋いっぱいに作ったおでんを、心はぺろりと平らげた。母は感激のあまり、「今度は鍋二つ作ろう!」とはしゃいでいたが、流石にそれはとめておいた。プレッシャーになってはいけない。
「あんた達、今日はどうするの?」
「お姉が帰ってくるからぁ、今日はもう帰ります~」
「私も帰ります」
お邪魔しました、と心と夏帆が吉岡母にぺこりと頭を下げると「またおいでね」と返される。
「じゃあ今日は牡蠣焼くか」
心と夏帆の予定を聞いた梨央奈が、庭を見ながら呟いた。
梨央奈は無類の牡蠣好きで、よく庭で焼いて食べている。彼女がバイトをしているのは、冬の軍資金のためであった。
心とお金を出し合ってお邪魔したこともあるが、本当に牡蠣しか焼かないので、途中でギブアップする羽目になった。それ以降、梨央奈のお楽しみを妨げたくなくて参加してない。
「もう年末やから、直売所休みやろ? 何処行くにしろ、今日寒くなるらしいから、後で万里君に車で連れてってもらいなさいよ」
「はーい」
吉岡母にのんきに返事をした梨央奈の顔を、夏帆と心がじっと見つめる。もうひとつおにぎりを食べようか、大皿に盛られたおにぎりの山を眺めて真剣に考えていた梨央奈が、「あっ」と声をあげてこちらを見た。
「ほほう、万里君?」
「万里君ってぇ?」
キラキラと輝く目で見つめる夏帆と心に、顔中に皺を寄せた梨央奈が苦々しい顔で「……昨日のイケメン」と言った。
どこかで春が終わっても、またどこかに春は来るらしい。
そんな当たり前のことに、何故か心底ほっとしてしまった。
***
冬休みの間、癖のように何度もスマホのロックを外した。
無意識のうちに「ふたり!」部屋を開いてしまう。
毎日、毎時間、毎分のように、チェックをした。来るはずもないメッセージが浮かび上がる瞬間を期待して、最後に送られてきたメッセージを何百回読んだか、わからない。
最後のメッセージは、冬休みの間ずっと変わることはなかった。
だがそれは、拓海が「ふたり!」部屋から脱退していないことを物語ってもいた。
部屋から抜けるのを、忘れているだけかもしれない。そんなことをする意味さえ感じていないのかもしれない。
なのに、そんな頼りない繋がりに、夏帆は毎日安堵していた。
***
三学期が始まった。
数週間ぶりに顔を合わすクラスメイトらと、年始に婚約発表をした俳優や、正月太りしたことや、始業式後すぐにある実力考査の話で盛り上がる。
別れてしまってから拓海とは全然会わなかった。
恋人と別れるのは初めてだが、案外こういうものなのかもしれない。
――ひと月が、そうして過ぎた。
「早川のこと、好きなんやけど」
昼休みの社会科準備室で、雑用を言いつけられた夏帆は、クラスメイトの松木に突然告白された。
少なくとも、夏帆にとっては突然のことだった。二年になってから共に世界史の係をしていたとはいえ、拓海と付き合うまでは、世間話すらしたことのない間柄だった。
夏帆が呆然としていると、松木は気まずそうに手をポケットに突っ込んだ。
「六組の三浦と、別れたんやろ?」
「あ、うん……」
付き合っていたことも、別れたことも、年始の芸能人のようにわざわざ文書で発表などしていない。
「なんで、知って……?」
「最近、三浦迎えに来んし。早川も一人で帰ってるから」
「……そっか」
世の男女のあれこれは、そんなことからバレていくのか。夏帆はこくこくと頷いた。
「偶に淋しそうな顔してる早川見てると、俺に甘えて欲しいって、思って……」
ドカンと真っ直ぐに好意をぶつけられ、夏帆はよろめいた。
頭の中の八割は、パニックだ。残りの一割は、恐縮と喜びで、最後の一割は社会科準備室のドアが閉まっていることに対する、本能的な危機感。
夏帆は手に持っていた社会科の道具を慎重に置いた。無意識に、両手を空けた。
「えっと……ありがとう。でもあの」
「別れたばっかやし、俺のこと今は考えれんやろうけど。もうちょっと返事置いといてくれん?」
「う、はい……いや、でも……!」
でもと追いすがってまで、自分が全力で断ろうとしていることに気づき、夏帆は戸惑った。
拓海とは、もう復縁する余地もない。元々好き合って付き合ったわけじゃないのに困らせていた上、最後に、あんなにみっともなく、失礼なことをしてしまった。
拓海との未来はない。
なら、新しい未来を手に取るべきだ。
元々夏帆は、誰でもよかった。ただ男女交際に興味があっただけ。拓海なら上手くいくんじゃないかと、そう思っただけ。
人に告白されるなんて、初めてだ。しかもこの先、こんな幸運がまた巡ってくるとも限らない。
拓海と出来なかった“恋人とやりたいことリスト”も、まだ残っている。
それを松木とこなすことに、何の不都合もないはずだ。
――はず、だった。
(男子なら、誰でもよかったのに)
文化祭で拓海が作品を褒めてくれたことは決め手にはなったが、必要不可欠な要素ではなかった。見た目と声しか知らない拓海は、特に好みというわけでもなかった。
なのに夏帆は今、こんなに拓海じゃないと駄目だと思っている。
「――松木君。ごめんなさい」
「だから――」
「待っててもらっても、変わらないから」
真っ直ぐに気持ちをぶつけてくれた松木に、不誠実な対応は出来なかった。ゆっくりと頭を下げる夏帆の頬に、高い位置で結んであったポニーテールが流れてくる。
「……突然で、ごめんな。ありがとう」
「こっちこそ、ありがとう」
「最近、よく髪結んでるよな。それ……似合ってる」
「……拓海君が、好きな髪型なの」
松木は「そっか」と言った後少し黙って「あとは俺、やっとくから。もういいよ」と涙声で続けた。夏帆はもう一度頭を下げるとドアを開けて、一人で準備室を出た。
(私は一回でもちゃんと、拓海君に気持ちを伝えられてたかな……)
思い返せば、恋心を自覚してからは、自分の恋心に振り回されるばかりで、好意を行動ですら伝えられていなかった。自分のことで精一杯で、嫌われないように必死で、拓海を慮ることも出来なかった。
好きだなんて、一言も伝えられていない。
(松木君、凄いな)
怖くなかったはずがない。他人に、自分の心の一番傷つきやすい部分を見せるのだ。どれほどの勇気をもって、言ってくれたのだろうか。
拓海とは元々クラスも違う。部活もお互い入ってないし、委員会も違う上、男女だ。接点などもう、全くない。
けれど付き合い出す前と違って、見つけ出すのは簡単だった。廊下を歩いていれば背中でも見つけられるし、校庭で声がすればいち早く拾ってしまう。
離れたら冷静になると思った。もう考えなくて済むと思っていた。なのに全然、終わらない。どうしていいかわからなかった。
(……でも、なら――)
窓の外の、渡り廊下の屋根を見下ろす。
その答えを、夏帆は知ってしまった。
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