29:「チョコレートケーキの作り方、教えて」
同じ学校の同じ校舎の同じ階で生活しているのだから、当然のことながら、別れた後でも夏帆を目にする機会は沢山あった。しかし、勿論のことながら拓海が話しかけたことはない。
好きだという思いと、それと同じほどの後悔や怒りや羨望がない交ぜになり、夏帆に近付くことさえ出来ない。
「三浦ぁー! 彼女と別れたんて? 付き合ったげようか」
「お願いします。遠慮させてください」
「ぶん殴るぞ?」
樋口が爽やかな笑顔で拳を握る。
離れた場所から夏帆を客観的に見ていると、康久が以前、夏帆を「とっつきにくそう」と言っていたのが、少しわかる。
冷たいわけではない。ただ、つけいる隙がない。
外から見る夏帆は、いつも凜としている。内心で慌てていたり、男子に対しては必要以上に意識したりしているのを知らなければ、近寄りがたい大和撫子に見える。
普通の女子の何倍も異性に関心があるくせに、男になんか一ミリの興味も持っていないような、清らかでいて涼しげな表情で女生徒と戯れている。
そんな夏帆を見る度に、夏帆の中にもう自分など残っていないと思い知らされる。拓海などおらずとも毎日楽しそうな彼女にどう声をかければいいかもわからずに、視線を逸らす日々が続いた。
ある日の昼休み――食堂にいつものメンバーで向かっていた拓海は、キュキュッと音が鳴りそうなほど勢いよく急停止すると、慌てて丁字の廊下の壁に隠れる。
「なんっ!?」
「シーッ」
康久の口を手で覆い、一緒に隠れさせた。何かを抱えた夏帆が男子と仲良さそうに話しながら、廊下を歩いていたのだ。
「お。夏帆ちゃんやん」
「ヤス、あいつ知ってる?!」
「あいつって?」
「夏帆さんの横の! 楽しそうに話してる男!」
「松木やろ。中学の時クラスが一緒やった。別に普通に話してるだけやん」
(普通に?! 普通に男と話せんかったから、俺んとこに履歴書なんか持ってきたんやろ!)
そんな事情など露程も知らない康久に憤っても仕方ないとわかっているのに、感情が抑えられなかった。ぐしゃぐしゃ、と頭を掻く。
「別れたくせに何言ってんだ」
呆れた口調で嘉一が言う。
「最近早川、モテてるらしいぞ」
「は?」
「心が言ってた。男子にめっちゃ話しかけられてるって」
拓海は唖然とした。
夏帆がモテていることなど、全く気付いていなかった。特に目立つタイプでもない夏帆の情報など、クラスが違えばほとんど入ってくることもない。
しかし夏帆がモテるのは納得だ。知れば知るほど、夏帆は可愛い。これまで近付く男がいなかっただけで、見た目よりずっと明るい内面や、しっかりしていそうな夏帆がちょっと抜けていることを知ってしまえば、自分のようにコロリと惚れてしまう男がいるのは明白だった。
「俺の見たところ、あの松木君とやらも、告白秒読み間違いなしだね」
「タクと一回付き合ったのが箔になってんだろうな」
「人が選んだものって、いいものに見えるって言うしね」
「あー。ネットのレビューとかもそういうことか」
琥太郎と嘉一と康久の会話を無視して、拓海は壁から顔を出し、夏帆を盗み見た。
夏帆は何か面白いことでも言われたのか、くすくすと笑いながら、隣に立つ松木を見上げている。
信じられないほど、打ちのめされた。
どこかで夏帆が男と上手く話せないことに、安堵していた。琥太郎らは自分の友達だから話せているのであって――夏帆が自ら男と交友関係を深めるはずがないと、何故か勝手に思い込んでいた。
(夏帆さんが楽しそうに話しかける男は、俺だけだなんて……)
まだそんな風に思い込んでいた自分のキモさに耐えきれず、その場にしゃがみ込む。膝の上に両腕を載せ、腹の底からため息を吐きだした。
(もう別れてんだから。ちゃんと喜んでやるべきやろ……)
夏帆が男と普通に話せるようになっていることを、安堵しなければならないのに、到底出来そうになかった。
隣の男に笑いかけているのかと思うと、あの男が笑わせたのかと思うと、腹が立って仕方がない。
(あの男に告白されたら、俺の時みたいにお試しで付き合ってみんのかな……)
嫉妬で胸が焼けそうだった。
(夏帆さんは、俺じゃなくてもあんな幸せになれんの? 俺よりもずっと、他のやつの方が夏帆さんを楽しませたり、すんのかよ)
拓海は夏帆にもらった履歴書を、別れたその日に乱暴に本棚に突き刺した。はみ出した履歴書は毎日目につくのに、綺麗に入れ直すことも出来ていない。内容はもう暗記するほど読み返したくせに、触れて、あの頃の幸せな気持ちを思い出すことが怖かった。
そんな履歴書を、もし夏帆があの男のために夜も寝ずにまた書いてやったりしたら――想像だけで耐えられなかった。悔しくて、歯を食いしばる。
「夏帆ちゃん、松木と付き合うかな」
「さあ。あの男も習字褒めたら付き合ってもらえんじゃねえの?」
「は?」
嘉一の笑いを含んだ言葉に、拓海は顔を上げる。
「あんだよ。冗談だって」
「違う――あの男もって、何」
「あ? タク、付き合う前に褒めたんだろ。早川の習字」
「……何それ」
記憶にないことを言われ、拓海は首を傾げた。首を傾げる拓海に、そっちこそ何言ってんだとばかりに、嘉一も首を傾げる。
「文化祭の時、俺と書道部の展示見に行ったでしょ。その時、タクが褒めてたのが、早川さんの書いたものだったんだって。早川さん、それが嬉しかったから、タクと付き合うって決めたって言ってたよ」
琥太郎の説明を聞いて、拓海はぽかんとした。
――夏帆は誰でもいいから、自分の所に来たのだと思っていた。
それはきっと、大きくは違っていないのだろう。けれど「男なら誰でもいいから履歴書を持って来た」のと「拓海なら付き合ってもいいと思ったから履歴書を持ってきた」のだと、夏帆を好きな拓海にとって、大きく違う。
『こんなの間違ってた。彼女になんて、なるんじゃなかった!』
そこまで言われた自分が、何か言ったところで、もう夏帆に言葉は届かないかもしれない。
ただ、こうして拓海が一人でうじうじしている間にも、夏帆を好きな男は増えるし、夏帆の記憶から拓海は薄れていく。
――そして、こんなところで拗ねてぐだを巻いている拓海よりかはずっと、あの男の方が夏帆に近いことだけが、事実だった。
「……嘉一」
「あん?」
しゃがんだ拓海は嘉一を見上げながら、真剣な表情で言った。
「相談があるんやけど。今度の日曜俺に――」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます