30:聖バレンタインデー


 色とりどりの紙袋が女子の手からぶら下がる日が、一年に一度やってくる。


 ――二月十四日、バレンタインデーだ。


 この日は毎年「今年こそはもらえるかも」とそわそわしていた拓海だったが、今年は別の意味でそわそわとすることになった。


 手に出来た真新しい火傷の痕を絆創膏で隠している拓海は、校門を潜ってすぐ、立ち止まった。


 人の波の中、マフラーをぐるぐるに巻いた夏帆が前の方を歩いていた。


 隣にいる心と一緒に来たのだろう。

 昇降口に吸い込まれていった夏帆のその手には、紙袋が握られていた。


 淡い空色の紙に、ピンク色の模様の入った袋を見た瞬間、拓海は大きく息を吸った。


 自意識の塊で、ろくに男子に話しかけることすら出来なかった夏帆なら、少し男に慣れたとはいえ、バレンタインデーにチョコを持ってくることなどないと高をくくっていた。


 可愛らしい紙袋をじっと見つめる。


 ショックを受けると同時に、期待もした。


 あんな言葉で振られているというのに――もしかしたら夏帆が今日、自分のもとにあの紙袋を持ってきてくれるのではないかと、馬鹿みたいな期待で胸が高鳴る。


 何も気付いていない振りをして、ゆっくりと靴を脱ぐ。いつもの三倍は時間をかけて上靴を履くと、ろくに用事もないのに友人に声をかけ、廊下で立ち話をした。


 いつも以上に廊下に男子が多いのも、教室に入った男が机の中に手を入れてひっそりと落胆しているのも、バレンタインデーには見慣れた光景である。


 男達は皆、意味もなく廊下に立ったり、逆に一人で机に座ったりして、女子に話しかける隙を与えている。


 拓海は六組の教室に入るといつものテンションに戻った。ここで格好を付けていても、夏帆が見ることはない。


「三浦ぁ! コタローは?」

 自分の席へ移動すると、すぐに女子が三人やってきた。いつもの樋口・小堀・福澤だ。拓海はきょろりと辺りを見渡し「さあ?」と返事をする。


「呼び出されてんじゃね?」


「朝一で? 相手の都合考えなさすぎじゃない?」

「コタロー優しいからなぁ」

「そんで三浦は、元カノに呼び出してもらえんかったんやー」

 淋しいねえ。と樋口に目を細められ、割とイラッとする。センシティブな話題なので、そこは是非ともスルーして頂きたい。


「淋しい三浦にチョコあげよっか?」

「や。勘弁してください。俺金ないんす」


 クラスの男子全員に配られるクラスチョコを、去年の拓海は喜んで受け取った。けれど今年はもう、そんなもの欲しくともなんともない。去年のホワイトデーでの出費を思い出せば、むしろ心底遠慮したかった。


「それだとうちが脅迫してるみたいでしょ」

「似たようなもんやろ……」


 あ? と笑顔で聞き返す樋口に、拓海は頭を下げた。

 その時、樋口の雰囲気がいつもと違う事に気付く。


(あ、髪結んでんのか)


 後ろに一つ結びのその髪型は、拓海が以前夏帆にしてほしいと頼んだものだった。

 先ほど校門近くで見かけた夏帆も、髪の毛を結んでいた。それもポニーテールだった。


(まじで夏帆さん……今日俺んとこ来てくれんのかな)


 一瞬でも期待すると、顔がにやけた。拓海は手の甲で緩んだ口元を隠す。


「何にやけてんの~きもいんですけど」

「つか貰えし三浦。あんたが貰わんと、コタローが貰ってくれんやろ」


 福澤に足をげしげしと蹴られ、樋口に頭をごすごすと殴られても、拓海はかまわなかった。今日夏帆と話せるかもしれない。夏帆からチョコがもらえるかもしれない。そんな希望に満ちていた。


 ――のも、放課後までのことだった。


(……来ねえ)


 わかっていた。そもそも本気で貰えると、思っていたわけではない。ただ、今朝夏帆が持っている紙袋を見て、もしかして、いやまさか――と期待してしまっただけだ。うっかり期待しすぎてしまい、無駄に今日一日を教室で過ごしてしまった。自分がいない間に夏帆が来たらと思うと、昼は食堂にも行かなかったし、休憩時間におちおちトイレにも行けなかった……のに。


(っていうことは……夏帆さんはあれを、他の男にやったってこと?)


 悪しき風習、クラスチョコかもしれないと自分を慰める。

 しかし、クラスチョコにしては袋が小さい気がした。クラスの男子全員分のチョコレートは入らないだろう。

 自分がもらえると期待していたからか、袋の可愛さを見るに、確実に本命クラスの可愛さだった。


(……まじかぁ)


 こうなってしまっては、一刻も早く行動に出るに限る。意味もなく教室に残りたがっているクラスメイトの男子らを横目に、拓海は帰り支度を始めた。


「タク、帰る? 俺も一緒に帰る」


 琥太郎がすすすと近付いてきた。今日一日、琥太郎はほとんどクラスにいなかった。常にどこそこの誰かしらに呼び出され、愛の詰まったチョコレートを差し出されていたに違いない。


「あ! コタロー! ちょお待ちなーって」


 琥太郎はぴくりと表情を引きつらせると、スッと拓海の陰に隠れた。拓海も長身とはいえ、自分より大きな男子を一人匿うのは、さすがに無理がある。


「三浦ぁ。コタロー連れてってんじゃないよー」

「もーほら、コタロー。ちゃんと受け取ってよー」

「ありがと。でも俺の分は、他の奴にあげて」

「クラスの皆に、びょーどーに配ってんの。ほら三浦も」


 女子が団体でやってきて、琥太郎に渡すために拓海にチョコレートを押し付けようとする。笑顔の裏に「お前にやりたいんじゃねえよ。早く受け取れよクソ野郎」という文字が浮かんでいた。


 拓海は琥太郎を売った。このままでは女子らの視線に焼き殺されてしまう。

 それにここで押し問答をするよりも、さっさと貰って帰りたかった。樋口に差し出されたチョコレートを、しずしずと受け取る。


 拓海が受け取っては、琥太郎も受け取らないわけにはいかなくなったのだろう。琥太郎は福澤からチョコレートを受け取る。


「美味そうやん。ここで食ってい?」

「えー! もちいーよ」

「皆で集まってさ、リンん家で作ったんよ」

「そうなんや」

 女子らと話しながら、ペリペリと琥太郎はビニール包装を解くと、ココアパウダーのまぶされたトリュフチョコをぽいっと口に放り込んだ。


「うん、美味しい」

「やったー!」

「コタロー! 好きー!」

「ありがとうね。ホワイトデー、男子でちゃんと考えとくから」

「コタローが美味しいって言ってくれるのが一番のお返しやし~」

「コタロー、はい。これ使い」


 きゃっきゃと騒ぐ女子らが、指についたココアパウダーを拭うためのハンカチを琥太郎に渡す。はしゃぐ女子の中、小堀だけはきょろりと辺りを見渡して拓海に問う。


「廣井は?」

「知らね」

「ほんとに?」

「もう帰ったんじゃねえの?」


 本当は嘉一の行き先を知っていた拓海は、素知らぬ顔で嘘をついた。嘉一は今、家から持ってきたザッハトルテを持って六組に行っているはずである。


「お嬢さん方。僕達も同じクラスの男子ですよ」


 琥太郎を囲む女子の群れに、康久とその他大勢の六組の男子がキラキラを背負ってやってきた。女子らは「あはは」と笑うと、男子らを整列させる。


「ほら、並べー」

「女子様のお恵みだぞー」

「三月は三十倍返しね」


「タク、帰ろ」


 袖を引っ張り、こそっと耳元で囁いた琥太郎に、「お前は女子か」と言いたくなるのを拓海は堪えた。教室を出る間際、琥太郎は先ほど解いたばかりのビニール包装を、ゴミ箱にポイと捨てる。


 廊下に出ると琥太郎は、拓海の陰に隠れるようにこっそりと歩いた。


「どしたん?」

「チョコ怖い」

「まんじゅう的なやつ?」

「違うよ。断るの、すごく難しくて……」


 心底困った顔で言う琥太郎に、拓海は首を傾げた。


「あれ? 琥太、チョコ嫌いやっけ」

「ううん。家に持ち帰りたくないんだよね。箱だと捨てる場所もないし――さっきのも、箱だったら絶対、何が何でも貰わなかった」

「なんで?」

「さゆちゃんから貰えなくなる」


 困った表情から一変――琥太郎がにやにやと笑って言った。


「去年、俺が一個も持って帰らなかったら『かわいそうに』って、買ってくれたんだよね」


 安定の姉好きに、拓海はなるほどと頷いた。

 琥太郎と話していると、いつもよりもずっと人の少ない下駄箱に辿り着く。


「いい? さゆちゃんにもし会った時チョコのこと聞かれても、俺は一つも貰えなかったって言ってよ」

「はいはい」


 適当に頷きながら、拓海は靴に指を引っかけた。今からダッシュで家に帰って、それから――


「タク!」


 名前を呼ばれ、振り返る。

 階段の踊り場から、嘉一が呼んでいた。


 珍しく焦ったような表情を浮かべていた嘉一の隣に、ぜえはあと息を切らした心が合流して、ぺしゃりと床に座り込む。そのまま項垂れ、心は全く動かなくなった。


「三組に走れ!」


「?」


 拓海がこれから帰って何をしようとしているのか、嘉一は知っているはずだ。なのに何を言っているんだと眉根を寄せる拓海に、嘉一はにやりと笑った。


「急げ! 全部食われんぞ!」


「!」


 拓海は乱暴に下駄箱の蓋を閉めると、脱げかけの上靴のまま、階段を駆け上った。





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