31:勇気不足と履歴書

 バレンタインデーの朝。


 教室に荷物を置いた夏帆が六組の教室をこっそりと覗くと、拓海は数人の女子と話していた。内容までは聞こえないものの、笑う拓海の頭を女子が撫でているように見えた。

 その近い距離に恐れをなして、夏帆は一旦、三組へと逃げ帰る。


(今のは偵察だから――)


 そして、意気地なしの自分に言い訳。


 松木に告白されてから四日。自他共に認める行動力の化身は、全力でケーキ作りに没頭した。おかげで早川家の朝食はこの三日間ずっと、夏帆の失敗したチョコレートケーキだった。


 しかし、その甲斐あってクリスマスの時よりもよほど自信のある出来に仕上がった。


 夏帆は今日、チョコレートケーキを拓海に渡し、告白するつもりだ。


(放課後に、また来る。また来るから……)


 放課後までにもう一度勇気をチャージし、再度のチャレンジを胸に誓う。


 午前中の授業を気もそぞろで流し、昼休みは梨央奈と食堂で昼食をとった。いつも食堂にいるはずの拓海の姿を探したが、空振りに終わった。


 月曜日だったため、心はお重の日だった。

 なんでもバレンタインデースペシャル弁当は、いつもより豪華なメニューだったそうだ。目をキラキラとさせて矢継ぎ早に感想を語る心を見て、嘉一の心への迫り方に感心せざるを得ない。しかもなんと、放課後にはチョコレートのデザートまであるという。心の笑顔は今日一日、クラスの男子の誰よりも輝いていた。


 放課後、もう一度夏帆は六組へ向かった。

 今度は、紙袋を持って出かけた。


 拓海は琥太郎と一緒にいた。

 そしてまた、女子に囲まれていた。


(拓海君、明らかにモテてる……)


 自己申告なんか、本当にあてにならないものである。もしくはモテ始めたから、夏帆のことを困り出していたのかも知れない。チャージしていた勇気がどんどんと減っていくのを感じる。


 琥太郎に話しかける女子らの中、拓海の横から絶対に離れず、ずっと拓海に話しかけている子がいた。人が沢山いるため手元まで見えないが、その女子がチョコレートを差し出すような動作が見える。


(……あの子)


 以前六組に夏帆が来た時に、拓海を呼びに行ってくれた女子、樋口だった。夏帆が拓海に「好かれてるんやないの?」と尋ねた子でもある。


(ポニーテールに、してる)


 夏帆に頼んだように、拓海がしてくれと言ったのだろうか。夏帆とした「練習」の本番相手に、彼女を選んだのだろうか。


 ズキリと胸が痛む。


 そしてやはり、あの子は拓海が好きなのだと確信する。

 拓海の恋人に牽制して、バレンタインデーに拓海の好きな髪型をして、拓海にチョコを渡す理由が他にあるのなら、誰か教えて欲しかった。


 人波の隙間から、拓海は樋口の手から何かを受け取るような動きを見せた。


 夏帆はふらり、とドアから離れた。

 あの集団に声をかけ、樋口の前で拓海だけを呼び出し、貰ってもらえる確証もないのに六組全員の前でチョコレートを差し出す――もしくは拓海をどこかへ連れて行く勇気までは、さすがにチャージ出来ていなかった。


(あんなにひどい終わり方をしておいて……)


 混乱し、感情をコントロールできなかった夏帆は、クリスマスに一方的に別れを突きつけた。拓海が何度「話そう」と言ってくれても、怖いからと全てを否定して逃げ去った。


 あれほど拓海によくしてもらったのに、「今更、何?」と言われても仕方がないようなことしか、夏帆はしてやれなかった。


『気合い入れて、チョコ作りますよ。何がいい?』

『ケーキ』

『任されよ』

『是非よろしく頼みます。俺の人生で、一番輝いてるバレンタインになるわ、それ』


 ケーキなら喜んでもらえるのではないかなんて、本当に自意識過剰で笑える。そんな大昔の口約束を覚えているのは、きっと夏帆だけ。


(あんな最悪な別れ方をした元カレにチョコ渡すだけでもやばい女なのに、手作りのチョコケーキ……)


 咄嗟の勢いで行動していた自分のやばさを目の当たりにして、一気に自分が恥ずかしくなった。


(仕切り直そう)


 告白は、何もバレンタインデーにだけ許された特別な儀式ではない。

 今日出来ないのに明日出来るのかと問われれば、逆ギレで「わからん!」と答えるしかないが、ひとまず今は、絶対に無理だった。


(こんな浮かれたものを渡すんじゃなくて、説明からして、謝罪を入れて……資料を作ろう……)


 廊下をふらふらと歩いて、夏帆は三組の教室に戻る。


 紙袋を持ち帰った顔面蒼白の夏帆を見て、今日一日女子の動向に目を光らせていたクラスメイト達が慌てる。


「か、夏帆~! 私、今日ずっとそれ美味しそうだなーって思ってたんだよねー! もしよかったら交換しない?」


 気を遣った女友達が、自宅に持ち帰るよりかはと提案してくれた。それもいいかもと薄く笑う。


「ありがとう。手作りなんやけど……」


「手作り!?」


 男子から、どよよっと声が上がった。


「誰か行けよ!」

「お前行け!」

「誰でもいいから頼む!」

「早く!」


 と、男子の集団がざわめいた。夏帆が目をぱちぱちとさせていると、「ねえ」と背後から声がかかる。


「早川。それ、俺食いたい」

「……松木君」


 振り返ると、あの日と同じほど緊張している松木がいた。


 松木に告白されたことを、夏帆は誰にも言っていなかった。クラスの誰も、松木の真意を知らないだろう。


「頼む」


 真に迫った声に、憐れみを覚えてしまった。


 応えられない自分。渡せなかった約束のケーキ。食べたいと言ってくれている人。


 夏帆は切ない気持ちを載せた笑みを浮かべた。


「――うん。どうぞ」


 夏帆が返事をしたと同時に、男子がわっと沸き立つ。


「早川さん!」

「俺にも! どうか! どうかお恵みを!」

「一生に一度かもしれんのよ!」

「女子の手作りチョコレート!」

「お願い! ひとかけでいいから!」


「え、はい。勿論……」


 どうぞ、と言うと「うひょーい!」と喜んだ男子の一人が、夏帆の紙袋を教卓に持って行った。松木が口を挟む暇もない。


 女子も男子も大人しい三組に、クラスチョコなどという文化はない。きっと、彼らは今日一つもチョコレートを手に入れられなかったのだろう。


 日頃、毒にも薬にもならない人畜無害な三組の男子らが、紙袋の中からケーキボックスを取りだし「ケーキだ!」「ケーキだぞ!!」「女子の手作りケーキだ!!!」と大声で喜んでいる。

 あまりの喜びように、夏帆はちょっと引いた。


「待て。均等に分ける」

「一人一人が最大サイズで食べられるように切れ」

「今いる男子の数は?」

「これなん? なんてケーキ?」

「ガトーショコラじゃね?」

「包丁あんの?」

「定規でいいやろ」

「汚ね」

「除菌シートで拭けば」

「持ってるやついる?」


 夏帆が呆気にとられている間に、あれよあれよとアルコール消毒された定規でケーキは切られた。ミリ単位で均一に切り分けられたケーキを、男子が囲んで拝んでいる。

 男子らは夏帆の前まできて二礼二拍手一礼で詣でると、一人一切れずつ慎重にフォークで刺して口に入れた。


 呆気にとられた夏帆が見守る前で、最後の一切れになった。最後まで残していたのは、松木だった。


 松木も他の男子に倣い、夏帆の前にきた。そして笑いながら二礼二拍手一礼をして教卓に戻り、フォークを最後の一切れに刺す。その瞬間――


 ――ガララッ


 もの凄い勢いで、教室のドアが開いた。


「そっ――のチョコ!」


 弾丸のように飛び込んできた男子が、教卓の前で土下座した。


「お願いします! 譲って下さい!」


 フォークを持ったままの松木は、ぽかんと口を開いて土下座している男子――拓海を見た。


 夏帆も心臓が飛び出そうなほど驚いた。口も目もぽかんと開けて、土下座している拓海の背中を見つめる。


 教室中がしーんとした。

 痛いほどの沈黙を破ったのは、松木だった。


「嫌だね」


 ぱくり、と口の中にフォークが差し込まれる。松木はこれ見よがしに大きく口を動かして、夏帆の作ったガトーショコラを心ゆくまで味わう。


 拓海は顔を上げた。その顔は真っ青で、絶望しきっている。


「早川」

「はっ、はい」

 口の中のケーキを嚥下した松木が、夏帆を見る。

 真っ直ぐに見つめられ、びくりと肩を震わせた夏帆に、松木は苦笑を浮かべた。


「――よかったね」

「……松木君」


 ごめんねとも、ありがとうとも、言えなかった。


 松木と夏帆の関係に反して、夏帆と拓海の関係はクラス中が知っている。

 微妙な空気が教室に流れ始めると、梨央奈が夏帆に耳打ちした。


「連れて行きなよ。あれ、片付けといてあげるから」

「ありがとう」


 教卓のケーキボックスを指さした梨央奈に、夏帆は礼を言う。片付けもだが、背を押してくれた言葉に、動かなかった足が動くようになっていた。


「拓海君……」


 教室の床に正座したまま放心している拓海の背に触れる。

 拓海は体を強張らせると、ゆっくりと夏帆を見上げた。


「夏帆さん……ケーキ……」

「うん」

「ケーキ……」

「うん。立とう」


 夏帆が両手を差し出すと、拓海は夏帆の手を取ることなく、一人でよろよろと立ち上がった。

 立ち上がった拓海の手を引けば、拓海は従順に付いてくる。手を繋いだ拓海が、とぼとぼと廊下を歩く。


「夏帆さんの……俺の・・チョコケーキ……」

「うん」


 うん。ともう一度頷いた声は涙で濡れていた。その声を聞いた拓海は、今までの無気力さが嘘のような強さで夏帆の手を引き、夏帆を後ろから抱き締めた。


 すっぽりと拓海の体温で包まれる。

 初めて拓海から抱き締められた感触に、夏帆は全身が歓喜で震えた。


 拓海はぎゅっと強く夏帆を抱き締めると、夏帆を解放した。離れた体温に淋しさを覚えるよりも先に、拓海は夏帆の手を取って、一直線に歩き出す。


 どこに行くのか、尋ねたりはしなかった。拓海も迷うことなく足を進めた。――いつもの空き教室まで。


 空き教室のドアを拓海が乱暴に開けた。二学期から近付いてもいなかったので、随分と久しぶりに感じる。

 夏帆を引っ張ったタクミが、後ろ手でドアを閉める。


「夏帆さん」


 夏帆を抱き締める拓海の声が震えていた。夏帆の背に回っている拓海の手も、微かに震えている。その震えが何よりも愛しくて、夏帆はぎゅっと拓海の制服を掴んだ。


「……うん」


 拓海は夏帆を抱えたまま手探りで椅子を持ってくると、夏帆を座らせた。そして制服のポケットから、四つ折りにした紙を取り出す。


 椅子に座った夏帆は、ぽかんと拓海を見上げていた。拓海はポケットからとりだした紙を開いて丁寧に皺を伸ばすと、何故か絆創膏だらけの両手で夏帆に差し出した。


「履歴書を持ってきました」


 夏帆は息を飲んで、拓海と、拓海の差し出した履歴書を見比べた。


「お受け取りください」


 震える両手で、夏帆は受け取った。大きく深呼吸しながら、拓海の履歴書を眺める。


 男の子らしいのびのびとした文字で、全ての項目が埋められていた。形はおおらかだが、とめ・はね・はらいは十分に気をつけられた丁寧な文字だ。


 そして、これほど時間をかけて書いたとわかる文字なのに、修正液を使っている箇所は、一つもなかった。


「俺、なんで夏帆さんが怒ってたのかわからんくらい察し悪くて、クリスマスケーキもバレンタインのケーキも間に合わんかったような男で……」


 夏帆はぶんぶんと首を横に振った。

 拓海がチョコレートをもらうために土下座してくれた時から、胸に溢れている期待が、涙になってポロポロと溢れる。


「でも、夏帆さんとやっぱ一緒にいたい」


 真っ直ぐに夏帆を見つめていた拓海が、拳をぎゅっと握って、頭を下げた。


「お願いします。もっかい、俺と付き合ってください」


 口を開いたのに、すぐに言葉が出てこなくて、夏帆は喉を震わせた。そして、夏帆は目線の高さにある拓海の頭に、ぎゅっとしがみつく。


「……こちらこそ、よろしくお願いします」





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