11:それは冬の十四日 2

 二月十三日――

 泰輝から「梨央奈がチョコ臭い体で帰ってきた」と報告を受けた万里は、十四日に吉岡家へ遊びに行く予定を確定させた。


 そして翌日の、二月十四日。


「万里。なんか機嫌よくない?」

 はい、チョコレート。と本日何個目になるかわからないチョコを差し出される。講義を終えた瞬間、万里の元にやってきた友人――愛菜に、万里はトートバッグに入った飴の袋から、一粒の飴を取り出す。


「ありがとう。じゃあ、はい。ホワイトデー」

「またそれ~?」

「この飴、美味いよ」


 既に二十人以上から、万里はチョコレートの類いを貰っていた。

 ひと月も顔と名前を覚えておくのも、ホワイトデー当日に彼女らを探す手間も、どちらも大変なことを万里は二十年間の人生で学んでいるため、去年から即時飴返還方式を導入している。


「えー。ホワイトデー、旅行行こうよ。お金なら私出すし」

「はは」

 万里は笑顔で飴を突き出した。


(誰かと旅行とか……部活でも仕事でもないんに、冗談やろ)


 四六時中誰かと一緒にいるのも、相手と予定を合わせなければならないのも、苦痛以外のなにものでもない。

 それでも、泰輝と知り合う前の万里なら、衝突する面倒を避けるために承諾していただろう。けれどもう、万里は上質な時間の過ごし方を知っている。そんなことに自分の時間を割くのは勿体なかった。


 笑うばかりで一向に頷かない万里に、愛菜もそれ以上は言ってこなかったが、場に残った空気から、冗談の振りをしつつも本気で言っていたことは伝わって来た。


「もー。いつか絶対行こうね」

 愛菜が笑って、万里の差し出した飴を受け取る。


「あの、私もいい……?」

 愛菜の後ろから、他の女子がチョコを持って現れた。

 女子らはバレンタインデーにかこつけて、普段交流のない万里となんとか接点を持とうとしているだけで、持ってこられるチョコレート自体に重みはない。

 万里は感謝の言葉と共に、また飴を一粒渡しす。そうしているとまた女子が現れ、その次も現れ――と、何度か同じ行動を繰り返した。

 人の波が途切れると、万里は席を立った。隣で万里を見ていた泰輝が、きゃらきゃらと笑いながら隣を歩く。


「こんなアイドルの出待ちみたいなん、初めて見たわ」

「はは」


 大学に入ってからのバレンタインデーは気楽だった。告白を兼ねてチョコレートを渡してくる女性も、手作りチョコレートも減ったからだ。本命と呼ばれるチョコレートは、貰うのも断るのも大変だ。


 建物を出たところで、泰輝のスマホが鳴った。吉岡家は仲が良く、家族でLINEのグループを作っている。


「お。梨央、五時には帰るって」

「行こ」


 これから受け取るだろう何十個のチョコレートよりも、梨央奈が作ったチョコレート菓子の方が何倍も楽しみなのは当然である。


「なん作ってるんやろな」

「生チョコがいい。あれなら下手でも食える」

「梨央には言うなよ〜」


 他の女子には言わないが、梨央奈には言いたかった。きっとムキになって言い返してくるだろう。想像するだけで笑いそうになる梨央奈の反応を見たくて堪らない。


「きーよぴぃ」


 語尾にハートマークを付けたような甘ったるい声で、名前を呼ばれる。

 こんな呼び方をする人間は一人しかいない。万里は内心、面倒な人に見つかったと思いつつも、無表情で振り返った。


「あれ? 誰かに呼ばれた気がしたけど――」

「おいコラ。ダルいことやってんじゃないわよ」

「ああ、下にいたんすか。すんません、見えませんでした」


 低身長をからかうと、女性は天使のような笑みを浮かべて、万里の足を踏んづけた。鋭いヒールは、スニーカーの上からでもそこそこ痛い。


「チョコ。わざわざ貰いに来てあげたんだから、感謝しな?」


 どーん! と大海原を股にかける女海賊のように、美女が大胆不敵な笑みを浮かべる。

 最初のうちは面食らっていた泰輝も、万里と過ごすうちにこの女性の襲来には慣れたようだ。


「大物は何処かな~」

 万里のトートバッグに手を突っ込み、立派なチョコレート箱を探しているのは、廣井ひろい 一二美ひふみだ。


 当然、万里のスマホにInstagramのアプリをインストールしたのも、IDを勝手に作ったのも、通知をオンにしたのも、この女である。


「高いのはないすよ」

「馬鹿言ってんじゃないわよ。義理に見せかけた本命が紛れてんに決まってんでしょ。ほーら、デレルイ! あった!」


 小さな箱だったので安物とばかり思っていたチョコレートを、一二美は次々と発掘していく。

 本命とわかっていつつ、一二美は持って行く気満々だ。万里もまた、本命とわかったところで一二美を止めない。万里は自分を優しい人間とも、正しい人間とも思っていない。


 一二美とは、高校で知り合った。


 身長が高いからと誘われたバスケ部になんとなく入った万里は、全校生徒どころか教師が引くほどにモテた。


 モテる上に、万里はバスケもそこそこ出来た。現役時代は、練習の度に押し寄せた女子の団子が出来、他校試合の度に女子の山が出来た。


 到底今話の文字数では語り尽くせないほどの様々でいて色々なゴタゴタを引き起こした万里だったが――そのいざこざをおさめたのが、バスケ部マネージャーで当時のバスケ部部長の恋人だった一二美だ。


 万里の自称ファンらを「邪魔!」の一言で追い出し、部員達を「小姑の演技の練習でもしに来たの? 演劇部立ち上げさせてくれって先生に言ってきてあげようか?」と煽り、万里には「自分の顔ぐらい自分で始末つけろ!」とお綺麗な顔を般若のように歪ませ、万里の尻を蹴る、最強最悪の女だった。


 そんな鬼マネージャーに怯える内に、なんとなく万里がいるバスケ部に、部内の全員が慣れていった。

 元々きつい性格をしている一二美が、万里には殊更厳しくあたるため、メンバー達も次第に万里に同情していったのだ。


 部員から反感を買っても、当時の部長の彼女だった一二美には誰も文句を言えなかった。

 その上、一二美は人一倍要領もよかった。仕事は完璧な上に、教師陣には適度に甘えて物事を円滑に進めたり、収めたりするのが上手かった。

 つまり部長が引退をしてからも、二人が別れてからも、部活内の大いなる実力者である一二美に何かを言える人間など、部内にはいなかったのである。


 結局、万里は三年間を費やした部活動の中で、上辺以上の友人を持つことは出来なかった。しかし、コートの中では仲間と呼べる関係を築けたのは、一二美の「バスケをする人間は全員部員」という一貫した対応があったからだと、万里は思っている。


 万里が肩からぶら下げたままのトートバッグを、背伸びをして覗き込んでいた一二美の動きが止まった。そしてするりと、しなやかで細い指が万里の腕に絡みついてくる。


「ばーんり。今日私と遊ぶ?」

「遊ばなーい」

「死ねよ」

「すぁせん」

「礼言えよ」

「あざぁっす」


 なぜ礼を言わされたのかはわからないが、一二美には従っておいた方が楽だ。腕一本が、多少重くなるぐらいいいかと放っていると、廊下の向こうで一人の女生徒が踵を返した。


「礼言え?」

「ありがとうございます」


 女生徒の反応と、一二美の恩着せがましい表情を見る限り、どうやら大学では告白チョコがなくなったなど、安心してはいけなかったらしい。


 一二美がまだ腕にくっついていると、カシャリとどこかでカメラ音がした。そちらへ視線を向けると、素知らぬ顔をして、名前も知らない女生徒が通り過ぎていった。LINEやメールで友達に見せるのか、SNSに上げるのか――どちらにしろ、勝手に消費されることには間違いなかった。


 何故か万里が顔も知らないような人間が、万里の写真をSNSに投稿するらしい。万里自身は詳しくないが、周りが――ある者は自慢げに、ある者は心配を装って――万里に教えてくれる。

 

 ある時投稿した人間を偶然にも見つけたので、理由を聞いてみたのだが、「ごめんなさい、すぐに消すから」とか「数時間で自動的に消えるから」とか「身内しか見えないようになっているから」とか――謝罪と言い訳ばかりを連ねられた。

 しかもその言い訳がまた理解出来ないため、余計にスマホへの苦手意識も湧く。


 やはり面倒臭くなり、万里は気にしないことにした。万里にとって価値がないことにこだわっていては、生活がままならない。

 ただ、好きか嫌いかで言えば、端的に嫌いである。


「よしぴーにもくっついてやろうか?」

「惚れるんで止めてください」

「まじ面白いんやけど」


 惚れさせよ! っと万里から離れ、泰輝にくっつこうとする一二美を、泰輝は腰を落としてディフェンスする。しかし一二美はあっさりと抜き、ぺたりと泰輝の背中にへばりついた。泰輝は顔を真っ赤に染め上げて硬直する。


 しばらく泰輝をからかって遊んでいた一二美だが、数分もすれば飽きたらしく、チョコレートを抱えて立ち去った。泰輝はびっしょりと額に汗をかきながら、ふらふらと万里に近付いてくる。


「顔熱い無理溶ける……。お前、いつもあんなんよく耐えられるな……」

「生ぬるい肉なだけやし。豚肉触っても赤くはならんやろ」

「清にとって女子はスーパーに陳列された豚肉のパックと同じか……」


 そうはなりたくはないな、と泰輝に蔑まれる。羨ましがられなかったことが嬉しかった万里は、お返しに泰輝をぎゅっと抱き締めたのだが、悲鳴混じりに逃げられてしまった。




***




「ただいまー」

「おかえりー」

「おかえり」

「あ、来てたんですか。どうも」


 吉岡家に先に到着していた万里は、帰ってきた梨央奈を玄関まで迎えに行った。

 しかし梨央奈は挨拶を済ませるとすぐに、自分の部屋へ行ってしまった。万里は、一旦引き下がる。帰宅早々チョコをくれとがっつくのも品がない気がした。


 しかし、帰宅の遅い吉岡父の代わりに万里がダイニングテーブルで夕食を食べ終えても、食後に吉岡母がチョコレートプリンを出しても、帰る時間になっても、梨央奈がチョコレートを持ってくることはなかった。


「梨央、お兄ちゃんらにチョコは?」


 万里が帰る前にと、泰輝が梨央奈に気を利かせて質問する。梨央奈は「あっ」と目を見開き、顔を青ざめさせた。


「わ、忘れてた……」


 忘れてた。


(忘れられてた)


 バレンタインデーを主役としてしか過ごしたことのなかった万里にとって、生まれて初めての経験だった。

 表情にさほど変化はなかったが、内心、ものすごく動揺した。


(じゃあ、あれは誰に作ったん?)


 スーパーマーケットの製菓コーナーで、梨央奈は確かにチョコレート菓子の材料を購入しようとしていた。てっきり泰輝の言う通り、自分達用だとばかり思っていたのに――


 梨央奈の好きな「コタロー君」の顔が一瞬、万里の脳裏を過ぎる。


 呆然とする万里の横で、泰輝が梨央奈に詰め寄っていた。


「え!? こないだ材料買ってたやん!」

「なんの話?」

「スーパー、おったやろ?」

「――え? あっ、それ夏帆のやない? 夏帆が作る材料買うの、付き合ってたから。夏帆がトイレ行ってる間は私がカゴ持ってたし」

「じゃあ、昨日甘い匂いさせてたんは?」

「だから、夏帆が三浦君のために作ったんやろ。私と心は手伝ったりつまんだり」


 梨央奈が作ったわけではないらしい。

 自分が貰えていないチョコレートを誰かが貰ったわけではないと知り、万里は何故かもの凄く安堵した。


「えー。えー……今年俺のないの?」

「……泰ちゃん、そんな欲しかったの?」

「欲しかった……。楽しみにしてた分ショックがでかい……」


 泰輝がゴロンと床に横になる。泰輝はシスコンを否定するが、完全にシスコンである。


(そっか……楽しみにしていた反動か)


 寝転がってうだうだと管を巻く泰輝を見下ろした万里は、自分の落ち込み具合に納得した。


「ええ……ごめんって泰ちゃーん」


 落ち込む兄に罪悪感が刺激されたらしく、梨央奈はオロオロと芋虫になっている兄を揺さぶる。


「俺もほしかった……」

「清宮さん、ノってこないでください」


 本心だったのに、悪ノリとしか受け取ってもらえなかった。梨央奈は万里の相手などしている暇はないらしく、床でめそめそと泣いている兄をどうにか元気づけようとしている。


「……あ、そうやん!」


 梨央奈はパッと明るい表情で立ち上がり、台所へ向かった。

 いい風が吹き始めたと、万里と泰輝が梨央奈の後ろについて行く。


 冷蔵庫にあったバナナの皮の一部を剥くと、梨央奈はバナナの実に包丁で切れ目を入れ始めた。吉岡家のお菓子が入っている棚を探り、チョコレート菓子を取り出すと、バナナの割れ目に次々と差し込んでいく。皮が残ったままのバナナをアルミホイルに巻き、トースターに入れて数分――取り出したバナナは、焼きチョコバナナになっていた。


「キャンプ動画でよく見かけて、美味しそうやなーって思いよったんよね」

 はいどうぞ、とバナナを一本ずつ皿に載せ、梨央奈が泰輝と万里に差し出す。


 一応万里の分も作ってくれたらしく、皿の上に焼いたバナナがごろりと転がっていた。

 火が通って半透明になったバナナからは、甘い匂いが立ちのぼる。バナナの隙間で温められたチョコレートが、どろりと溶けていた。

 万里がスプーンを差し込むと、銀色の平たい面に湯気があたり、スプーンが曇る。


 泰輝はにこにこ笑顔でスプーンを口に入れ、「熱い!」と叫んでいる。梨央奈は兄が心配なようで、冷たい水をグラスに注いで差し出していた。


 そんな二人をよそ目に、万里もバナナと一緒にチョコレートを口に入れる。もの凄く甘いそのチョコバナナを、万里は味わいつつもペロリと平らげた。




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