10:それは冬の十四日 1


「あ」


 分厚いコートが必需品となってくる二月。

 泰輝の運転手として、吉岡家の近くのスーパーマーケットに来ていた万里は、商品棚に埋もれる少女を見つけ、小さな声を上げた。


「どうした? お、梨央奈やん」

 隣にいた泰輝も、妹に気づく。

 当然のように梨央奈の方へ足を踏み出した万里を、泰輝が腕を掴んで止めた。


「行かんほうがいい」

「なんで?」

「行ったら恥ずかしがって逃げると思う」


 梨央奈がいるのはチョコレートコーナーだった。

 ピンク色の垂れ幕が天井からぶら下げられ、平常よりもカラフルなパッケージがずらりと並んだ特設のチョコレートコーナーは、二月の目玉イベントでもあるバレンタインデー仕様だ。


 日頃は置かれていない大きな塊のブロックチョコレートや、アラザンやミックスカラースプレー、アイシングシュガーといったデコレーション材料の前には、女性客が沢山いた。誰もが皆、スマホでレシピを確認しながら、慎重に吟味している。その群衆の一人に紛れている梨央奈を、万里は簡単に見つけ出した。

 梨央奈は片手にスーパーマーケットのカゴを引っかけている。その中には、すでにいくつかの材料が放り込まれてあった。


「今年は作るんか」

「いつも貰うん?」

「毎年くれるよ。あれだけ買ってるならたくさん作るやろうし、清も貰えるんやない?」

「へぇ」


 梨央奈は棚に置かれいる、大袋入りのチョコレートの塊を見つめている。何を作ってくれるのだろうか。こちらに気付くことなくチョコレート棚を見ている梨央奈の後ろ姿に、万里はわくわくとした。


 バレンタインデーが楽しみなのは、生まれて初めてだ。


 ――清宮 万里は物心つく前から大変モテた。


 生まれた頃からあまりにも顔が整っていたせいで、近所の写真館から「お代は結構ですので、店頭に写真を飾らせていただけませんか」と懇願されるほどだった。CMに出られそうなほど整った顔立ちと、賢く控え目な性格は、老若男女を簡単に虜にした。

 年を重ねる毎に、自然と万里も自分の容姿が人目を引くことに気付いていった。中学を卒業する頃には――万里が望む望まないにかかわらず――大勢の人間が周りにいることが普通だった。


 その人々は、万里に必ず何かを求め、万里が応えることを当然のように期待していた。


 思えば、小さな頃から搾取され続ける人生だった。


 自分の使っていた遊具を取り合われ、自分までおもちゃのように取り合われ、見せびらかすために腕を組まれ、コレクションにされるために写真を撮られ、勲章のように連れ歩かれた。


 万里の意思とは関係ないところで、人々が万里の行動や価値を決める。

 人は自分のしたいことをするものなので拒否するだけ無駄だと、万里は幼いながらに気づいていた。


 万里は受け入れることに慣れていた。

 出過ぎた杭は打たれるというのに、万里は際立った容貌のために、引っ込むことすら自分の意思ではかなわない。それ故か、万里のこの長い足は、とりわけよく引っ張られた。


 人が近付いてくるのも、離れていくのも、万里はいつも同じ場所から見ていた。


 ――そんな万里が自分から興味を持った人間は、泰輝が初めてだった。


 大学でも万里は、案の定女子と、女子目当ての男子に囲まれていた。始めたばかりの一人暮らしに気力と体力を吸われつつも、人に合わせてうんかうんやうんと言っていれば、人生は進む。特別にいいこともない代わりに、特別に悪いこともない味気ない人生。


 可もなく不可もない時間がただ過ぎるのを待っていた万里は、大学の構内で泰輝と出会った。


「万里ぃ。服買ってよ〜」

「金ないっすね」


 とある日の昼休み、万里は大学の構内で顔見知りの女子らに話しかけられていた。話しかけられれば、まだ顔と名前が上手く一致せずとも、応対するのが万里だった。


「じゃあ、選んでくれるだけでいいし。一緒行こ」

「そんで帰り、万里の家寄らせてよ。酒買ってさ。最近美味しいの見つけたんよ」

「うち、面白いもんなんもねえよ」

 これまでの経験上、家で女に酔われると圧倒的に面倒事が増える。一応断るが、女子らは意に介さなかった。


「確かになーんもなさそう。ベッドだけぽつんとある感じ」

「家具とか選んだげよっか?」

「フライパンとか調味料もないんやろ?」

「料理はするよ」

「はい嘘。レンジは調理器具に入らんからね」

「手作りとか似合わなすぎやし」


(あー……だる)


 これ以上会話をするのが面倒くさくなったため、万里は適当に出かける約束をして話を切り上げようとした。

 しかしその時、「なあ」と別の男に声をかけられる。


「清宮、ちょっといい? 聞きたいことあるんだけど」

「なに?」

 万里は声をかけてきた人物を見た。平凡で人の良さそうなその顔は、教室で見たことのある男だった。いくつか同じ講義をとっている。


 自分が名前を知らずとも、相手がこちらの名前を知っていることは、万里の人生において珍しいことではない。

 見た目以外は大して面白みもない人間だからこんな人間関係しか築けないのだと理解はしていても、しゃにむに頑張るほどの熱意を自分の人生に持てなかった。


「掲示板にあった山村先生の授業やけど――」

「ああ、それなら――」


 聞かれたのは簡単なことだったので、万里はその場ですぐに返事をした。誰に聞いたっていいようなことを、わざわざ自分に聞きたがる人もまた、珍しいことではない。


「あんがと、助かった。お礼に昼でも奢ろうか?」


 男の提案に万里は一瞬迷ったが、ついて行くことにした。

 自分に寄ってくる男は、目立つ万里の友人という位置にいたいか、万里の周りにいる女子とお近づきになりたいかのどちらかだった。


(こんな、いい人ですって顔して。どっちなんやろ)


 泰輝の隣を歩きながら考える。人の良さそうな顔の裏に、どんな欲求を隠し持っているのか、純粋に知りたかった。

 人気ひとけがなくなってきたあたりで、泰輝は万里に声をかけた。


「お節介やったらごめんな」

「?」

「清宮、俺がさっきあそこ通った時からずっとおったし。昼飯、食ってないんやないかと思って」


(昼飯?)


 確かに、と万里は自分の腹を無意識にさする。

 次から次に人に知り合いに捕まっていたので、万里は昼食を食いっぱぐれていた。


(は? 誰かあの中の女を紹介してほしいとかやなくって……俺の昼飯の心配したってこと?)


 自分をそんな風に見ている人間がいるだなんて思ってもいなかった万里は、泰輝をまじまじと見てしまった。


「それに、うーん――ま、俺の勘違いやったらほんとキモくてごめんやけど。楽しくなさそうやったから」


 万里は驚いた。

 そんな風に、家族以外に万里自身を気遣われたのは、多分初めてだった。


「……ならあんたは、俺と楽しいことしてくれんの?」

「お、いいよ。なんする? ゲームでもする?」


 でも、まずは飯な。


 そんな一言で、万里は泰輝に懐いてしまった。奢ってくれると言った昼飯が、安い立ち食いうどんだったのもウケた。万里は初めて、同じ歳の男子と肩が触れ合う位置で並んで立って、昼飯を食べた。


 それから万里は暇さえあれば泰輝のそばにいた。おかげで煩わしい人間関係が余計煩わしくなったり、反転、楽になったりもした。万里はいつも通り、去る者は追わなかったし、泰輝といるようになってからも、来る者は拒まずにいた。


 泰輝は他の友人らと同じように万里を扱った。

 そのことが、万里に言葉では言い表せない感情を生む。勝手に与えられ、勝手に奪われることに慣れすぎていて、万里は自分の感情を見つめる機会がこれまでほとんどなかった。

 この感情が、嬉しいだとか、楽しいだとか、喜びだとか――そういった類いのものと万里が気付いたのは、泰輝とつるみ始めてゆうにふた月は越えた頃だった。


 泰輝とは電車で二駅と地元も近かったおかげで、吉岡家にも遊びに行くようになった。万里はすぐに泰輝母に気に入られ、入り浸るようになる。一人暮らしをしている万里を心配し、牡蠣とは別に夕食まで用意されてあることも頻繁にあった。


 吉岡家にいると、万里は時間も、身体も、尊厳も、何一つ搾取されることがなかった。


 ――梨央奈をかまっていたのは、泰輝の言った「楽しいこと」の一つだった。


 庭で牡蠣を焼く光景は、万里にとって初めて見るものばかりで、単純に新鮮だった。


 しかも梨央奈は万里に何も求めない。


 冬の星空の下、火を焚く音だけが聞こえるような、透明な夜。


 ただ流れる時間が穏やかで、こんな空気を吸うのは初めてだった。

 これまでずっと、早く時間が流れてしまえばいいと無為な時を過ごしていた万里にとって、こんなに一瞬一瞬を噛みしめるような、緩やかでいて貴重な時間が存在することさえ知らなかった。


 梨央奈が戸惑っているのも、邪魔だと思っていることも気付いていた。それよりも、万里は自分の欲を優先させた。

 奪われることに慣れた万里だったが、この時間はどうしても、奪われたくなかった。


 そして梨央奈は、万里から何も奪わなかった。


 彼女のルールの中にさえいれば、万里がただそこにいることを許してくれた。


 かまいたい時にかまって、会いたくなれば会いに行って、甘やかしたいだけ甘やかす。


 そんな梨央奈との関係は、他の誰とも重ならない、特別なものだった。


 だからバレンタインデーの手作りチョコは、梨央奈が自分に懐いた証のような気がして――万里はその日が、心底待ち遠しかった。




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