06:世界一のおまもり


「おう、新入り。つら貸しな」


 何くれと世話を焼きたがる早雪に手伝ってもらいつつ、段ボールの中のものを片付けていた琥太郎は、聞き慣れない声に顔を上げた。


 琥太郎が貰ったはずの部屋のドアは、先ほどから琥太郎の許可なく開いては閉じてと大忙しだ。


 これまで昭平と平穏な生活しか送ったことがない琥太郎は、若干尻込みする。あまり動じないことを自分のアイデンティティとしていたが、今日は驚くことだらけだ。


 琥太郎の部屋と廊下を区切る扉には、もの凄く不遜な表情を浮かべる、とてつもない美人がいた。


 テレビで活動する女優やアイドルらと並んでも何の遜色もないほど可憐な美女から「聞いてんの?」とドスの利いた声がする。


「あんた、さゆに気があんでしょ」


 何一つ事態についていけてない琥太郎の横で、早雪が「んははは」と笑う。


「琥太君、気にしないでね~。私に近付く男みーんなにこれ言ってるから」


「私の目を誤魔化せると思ってんの? 白状しな、芋っこ」


 笑う早雪と、琥太郎をねめつける美人とのコントラストに、琥太郎は目をぱちぱちとさせた。


「琥太君、これが前に言ってたお姫様。お隣の家のひーです」

「ひーちゃんと呼びな」


 ふんぞり返って言うひーこと廣井ひろい 一二美ひふみに、琥太郎はかろうじで「どうも」と頭を下げる。


「なん。まともやん」


 再び現れた闖入者に琥太郎がまたぎょっとしている横で、早雪がにへらっと笑う。


「おっ、嘉一~! 見て! うちの可愛い弟! 見て、見て!」


 立ち上がり、とたたっと嘉一の肩を掴んで琥太郎の方を向かせる早雪を、嘉一は腕を払って煙たがる。


「うざい。触んな。んなことせんでも見えてる」

「もー反抗期っ」


 早雪はにこにこと笑いながら、嘉一を後ろから締め上げて、首を固定した。


「いい? 琥太君、こういう時はね。ちゅーをして黙らせます」


 うるさい口をキスで黙らせるなんて、少女漫画のイケメンのようなシチュエーションである。琥太郎はただただ成り行きを見守るしかない。


「嘉一はいつまでもお姉ちゃん達が大しゅきっ! やから、さゆにちゅーしてほしくって反抗してるんでちゅもんねー?」


 これでもかというほど馬鹿にした口調で、一二美がくすりと笑うと、顔を蒼白させた嘉一が暴れて、早雪の腕から逃げ出す。


「お前らほんっっとにウザいッ!!」


 嘉一に構う早雪を見て、琥太郎は納得した。早雪があまりに「弟」にかまい慣れていると思ったら、こういうことだったらしい。


 かまい倒されている嘉一と呼ばれた少年は、かなり背が低く、童顔だった。前情報で同じ歳だと知らなければ、小学生だと思ったかもしれない。もう少し髪の毛が長ければ、気が強そうな女の子にも見えただろう。


 琥太郎と違い、照れなど微塵も感じさせない表情で、嘉一は更にへばりつく早雪を振り払う。


「――横の家の、廣井 嘉一」


 必死の形相でちゅーは回避した物の、散々ぐりぐりぎゅっぎゅとされた嘉一が、ぐったりとしてこちらにやってきた。嘉一への仕置きを終えた早雪と一二美は、既に隣で他の話題に花を咲かせている。


 琥太郎は呆気にとられつつ、嘉一が指さした窓の向こうを見た。丁度この部屋の窓から見える家が、廣井家のようだ。

 塀で囲んだ敷地内に、母屋と離れと納屋と蔵が建っている。その敷地は広く、琥太郎が今日まで住んでいたアパートの部屋がいくつ入るかわからなかった。


「西 琥太郎」


 簡潔な自己紹介に、簡潔な自己紹介を返す。

 今までの自分だったら、お隣さんだからといって親しくする必要はないと、これで終わっていたに違いない。


 ただ、この場には早雪がいた。


「二中から来たんだ。よろしく」

「あー。二中なら久保って眼鏡おったやろ」

「……クラス一緒だった奴かも。なんで知ってんの?」

「塾が一緒だったんだよ。あいつさ――」


 嘉一はようやく人心地ついたように、琥太郎のそばに座った。

 嘉一は琥太郎を「まとも」と言ったが、嘉一の持っている常識は、琥太郎のそれとは僅かに違っているようだった。少なくとも琥太郎の常識では、初対面の人間の部屋に我が物顔で入ってこないし、そのまま居座って話を続けようともしない。


「わ、これニコモンカードじゃん。ガチ勢?」


 開いていた段ボールの箱から、小学生の頃に流行っていたニコモンのトレーディングカードのファイルを見つけ出した嘉一が、嬉しそうにバインダーを広げる。


「いや、子どもの頃の残してただけ」

「キラばっかやん! うわ、お前レア運やばいな……なあこれさ。今プレミアついてて――」


 嘉一が次々とページを開いては琥太郎に話しかけてくるので、琥太郎は荷解きは一旦中止することにした。





 結局、嘉一と一二美が玄関に向かったのは、夕食を食べたあとだった。ちゃっかり西家で寿司まで食べた二人に、琥太郎は脳内でつっこむことも、常識を当てはめることを諦めた。


「面白いお友達だったね」


 一二美から玄関を出ての見送りを希望されたため、流れには身を任せる派の琥太郎は、去りゆく二人の背に手を振りつつ早雪に言った。


「残念ながら、もう琥太君のお友達でもあるんだよ」


 早雪の言葉を耳聡く聞き逃さなかった一二美が、ぎゅんと玄関に引き返してきて早雪に詰め寄った。


「残念……? さゆ、今、残念って聞こえたんだけど……?」

「そう? 気のせいやない?」

「もう、さゆったらー」


 面倒臭いメンヘラ彼女のような一二美を、早雪がよしよしと撫でる。「おい、ひー! いい加減帰るっつってんだろ!」と叫ぶ嘉一の声が夜の庭に響く。


 この三人の関係性が今日一日で随分と見えてきた琥太郎は、これからの前途多難な日々を思って、ほんの少しばかり感傷的な気分で春の空を見上げた。




***




「学校にバレるギリギリって七番? 八番?」

「んー、琥太君髪やわらかいから色入りやすいやろうし、八番のトーンまで行くとバレるやろうね。外で見たら完全にアウトやと思う」

「じゃあ七番で透明感のあるシアーベージュ系入れてくすみ感出して、前髪は七三で分け目つくる。そんでゆるめのパーマで癖を矯正したいの、こんな風に」

「ここ画像大きくして。んー……これひと巻きでしょ? パーマ落ちやすいわよー……」


 夜。西家の隣に併設された美容室で、ケープを巻き、椅子に座らせられた琥太郎の頭を、左右から典子と早雪が挟んでいる。


 美容室の大きな窓の向こうは真っ暗だ。

 早雪の希望でやってきた典子の店舗には必要な場所しか電気をつけていない。営業中の活気を感じさせないしんとした美容室は、朝一に入る、誰もいない教室の空気に似ていた。


 琥太郎以外誰もセットチェアに座っている客はいない。

 鏡に映った琥太郎は、早雪のスマホを覗き込みながら専門的な会話をする母娘を、不安げな顔で見上げていた。


「カラーも入れるってなると、ダメージが気になるわねぇ」

「ブローもケアも出来る限りわたくし頑張りますので!」

「あんた、学校もバイトもあるでしょ」


 スマホの画像と琥太郎を見比べる二人は真剣な表情だ。

 特に早雪の目は真剣で、琥太郎の髪をコームくしで梳いては摘まんで引っ張る典子の指先を凝視している。


「さっきの画像みたいにするなら、根元にボリュームいるわよ」

「リバースで巻いて――」

「それ、長さ的にゴム無理でしょ。どうやってロッドに留めるの?」

「ピンでこうやって――」


 専門的な話は、当然だが理解出来ない。二人の会話を追うことをやめた琥太郎は、夕方の早雪との会話を思い出していた。


『琥太君がドキドキすること、全部さゆちゃんが貰っちゃっていいんかな〜』


 正直な話、早雪の言葉にピンと来てはいなかった。

 しかし、元来人に対して興味の薄い自分が、誰かのために何かをとっておきたくなるほど、今後、誰かに興味を引かれるとも思えない。


『……大丈夫。全部さゆちゃんにあげる』


 なら、早雪が惜しむほどのものをあげる相手は、彼女がいいと思った。


 琥太郎の答えに、早雪はいたく喜んだようだった。その後抱きつかれたことを思い出し、また照れる。

 早雪の距離の近さには戸惑いしかない。しかし夕方の嘉一への態度を見るに、嘉一同様、自分も完全に男として見られていないことはわかった。


(大人なら、あれが普通なのかな……)


 今日はつくづく、四つの年の差を感じる。

 中学の卒業証書を持つのがやっとの琥太郎の手とは違い、早雪の手は、車のハンドルを握り、ID入りの名刺をポイと投げ捨て、真剣な顔をして琥太郎の髪を摘まんでいた。





「――君、琥太君。何度もごめんね〜。終わったよ。お疲れ様」


 優しい声と、柔らかい温もりに揺り動かされる。


 いつの間にか眠っていたらしく、琥太郎はハッとして顔を上げた。鏡の中の自分がぼやけて見えるのは眠っていたからではなく、眼鏡をかけていないためだ。

 二度か三度、夢うつつのまま髪を洗いにシャンプー台まで歩かされたが、それ以外の記憶が全くない。


 首に巻いていたケープを外されると、回転椅子の後ろのレバーを踏んだ早雪がぐるりと椅子を回す。セットチェアから立ち上がる琥太郎に、早雪が「はい」と眼鏡を差し出した。


「かけてかけて」


 今日早雪と選んだ眼鏡だ。琥太郎は眼鏡を受け取ると、いつも通り耳の上にテンプルを通す。

 レンズの縁の幅が変わったせいか、視界がいつもと違う。とはいえ、数日もすれば慣れるだろう。


「っ……!」


 琥太郎が指の背で眼鏡のかけ心地を調整していると、目の前にいる早雪が呻いた。


 早雪は拳を握り、奥の方で琥太郎から切り取られた髪を片付けていた典子を呼びつける。


「お母さんー! 来てー! お母さんー!」

「はいはい――あら! いいじゃない! 俳優さんみたい! 色も綺麗に入ってるわね」


 典子と早雪がよく似た笑顔ではしゃいでいる。

 寝ぼけ眼の琥太郎は、鏡の中にいる自分を見て、ゆっくりと覚醒した。


 くるくるもじゃもじゃで手に負えなかった髪は、ゆるいパーマをあてたような、人工的でお洒落な髪型になっている。髪の色もほんのりと明るくなっており、生えっぱなしだったボサボサの眉も形を整えられていた。

 早雪が見立てた服と眼鏡のおかげもあり、鏡の中の琥太郎は驚くほど垢抜けていた。


「……すごい」


 見違えるとはこのことだ。自分ではない人間を見ているようで、琥太郎は唖然とした。


 吸い寄せられるように鏡に近づいた琥太郎は、しばらく鏡の中の自分を見ていた。


 自分なんかが多少外見をいじっても何も変わらないと、琥太郎は今の今まで本気で信じていた。


 けれど、早雪の言葉に動かされ、変わろうとしてみたら――自分の視野も世界もまだまだとんでもなく狭かったことを知った。


「ありがとう。さゆちゃんって凄いね」


 鏡を覗き込んでいた琥太郎が、早雪を振り返る。笑顔が自然に浮かんでいた。


 琥太郎から取り払ったケープを抱き締めていた早雪が、ぽかんとした表情で琥太郎を見る。


 そして、潤ませた目を柔らかく細めた。

 これまで見た早雪の表情の中でもとびっきりに優しく、甘く、そして幼い顔で、早雪はふんわりと笑った。


「琥太君。――こちらこそ、ありがとう」





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