05:全部あげる

 階段を上った先には、三つの部屋がある。納戸と、早雪の部屋と、琥太郎の部屋だ。


 琥太郎の部屋はつい最近まで、もうずっと使っていない布団や机を乱雑に詰め込んだ物置になっていたのだが、彼らが越してくるのを機に片付けていた。畳には濃い日焼けのあともあったため、琥太郎のためにフローリングに張り替えている。


 そんな琥太郎の部屋の扉を、早雪はノックもせずに開けた。弟の部屋をノックするという常識は、残念ながら早雪にはない。


「琥太君ー。夜ご飯なんだけど」

「わあ?!」


 白い足を剥き出しにした琥太郎が、声をあげて驚く。一本足打法のように不自然なポーズで固まっている琥太郎の片足には、ズボンが引っかかっていた。どうやら帰って来たら部屋着に着替える派らしく、ジャージに着替えようとしていたらしい。


「あ、ごめんね? 履いていいよ」


「……え? え?」


 戸惑う琥太郎をスルーして、早雪は部屋に入る。


「ていうかせっかくなら、今日買った服着てよ! タグとってあげるから。カッター借りるね」


 床に落ちていた荷解き用のカッターを使って、先ほど買ってきたばかりのスラックスとプルオーバーシャツのタグをプチンと切った。脱ごうとしていたズボンを大慌てで穿き直していた琥太郎が、手渡された服を見て、早雪を見る。


「あ、目閉じてるから、着替えていいよー」


 早雪は部屋を見渡した。封の開いていない段ボールが三つと、封が開いている段ボールが一つ。荷解きの邪魔にならないように配慮して、荷物が散らかっていない琥太郎のベッドの上に座った。


「……」


 早雪が両手できっちりと目を閉じると、ガサゴソと物音がし始める。琥太郎が着替え始めたのだろう。


「もーいーかい」

「いいよ」


 ものの数秒で着替え終えた琥太郎を、早雪はガン見した。上から下までじっくりと六往復ほど見たあとに、両手を叩く。


「めっちゃいい! やだめっちゃ好き! 琥太君似合う!」


 ゆるっとしたプルオーバーシャツに、黒い細身のスラックスが琥太郎のスタイルによくあっていた。スラックスは採寸済みで、琥太郎の足が一番長く見える丈で切ってもらっている。


「ちょっと体触るよ。ここから力抜いて、胸張って――今。そのぐらい胸張って。足広げて、もう少し――そこ。つま先開いて。顎引いて。これ。これが綺麗に見える姿勢。覚えて」


 琥太郎にS字カーブを意識させた姿勢を取らせると、先ほどよりも更に格好良く見える。


「わーん。めっちゃいい……」

「ありがとう……」


 早雪が手に入れたおもちゃの遊び勝手の良さに感動していると、琥太郎は頬を赤らめて照れ笑いを浮かべた。


「更に可愛い! 琥太君満点!」

「さゆちゃんは採点甘いなぁ」


 琥太郎が苦笑を浮かべる。完璧に可愛い弟にひとまず満足した早雪は、部屋にやって来た目的を思い出した。


「そうそう。夜ご飯の話に来たんだった。琥太君お寿司好き?」

「好き」

「やったー! 夜、出前頼もうって」

「やった。俺穴子が一番好き」

「あ。じゃあ穴子がいっぱい入ってるセット頼む?」

「うん」

「おっけー。伝えとく」


 その場からLINEで母に琥太郎のリクエストを伝えると「了解でーす」とカッパが敬礼するスタンプが送られてきた。


「ねえねえ、琥太君見て。カッパ。可愛くない?」

「か、わいいね?」

「急ぎます、のアイコンだときゅうりに乗ってんだよ。年中お盆かよっていう」


 過去に送られてきたスタンプをスクロールして探す。琥太郎は早雪から少し離れた場所で、居心地悪そうにそわそわとしている。


 早雪はぽんぽんと自分の隣を叩いた。


「琥太君、そういう時はここ」

「ええ……」


 琥太郎の逃げ腰を敏感に感じ取った早雪は、キリッとした顔を作って言った。


「世界の半分を味方につけるんやろ? 練習あるのみ」

「言ってることが大ごと過ぎるし、しょっぱなからハードル高いなぁ……」


 困った顔で眉を下げる琥太郎がはちゃめちゃに可愛かった。スマホなど存在すら忘れてしまい、早雪は琥太郎をにこにこと見上げる。


 眉毛を八の字に下げた琥太郎が、早雪の隣に人一人分のスペースを空けて座った。壁に肩がめり込みそうな琥太郎をにまにまと見ていた早雪は、琥太郎が作っていたスペースを潰すべく、お尻を移動させる。


「さゆちゃん……」


 困った表情を浮かべながらも、早雪に文句は言わない琥太郎は、壁とほっぺが仲良しになっている。


「可愛い……人生楽しい……」


 早雪はゾクゾクとした快感に震え、口元を押さえる。


「まず琥太君は女の子に慣れようね。優しくするには余裕がないと出来ないし、余裕を作るためには、慣れるのが一番」

「だからって、段階早くないかな……」

「こんなのじっくりやったって、トントンッとやったって、変わんない変わんない」


 真っ赤な顔をした琥太郎は下を向いていて、全く早雪と目を合わせようとしない。


「あっ、でも怖かったり嫌だったりしたら言ってね。泣く泣く手を引くから」

 早雪が尋ねると、琥太郎は「泣く泣くって」と微かに笑う。


「いや本当に。触られて嫌な気持ちは、女の子も男の子も関係ないから。嫌だって言えるのは大事なことだからね。衝突が面倒だって前に言ってたけど、さゆちゃんには言ってくれるって信じてるよ?」


 琥太郎は視線だけでちらりと早雪を見ると、ゆっくり縦に首を動かした。


 早雪はつんつんと、琥太郎の赤いほっぺを指で突いた。


(ほっぺ柔らかっ、若っ……!)


 成人して筋張った男の頬は、全然柔らかくない。髭が濃ければなおのこと、つつくには適さない。早雪はそのつきたての餅のような衝撃の柔らかさに打ち震えて、つんつんしまくる。

 つんつんつんつん。琥太郎のふにふにほっぺを堪能するには、春休みの間だけ付けているスカルプネイルが邪魔だったため、あとで取っておこうと心に誓う。


(若いなぁ。可愛いなぁ。隣に座るだけでこんな顔赤くしちゃって。なんもかんも初めてなんやろなー)


 琥太郎は早雪にされるがままだ。ふにふにと形を変える柔らかい頬で好き勝手に遊びながら、早雪は「そうなんよねぇ」とぽつりと呟いた。


「初めてのことってドキドキして、楽しいんよね」


 早雪には現在付き合っている男を含め、これまでに三人の恋人がいた。

 一人目は二ヶ月、二人目は四ヶ月と、どちらも長くは続かなかったが、沢山のことを経験させてもらった。

 黒歴史もあるし、腹の立つこともあるが、思い出すだけで胸が切なくなるようなことも、楽しかった思い出もある。


「琥太君がドキドキすること、全部さゆちゃんが貰っちゃってもいいんかな」


 やっぱ、これから好きになる子のためにとっとく?


 早雪が尋ねると、今まで目を閉じてやり過ごしていた琥太郎が、ちらりとこちらに視線を向けた。うなじまでほんのりと赤くした琥太郎は、じっと早雪を見つめる。早雪も琥太郎のほっぺをふにふにする手は止めずに、じっと琥太郎を見返した。


「……大丈夫」


 琥太郎は極限まで眉を下げた。

 そして、困ったように笑う。


「全部、さゆちゃんにあげる」


「か、かっわ……!」


 早雪は仰け反った。全身から生命力と気力と、なんだかよくわからないズガダンッとしたものが迸った。エモーショナルである。


「全部貰っちゃる!!」


 早雪が琥太郎に抱きつく。勢いよく抱きついた早雪を受け止めたせいで、琥太郎はしたたかに側頭部を壁に打ち付けた。



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