07:世界一の焼きうどん
「お母さん」
琥太郎らが越してきた翌日。
部屋着姿で自室から降りてきた琥太郎が、リビングにいる典子に向かってそう呼びかけた。
「はーっい!」
週の頭、月曜日はこの辺りの美容室のほとんどが休みである。
そのため朝からのんびりしていた典子は、ソファーからずり落ちそうな勢いで立ち上がる。
キッチンでチキンラーメンにお湯を注いでいた早雪と、典子の横に座っていた昭平も、琥太郎を凝視している。
「……今日、お昼ご飯って俺が作ってもいいですか?」
全員に注目されて居心地が悪いのか、琥太郎は一瞬言葉を詰まらせるも、母に問いかけた。
早雪以外に初めて「お母さん」と呼ばれた典子は、更に続くいじらしい提案に、首を何度も小刻みに縦に振った。
「はい! 勿論ですっ! 何作るの? 何か必要なものある? お母さん手伝おうか? 家にある物で足りる?」
「琥太君! さゆちゃんが車出したげようか?!」
早雪は慌ててヤカンをコンロに置くと、琥太郎に詰め寄った。
せっかくの琥太郎の心意気を無駄にしてなるものかと鬼気迫る母娘の勢いに、琥太郎はぎょっとしたものの、くすりと表情を和らげた。
「うん。じゃあ、お願いします」
***
「琥太君、料理出来るん?」
「簡単なのだけ。お父さんの帰りが遅い日とかに作ってたから」
母の仕事が遅い日に作ってあげようなんて思ったこともない早雪は、スーパーマーケットのカートを押しながら「琥太君は偉いね~」とにこりと笑う。
早雪の押すカートの中に、琥太郎が棚から選んだ食材を遠慮がちに入れていく。真剣な表情で少年が食材を選ぶ様子を、早雪は笑顔で見守る。
「何作ってくれるの?」
「期待しないで。ただの焼きうどんだよ」
ただの焼きうどんを作るための食材も入っていなかった西家の冷蔵庫に詰めるための食材がカゴに積み上がると、早雪らはレジに向かった。
「欲しいアイスとかお菓子とか取って来んくていい?」
財布を取り出した早雪が声をかけると、琥太郎はおかしそうに笑った。
「そんな、小さな子どもじゃないんだから」
子どもだと思っていた琥太郎に、小さな子ども扱いをされた早雪はショックを受ける。早雪の表情を見て、琥太郎が慌てた。
「どうしたの?」
「さゆちゃんは……チョコパリパリのバニラバーが食べたいです……」
「俺も食べたくなっちゃった。すぐ取ってくる」
あからさまに気を遣った琥太郎が、アイス売り場にダッシュする。
そうか。レジに来てアイスが食べたくなるのは小さな子どもだったのか……と早雪が引き続きショックを受けている間に、琥太郎がアイスを二つ持ってきた。
パッケージは違うが、二つともバニラにチョコレートがついたアイスだ。
「二種類あったんだけど、さゆちゃんがどっち好きかわかんなかったから。もう一個は俺が食べるし、好きな方選んでいいよ」
「え、すご。もう私、小さな子でいいです」
「え??」
つい先日まで中学生だったとは思えない気遣いに感動凹みしつつ、早雪は右のアイスを選んだ。
二人で並んで会計を済ませると、車の中でアイスの袋を開ける。助手席に座った琥太郎は、大きな口でアイスに齧り付いた。
早雪がセットした琥太郎の前髪が乱れていたため、運転席から手を伸ばす。
琥太郎は一瞬びくりと体を緊張させた。しかし早雪の意図に気づくと、早雪が触れやすいように首をこちらに動かし、じっとする。
中指と薬指で琥太郎の前髪を整える。
「ん~っ。男前」
文字通り髪の先からつま先まで早雪好みにコーディネイトした琥太郎に、んふふふと笑みが漏れる。高校時代に古典でやったなんちゃら源氏も、きっとこんな気持ちだったに違いない。
「琥太君、写真撮らせて」
似たようなアイスを咥えた琥太郎に断る隙を与えず、パシャリと写真を撮った。最初の内は戸惑うような顔が多かったが、昨日から撮りまくったのが功を奏したのか、もう気にならなくなったようだ。
「見てほら。かっこよ。うちの弟かっこよ」
琥太郎自身に琥太郎を自慢すると、苦笑が返ってきた。そんな顔もまた可愛い。
「ストーリーに上げるね」と、Instagramのアプリを立ち上げながら確認する早雪に、琥太郎は首を傾げる。
「ストーリー?」
琥太郎は危機を感じたらしく早雪のスマホを覗き込んだ。
ホームに流れる美容学校の友人らの投稿写真を見た琥太郎は、怖々と早雪に尋ねる。
「……なんで投稿するの? なんのために投稿するの?」
(なんで。なんのために)
Instagramに写真を投稿するためには、理由が何か必要らしい。早雪はアイスを囓りながら、うーんと悩んだ。琥太郎もアイスを食べる。
「――さゆちゃんは……美容学校に通っているので」
「うん」
「作品を発表して、仲間と切磋琢磨することにより、さゆちゃんの実力と評価を上げる……?」
普通に特に何の意味もなくストーリー――二十四時間後に自動的に削除される動画――をアップしようとしただけだったので、かなりの無理矢理めなこじつけだった。
ただ、Instagramをしている友人の中には、自分のネイルやアイメイクをポートフォリオのように公開している同級生もいる。
コンテストの時などは、モデルさんのビフォーアフターを載せたりもするので、何も間違えたことは言っていない。
「美容学校……作品……評価……」
琥太郎が早雪の言った言葉を復唱する。
(駄目? 駄目っぽい?)
緊張の面持ちで琥太郎を見つめていると「ならいいよ」とあっさりと許可が出た。
「さゆちゃんにとって大事なことなんでしょ?」
「やったー!」と喜ぼうとしたが、なんだか騙している気にもなり、素直に「そこまで大事なことでもないかも」と伝えると、琥太郎が笑った。
「なんでそこで素直になるの。いいよ。そういうお付き合いもあるんだろうし」
琥太郎が早雪のスマホの画面をすいっと動かす。琥太郎はInstagramはやっていないらしく「他の人も結構写真とか出してるんだね。これとかすごい奇抜」と、頭を三色に染めた同級生の自撮りを指さす。
「あ、その子ね。学校でブリーチ四回したんやけど、流し場びしょびしょにして先生に怒られちゃって――」
早雪が当時の話をしようとすると、ピコロンと音が鳴って、スマホ画面の上部に通知バナーが表示された。「なにしてんの」「今どこ」「腹減った」という単発のメッセージが、表れては上書きされていく。
「LINEきてるよ?」
「あー、帰ったら連絡するからいいよ」
「……彼氏?」
「そう」
付き合い始めて三ヶ月になる恋人だ。
どうせいつも通り、なんてことのない会話だ。もしくは来いと呼び寄せられるのだろう。今日は
エンジンを掛けて車を動かすと、少しして着信がきた。車のスピーカーとスマホをBluetoothで繋げているため、掛かっていたBGMが小さくなり、着信音が車内に鳴り響く。
「あー……ごめんね琥太君、ちょっとしゃべるね」
一向に鳴り止まないので、片手で車のナビをタップして電話に出る。ハンズフリーでの通話が繋がった。
「もしもし?」
{出るの遅くね?}
「買い物してたから」
車のスピーカーから恋人の声がする。助手席で息を殺す琥太郎が、上司と不倫している若い女の子のようで、くすっと笑ってしまう。
{何笑ってんだよ}
「えー? 電話してくれたん、嬉しかったから」
{あそ。外なんやろ。そのまま来いよ}
「夜でい?」
{は? 俺腹減ってんだけど。てか今日バイトだっけ?}
ううん、と早雪が答えようとした時、琥太郎のスマホが鳴った。琥太郎は慌てた顔ですぐにスマホを取り出し着信を切ったが、その音はスピーカーにのって恋人に届いていた。
{は? お前誰といんの}
「弟」
{嘘こくなや。お前弟おらんやろ}
「春に親が再婚するって言ってたやん? 新しいお父さんの息子さん」
{はあ? ほんとかよ}
「ほんとだって」
信号で止まった時に琥太郎を見ると、ひどく居心地悪そうな顔でこちらを見ていた。
(気にしなくっていいのに。口悪いからなぁ)
琥太郎の下がった眉が可愛くて、小さく笑ってハンドルから片手を離し、頭を撫でる。
{いくつだよ、弟}
「ピチピチの十五歳」
{はあ?! 早雪、家出ろよ}
「は? やだよ。無理。お金ないし」
急に何を言い出すんだ。早雪は信号が青に変わったタイミングでアクセルを踏む。
{なら俺んとこ来ればいいだろ}
実家住まいが何を言う。それに正直、同棲まではしたくない相手である。
(手が掛かるのも口が悪いのも可愛いなーとは思うけど……ずーっとこれの面倒を見てくのはダルすぎる)
「えー。無理だって。うち、お母さん厳しいし」
そうなんだ? という顔をして琥太郎がこちらを向いたので、早雪はにまっと笑って「しー」と人差し指を口に当てた。典子は勿論、そんなこと全く厳しくない。
{はあ? 自分はやりたい盛りのガキと娘、同居させてるくせに? お前んとこの母ちゃん常識ないんじゃねえの?}
聞き捨てならない言葉が聞こえて、早雪は腹の底から「は?」と声を出した。
{普通、そんな歳の息子おる男と結婚するか?}
「……じゃあ常識とって、うちのお母さんは幸せになるなってこと?」
自分への悪口なら大抵のことを笑って許せるが、母を悪く言われるのは無理だ。
本気で早雪が怒ったことに気付いたらしく、恋人は動揺した声を出す。
{そうは言ってないやろ}
「いや、言ってるやろ」
これ以上は琥太郎に聞かせる会話ではないと、早雪は「切るわ」と告げる。
{待てって――}
「夜行く」
{おい、早雪――}
早雪が乱暴に液晶画面をタップすると、今まで繋がっていた空間が断絶されるブツッという音がする。
「ごめんね琥太君。嫌なもの聞かせて」
「いや、俺はいいんだけど……」
琥太郎は気まずそうな表情を、無理矢理笑みに変える。
「さゆちゃんも、男見る目ないね?」
「一本取られたな??」
初対面の日に早雪が言った言葉を返され、ふはっと笑う。気まずい空気がたちまちに立ち消え、更には簡単に笑顔にまでされてしまった。
恋人への苛立ちと沈んだ気持ちは、家に帰り着く頃には完全に気にならなくなっていた。
「美味しーい!」
シャキシャキのキャベツやプリプリの豚肉がたんまりと入った、つやつやの焼きうどんを啜った早雪は目を輝かせた。
慣れた手つきで台所に立っていた琥太郎だったが、早雪の喜び様を見るとホッとして表情を緩める。
「これ何で味付けたの?」
「薄口醤油と塩胡椒だよ」
「私この焼きうどん世界一好き」
早雪の褒め言葉に、琥太郎の隣に座る昭平もにこにこと微笑んだ。柔らかいうどんを箸で掬い、母と顔を見合わせる。
「手料理なんて久々に食べたね」
「本当ね」
「えっ?」
きょとんとした琥太郎と昭平に、女二人は慌てて「いやいや」「あははは」と笑って誤魔化す。
「こ、これからは、ねえ? ちゃんと作るわよ。育ち盛りの男の子もいるんだし!」
「わ、私も卵かけご飯ぐらいなら……」
これまでは多種多様な建前の陰に隠れ、ずぼらに過ごしていたが、悔い改めるタイミングとしてこれほど素晴らしい機会はない。出来たばかりの弟が、母を「お母さん」と呼び、恥じらい、緊張しつつも、新しい家族の門出の証として食事を振る舞ってくれたのだ。ここでやらねば姉が廃る。
「……でも、いざとなったら嘉一を呼ぼう」
「嘉一君、そんな料理上手いんですか?」
ぎょっとする琥太郎に、早雪は大きく頷いた。
「プロレベル。いつでも嫁にやれる」
「あれでもう少しおおらかやったらね。お嫁に貰ってくれる子もいたやろうけど」
幼い頃から我が子同然に見守ってきた典子が、嘉一を憂う。
口が悪く態度も悪く、神経質で自分にも人にも厳しい嘉一を貰ってくれる女の子などいないだろうと鼻で笑いつつも、嫁にさえ出せれば世界で一番いい嫁になることを、早雪は信じて疑っていなかった。
「カイチクン……って、実は女の子なの?」
こそっと昭平が琥太郎に尋ねたが、琥太郎はスンとした表情を見せただけで、返事はしなかった。
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