08:ありえない相手


「琥太くーん。パーマとカラーの経過見せてね。シャンプーするので店の方に来てくださーい」


 早雪が呼べば、何か他の用事をしていても琥太郎はとことこと着いてくる。

 可愛い可愛い弟を連れ、閉店後の店舗に入る。わざわざシャッターを閉めた店舗側の玄関を開けずとも、店の奥と居住スペースが扉で繋がっているので、行き来は容易い。


 琥太郎の肩にタオルを巻き、上半身が傾くシャンプー台に寝かせる。


「もうちょっと下がれる?」

「うん」

 ズリズリと琥太郎がお尻をずらして、頭の角度を調整する。お湯を出し、シャワーヘッドから流れる水を自分の指先に当て、温度を測る。


「お湯かけるね。まだ下手っぴだから、水の温度とか、かゆいとか、なんかあったらじゃんじゃん教えて」

「うん、わかった」


 いい子の琥太郎の返事を聞くと、早雪は手の中の琥太郎の髪に水をかけた。





 ふわふわと柔らかい琥太郎の毛が、ドライヤーの風に舞う。


「家で人にドライヤーしてもらうの、さゆちゃんが初めてかも」


 シャンプーを終え、琥太郎と早雪は居住スペースに戻った。

 リビングのフローリングに濡れ髪の琥太郎を座らせ、背後のソファに座った早雪がドライヤーをかけている。


「……昭ちゃんは?」

「覚えてないくらい前ならあるだろうけど――昔は今よりずっとお父さん忙しくて、帰り、遅かったから。男だし、タオルで拭けば乾いたし」


 お風呂は小一から一人で入ってたなぁと続けた琥太郎、幼い頃に母を亡くしている。近所に住む母方の祖母が時折面倒を見に来てくれていたようだが、琥太郎が大きくなるに連れ頻度は減ったようだ。

 小さな体で、濡れてくるんくるんになった髪をたった一人で乾かしている琥太郎を想像し、早雪の胸がキュッとなる。


「まっこれからは、さゆちゃんのお楽しみやけどね」


 毛先を指で操り、手のひらで毛の束を包み込むようにしてカールを整え、ブローする。タオルドライ後に十分に保湿した琥太郎の髪は、随分とダメージも気にならなくなっていた。


「してもらうの、気持ちいいよ」


 琥太郎が年相応の幼い笑顔でふにゃっと笑う。


 琥太郎は非常に優秀な生徒だ。

 センスには自信がないようだが、地頭がいいせいか、早雪が一度言ったことは大抵覚えている。

 更には要領がよく、少し練習すれば実践もなんなくやってのけるため、早雪が教えたことは既に一人でこなせるはずだ。


 けれど、こんな風に淋しさを覗かせた笑顔で甘えられると、早雪は琥太郎をどこまでも甘やかしてやりたくなる。


「んー、琥太君。いい子いい子」


 乾かし終え、カチッっとドライヤーのスイッチを切る。ヘアオイルの香りが、ふわりと琥太郎の髪から漂う。早雪のお気に入りの香りだ。


 乾かしたばかりの琥太郎の頭に鼻先を突っ込む。髪に顔を埋め、腹を膨らませるほど大きく、思いっきり息を吸い込む。


(めっちゃいい匂い……やっぱこのオイルとシャンプーの組み合わせ最高……)


 早雪の満足がいくまでスンスンと匂いを嗅ぐ。その間も、琥太郎は文句も言わずに待っている。


(嘉一にしたら、めちゃくちゃ嫌がられるんよね)


 やっぱり自分の弟はいいな。としきりに頷きながら、早雪は台所へ向かった。


「琥太君、今日は何飲む?」


 自炊もしないくせに、早雪は夜のお茶会だけは美味しいものにこだわった。


 生のレモンを添えたレモンティー。季節限定のフレーバーティー。自家製のシロップで作ったホットカリン。子どもの頃に本で読んだ、手順を歌いながら淹れるチャイ。純ココアで作るミルクココア。果汁を足したホットワイン。甘くとろけるショコラショー。


 出先で美味しそうなものを見つけては、あれこれと試してみる早雪に、琥太郎はにこにこといつも付き合ってくれる。


「この間入れてくれた、カルビスのラッシー飲みたい」

「いいね。あれ美味しかったよね」


 もっかいやり方調べよう、とスマホを取り出す早雪の後ろで、琥太郎は冷蔵庫からカルビスとレモンを取り出していた。




***




 猫背を治すには筋トレがいいらしい。


「さゆちゃんもしよっかな」


 レースのカーテンを踊らせる春一番が入り込む、リビングの一角。

 早雪のタブレットで猫背解消の動画を見ながらストレッチする琥太郎の隣へ行き、早雪も画面の中のトレーナーと同じポーズを取る。


「やったね。さゆちゃんが一緒にしてくれると、俺もモチベ上がる」


 汗を掻いた琥太郎が八重歯を覗かせ、可愛い顔でにこりと笑う。


 ノリで筋トレに首を突っ込んだ早雪のために、琥太郎は嫌な顔一つせずタブレットの角度を調整し、リビングのテーブルを移動させ、早雪のためのスペースを作る。


「あ。写真先に撮っちゃいたい」

「今、汗だくだよ?」

「尚いいやん」


 ええ? と笑った琥太郎が、袖で汗を拭う。すかさず、早雪はスマホでパシャリと撮った。照れた顔をした琥太郎が、二の腕から顔を出す。


 四月にもなると、琥太郎は早雪に慣れ、しかも大いに懐いていた。写真家きどりの早雪に、毎日いい子で写真を撮らせてくれる仲である。


 先日、Instagramに載せた琥太郎の写真が、おバズり申し上げた。

 これまで貰ったことのない「いいね」の数に焦った早雪よりも「いいんじゃない? 評価につながるんでしょ?」と四つも年下の琥太郎のほうがずっと冷静だった。


 琥太郎の協力のもと、早雪のInstagramは、ポートフォリオよろしく、彼女が着飾らせた琥太郎の写真を上げるアカウントへと転向した。

 日常の一コマをテーマに琥太郎の写真を撮っては、楽しくInstagramにあげている。琥太郎の写真は好評を博し、美容学校の同期はもちろん、先生にまで把握されることとなった。


「これもアップしちゃうね」

「うん」


 最低限のプライベート保守のため、琥太郎の目の部分にInstagramのIDを被せている。完璧なモザイクとは違い、見る人が見ればわかるだろうが、なんとなく顔は隠せている。


 動画をまた初めから見る。二人でヒィヒィ言いながら体を動かした。動画が終わる頃には背中のありとあらゆるところが痛んだ。

 三十分近く動画を見ながら運動を続けた早雪は、終わると同時に床に突っ伏した。じっとりとかいた汗が気持ち悪く、今すぐにでもシャワーを浴びたいが、しんどすぎてミリも動けない。


 ――ピロロロリン ピロロロリン


「さゆちゃん。スマホ鳴ってるよ」

「うーん」


 息も絶え絶えな中、リビングに早雪のスマホが鳴り響いた。


 スマホを取りに行くことすら面倒でスルーしようとしているのに、可愛い弟はしんどい体でスマホをわざわざ取って来てくれた。そうなれば出ないわけにもいかず、お礼をいいつつ画面を見る。予想通りの名前を確認して、ため息を堪えて通話ボタンを押す。


「はーい」

{……何してんの? なんで息きれてんだよ}

「筋トレしてましたー」

{はあ?}

「知ってる? 顎とつま先一緒に上げるの。めっちゃきつい」

{あそ}


 電話越しにもわかるほど、恋人は不機嫌だ。


 早雪に弟が出来てからというもの、恋人は下衆の勘ぐりをやめられないようで、最近すぐに不機嫌になる。


(まさか本気で、十五歳の子相手に、私がなんかするとでも思ってんの?)


 琥太郎は嘉一と同じ年だ。嘉一のことを赤ん坊の頃から知っている早雪には、ありえないことだ。


 母のことを常識知らずと言われ、可愛がっている弟を馬鹿にされ、弟を可愛がっているだけで疑われ――早雪は近頃、恋人からの連絡を億劫に感じずにはいられなかった。

 有り体に言えば、冷めていた。


{今日バイトない日やろ。来いよ}

「んー」

{何? まさかまた弟の面倒見てんの? そんな面倒見なきゃなんねえ中三ってなんなの? 引きこもり?}


 一瞬で、体のほてりが引いていく。やっぱりシャワー浴びよう、と全く関係のないことを考えた。


「……今から行くわ」

{おう。セッター買ってきて}

「はーい」


 わかりやすく機嫌がよくなった彼氏との通話を切る。残念ながら、今日は彼が楽しみにしていることをするつもりも、してやるつもりもない。


 苛立ちを押し込め、シャワーを浴びる。車のキーを取り出し、「出かけてくるね」と、リビングにいた琥太郎に声をかけた。


「行ってらっしゃい」

「夜には帰ってくるから、ご飯残しといてってお母さんに言っておいてー」

「うん」




***




 結果として、別れ話はそれなりに揉めた。


 その結果「やっぱり弟と何かあったから、急に別れるとか言い出したんじゃねーか!」と怒る恋人と「ないっつってんでしょ!」と応戦する早雪の大声が彼の実家に響き渡った。


 喧嘩がヒートアップしていき、このままでは殴られるか、逆恨みされるのではと早雪が焦り始めた頃、恋人の部屋にやってきた彼のお姉さんが、弟の服をひん剥き、「今からそのパンツの中の粗末なもん私に突っ込めるやつだけが、早雪ちゃんに文句言え!」と言ってくれたおかげで、ようやく彼氏も冷静になった。


 恋人の両親も姉もいい人だったため別れるのは淋しかったが、彼への未練は恐ろしいほどになくなっていた。


「ただいまー」


 早雪が帰宅すると、家族は三人で食卓を囲んでいた。

 四人がけのダイニングテーブルの席は、一つ空けられている。


 母と二人で自由に夕食をとっていた再婚前は、わざわざ二人で時間を合わせて食べることも減っていた。

 それなのに、ダイニングテーブルの空いたスペースは、早雪のための居場所だ。

 当たり前に用意された空席を見て、なんだか張り詰めていた力がどっと抜けてしまった。


「おかえりー。用意は自分でしなさいね」

「はーい。それより琥太くーん」


「?」


 晩ご飯の餃子を口に放り込んでいた琥太郎が、もぐもぐと口を動かしながら早雪を見上げた。


「抱っこさせて~」

「どうぞ?」


 ごくんと餃子を飲み込んだ琥太郎が頷く。早雪はダイニングチェアーに座った琥太郎に近付くと彼の頭をぎゅっと抱き締めた。お気に入りの香りに乗って琥太郎の匂いがする。ふわふわの髪に頬ずりした。


「あ゛ー……癒やされるぅ……」

「早雪、あんたそれ温泉に浸かったおっさんと同じ声出してるからね」

「琥太君温泉最高に気持ちいい……」


 引越し当初は真っ赤になって戸惑っていた琥太郎だったが、早雪が抱きついたままでも問題なく餃子を箸でつまめるようになっていた。


「さゆちゃん、どうかしたの?」

「んー別れてきただけ」


 同じ家で生活しているのだから、黙っていてもいずれ知られることである。さらりと伝えたつもりだが、昭平と琥太郎は驚きから声をあげた。


「えっ!?」

「えっ」


 年頃の娘の失恋話に慌てる昭平の隣で、咀嚼していた餃子を琥太郎は飲み込んだ。そして目を見開いて、自分の頭をホールドしている早雪を見上げる。


「それって――」


 あどけない目で見られ、早雪は素早く琥太郎の頭をぎゅっと包み直した。その動きで、琥太郎は素直に口を噤む。

 大人しくなった琥太郎の頭を引き続きわしゃわしゃし始めると、対面に座っていた典子が「あらー」と声を出す。


「ま、そういうこともあるわよねえ」

「ねー。そういうこともあるんよねえ」


 ねー、次次。と笑い合う母娘を、昭平は落ち着かない様子でそわそわと見ていた。





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