03:さくさくもぐもぐ


「心ー」


 バレンタインの放課後、三組の教室まで嘉一が迎えに来た。心は慌てて机の中のものを鞄に詰め込む。


「ゆっくりでいいって。ほら、プリントくしゃくしゃになってんぞ」

「ごめぇん」


 堂々と教室に入ってきた嘉一を気にするクラスメイトはいない。

 男子も女子も浮き足立ち、誰もが落ち着きを無くしていた。

 心の友人の夏帆も、先ほどケーキの入った紙袋を抱え、戦地に赴く侍のような顔をして出て行った。


「ん。心、帰る?」

 梨央奈が自分の席からこちらにやってくる。


「うんー。待ってよおかな~って思ってたんやけど、夏帆ちゃんねぇ、多分大丈夫なんだってぇ」

 心がにこにこと梨央奈に言うと、彼女は嘉一を見た。

「え? そうなん? ほんとに?」

「おん」

「そっかー! んじゃ私も安心しちゃおう」


 よかったねえ。心配したよねぇ~。と梨央奈と心が和やかに話していると、戦地から落武者が帰ってきた。

 そのあまりの夏帆の落ち込みように、心と梨央奈はぎょっとして嘉一を見る。


「は? まじで? なんであそこまでやって、こんなんなれるん?」


 嘉一は唖然として呟くと、ポケットからスマホを取り出してすぐに文字を打ち始めた。


「チッ、既読つかねえ」


 おそらく拓海に連絡を入れているのであろう嘉一が、イライラとスマホをいじる。梨央奈は夏帆に駆け寄ったが、心は嘉一の隣で動向を見守ることにした。

 拓海からの連絡を待っていると、教室の前の方でワッと歓声が上がる。


「ケーキだ!」

「ケーキだぞ!!」

「女子の手作りケーキだ!!!」


 夏帆の紙袋が、複数の男子によって神に捧げる供物のごとく掲げられているのを見た心は顔を青くする。


「かかかかいちくっ……」

「埒があかんな。心、走るけどついてこれる?」


「うぇ? はい」


 走ることは大の不得意だが、出来ないとは言えない空気だった。嘉一は稲妻のように走り出し、六組の教室へ行く。心も慌てて鞄を掴んで、嘉一の背中を追った。


 六組の教室にすでに拓海がいないことを確認した嘉一が、引き返してくる。昇降口へ向かう嘉一に、かなり遅れながらも心はついていった。


「タク! 三組に走れ」


 嘉一が焦った声で名前を呼んだ。ようやく見つかったのかと、心は暴れすぎて飛び出しそうな心臓を休ませるため、階段の踊り場にしゃがみこんだ。もう一歩たりとも動ける気がしない。


「急げ! 全部食われんぞ!」


 全身汗びっしょりになりながら、床に両手をついた心が大きく深呼吸していると、横をびゅんっと何かが横切った。

 慌てて目で追えば、階段を二段飛ばしで駆け上る拓海がいた。


 ぜえはあ、ぜえはあ。

 荒い息がとまらない。このまま溶けてしまいそうな心の隣に、嘉一がしゃがみ込んだ。


「……大丈夫か……?」

「だっ……じょ……」


 うぶではないかもしれない。


 激しい息継ぎの中隣を見やると、これまで見た嘉一の表情の中で、一番殊勝な顔を浮かべていた。そして、大丈夫の返事も出来ない心に、嘉一が更に慌てる。


「どうする? おぶるか?」

「あ、ぶ、ないっ……」

「わかった。ゆっくり息しろ」

「う……ん……」

「ザッハトルテあるから。死ぬなよ。死ぬな?」

「う、んっ……」


 死ぬはずもないのに、息を切らしている心よりよほど余裕のない顔で嘉一が心配している。


 ぜえはあ、ぜえはあ。

 呼吸の合間に、心は必死に返事をした。


 確かに、嘉一のザッハトルテを食べるまでは、死ねない。





 結論から言って、その日のザッハトルテは非常に美味しかった。運動したあとの甘く重たいチョコレートケーキは最高である。


 バレンタインデーだというのに、チョコレートの一つも用意していなかった心は、嘉一に「明日渡してもいいか」と尋ねた。嘉一的にそれはナシだったようで、「ホワイトデーにもらえればそれでいい」と返された。


 心はホワイトデーに鍋つかみミトンと肩たたき券を用意した。嘉一は何故か愕然とした顔で、肩たたき券と鍋つかみを見ていた。


 三枚もあったのに、肩たたき券はその日のうちに全て使われてしまった。おかげで心は二の腕と手首がしばらく筋肉痛で痛かった。来年は絶対に、肩たたき券はあげないことに決めた。




***




 小堀には、何故かすれ違う度に絡まれるようになっていた。

 夏帆と梨央奈がいた時に「あの人、廣井君が好きなんだろうね」と教えられてようやく気付いたほど、心は恋愛事に疎かった。


 三年になり受験が本格化してくると、嘉一が重箱に費やす時間を、流石に申し訳無く思い始めた。しかし、心の心配を余所に、嘉一は頑なに弁当作りを止めなかった。


「今の俺から弁当作りこれをとったら気が狂う」


 夏休みとは名ばかりの、朝から夕方まで毎日ある夏期講習中も、嘉一は弁当作りを欠かさなかった。


 三年次から進学クラスに振り分けられた嘉一と違い、心にはほどほどの夏休みが用意されていた。夏期講習参加が必須でなかった心は、嘉一のストレス発散のためにも腹を空かせて、毎週月曜日の昼に登校していた。夏期講習の合間にはぐはぐと嘉一の作った弁当を食べる心を、嘉一は「はぁあああ……」と深いため息をつき、心底承認欲求を満たされたかのような顔で見ているのだった。


 秋が過ぎ、冬が来る。

 心の受けた短大は定員割れだったこともあり、入学はほぼ確実だった。電車で往復二時間かけて通学する予定の心は、引っ越しの準備などもなかったため、気ままに自由登校の学校へ赴いたり、自動車学校に通ったりしていた。


 三月に入り、嘉一の大学の合格発表日となった。

 現地まで行かずともスマホで確認できるため、心と嘉一は合格発表の時間に、いつもの空き教室で待機していた。


 くっつけた二つの机の境に、嘉一が大量に作って来た焼き菓子の箱がドンと置いてある。

 箱の中には、ダックワーズ、オートミールのクッキー、フィナンシェ、フロランタン、スノーボールと、とりどりの菓子が並んだ。どうやら嘉一は精神に一定の不可がかかると、手の込んだ料理をしたがるらしい。


 スマホのデジタル時計が「10:00」と刻んだ瞬間に、ブラウザの更新ボタンを押し、嘉一が自分の受験番号を確認する。


 嘉一は眉根に皺を寄せ、真剣な表情でしばらく指を動かした。心は正面の席に座り、菓子を頬張りながら嘉一をじっと見つめている。


 しばらくすると、嘉一がスマホをポイと机の上に放り投げた。そして大きなため息をつく。


 体の力を抜いてずるずると椅子から滑り落ちる嘉一を見て、心は手に持っていたダックワーズをさくさくもぐもぐと食べ終えると、両手をあげた。


「いえ~い~!」

「うぇーい」


 心の両手に、嘉一がパシンッと両手を合わせる。

 ハイタッチをして終わり、のはずだった心の手を、嘉一はそのままぎゅっと貝繋ぎで握り込んだ。


 息を呑んで、心はその手を見つめた。


 ――嘉一の身長は、心とさほど変わらない。


 だから、自分の手がこれほどすっぽりと嘉一の手の中に収まるなんて、心は思ってもいなかった。


 手を動かす勇気がなかった。

 体を引いて、もし手が動かなかった場合――きっと心は嘉一に対して、抱えたくない感情を覚えてしまう。


 それほどはっきりと、自分に湧いた気持ちを表現できたわけではない。


 しかし、心の胸に広がった漠然とした戸惑いを見破ったように、嘉一はすぐに心の手を離した。そして「親と教師に言いにいかんとな」と面倒臭そうに言って立ち上がる。


「早く教えてあげんとねー」

 立ち上がった嘉一に、心が笑顔で手を振る。


 握られた手の違和感と、言葉に出来ない戸惑いに、心は何故か落ち着かなくなっていた。冷静を装っていたが、嘉一を見るのが怖いような気がする。


(嘉一君に、平気な顔するの初めてだ……)


 人に大食いなことをからかわれる度、いじられる度に、心は作った笑顔でいなしていた。その笑みを今、何故か嘉一に向けている。心の、たった一人の救世主ヒーローに。


 笑みを浮かべた心を、立ち上がった嘉一が顔を寄せ、じっと見つめる。


 嘉一の鋭い眼差しの前では、自分のはりぼての笑顔なんか簡単に見透かされてしまいそうで、心は更に動揺した。


 その動揺を感じ取ったのか、嘉一の手がこちらに伸びる。びくりと肩を震わせた心の口元に、何かが触れた。


「……」

「……」


 さくさくもぐもぐもぐ。


 心は唇に触れたダックワーズを歓迎した。

 嘉一が指で摘まんで、心の口に運んでくれたようだ。


 リスのように口の中に獲物をしまい込もうとする心に、嘉一はふっと笑うと、次のダックワーズを指にとる。


 嘉一を待たせてはならないと早く飲み込もうとしたが、残念ながらダックワーズは早食いには向いていない。サクサクの生地と甘いピーナッツバターが口内に貼り付き、水分が奪われていく。


「ゆっくり食えよ」


 しゃがみ込んだ嘉一は机に肘をつき、指に摘まんだダックワーズをぶらぶらとしながら悪人顔で笑った。


(あ、いつもの顔だ)


 見慣れた嘉一にほっとして、心はさくさくもぐもぐとお菓子を食べ続けた。





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