04:不安しかない物件選び
三年間通った高校を卒業し、自動車学校からも卒業証書を受け取った、ある日のこと――
心は実家のリビングで、ぽかんと口を開けていた。
「ひ、一人暮らしぃ……?!」
リビングに飾る花を台所のシンクで水切りしていた母が、困った声を出す。
「産休が取れそうだから、出産前から
六つ年の離れた姉・音は結婚して家を出ていた。現在第一子を妊娠中で、じじばばにあたる両親は初孫に大浮かれている。
どうかなって思って――と言われれば、無論興味はある。
実家から通える距離だったので、実家から通学するのだろうと思っていただけで、一人暮らしさせてもらえるならそれに越したことはない。
「したーい!」
両手をあげて喜ぶ心に、母が心に似たのんびりとした口調で言った。
「心配なのは、心ちゃんのご飯なのよねえ……」
***
「――ってことがあって~、今部屋探してるんだよねぇ」
今年のバレンタインデーも嘉一に大量のチョコ菓子をもらった心は、ホワイトデーに嘉一にプレゼントを渡しに、嘉一の家のそばにあるマルバツ公園へ出かけていた。去年の反省点を踏まえ、今年のプレゼントは男物のシックなエプロンを選んだ。
ホワイトデーだというのにまた嘉一の手作り菓子を貰ってしまった心は、公園のブランコに揺られながらポリポリとお菓子を摘まんでいた。今日のお菓子はホワイトデーらしく、ハートやリボンの形に絞られた焼きメレンゲだった。
「今って……え。結構ギリギリなんじゃねえの?」
「そぉなのー。明後日不動産屋さんと何件か内見? に行くんよねぇ」
「……この時期だと、いいとこもう全部埋まってんだろ? ――まさかと思うけど、一階の物件とかねえよな? オートロックか確認してるか? 駅とかバス停からちゃんと近いところなんやろな? 帰り道、ちゃんと街灯あるんか?」
「……え。え?」
「ネットで物件出てねえの? 見せて」
母よりもしっかりしたことを言う。心はインターネットで見ていた情報を嘉一に見せる。
「ここ、コンビニは近くにあるけどスーパー遠い。心の食費考えたらスーパーは絶対必須」
「そ、そぉかも」
「こっちはオートロックやないし……それに、この部屋収納ないぞ」
「わあ。ほんとーだ」
「一階の部屋もあんじゃねえか……!!」
「一階。階段なくていーからよくなぁい?」
「よくねえよ! 本気で心配だからまじで止めろ」
嘉一の言う通り、いい物件は手際がいい家庭にさっさと入居手続きをされているため、残っている物件は嘉一的にあまりお勧めとは言い難かったようだ。
心のスマホを鬼の形相で見つめていた嘉一は、「ちょっとごめん」と立ち上がると公園の隅へ行き、何やら電話を始めた。深刻な表情で何人かに電話をかけると、嘉一は焼きメレンゲをポリポリ食べている心の元に戻ってきて、心底言いにくそうな顔をして言った。
「……今から心ん家、行っていい?」
***
「まぁっ、まあ!
「え! カイチクンってあのカイチクン?!」
母が趣味で植えた花が咲き誇るアプローチを抜け、橘家の玄関に足を踏み入れた嘉一は、熱烈な歓迎にあっていた。
室内飼いのトイプードルを抱っこした心の母と、いつの間にかひょっこりと帰ってきていた身重の姉・音である。
「――はじめまして、廣井嘉一です。突然お邪魔してしまい……」
このテンションは想像していなかったのか、嘉一は顔を引きつらせた。表情を誤魔化すためか、頭を下げようとする嘉一を、母が大振りな手振りで止める。
「いいのよお! いらっしゃい! 心がいつもお世話になっています。さあ、上がって上げって」
「どーしよお母さん。お茶菓子とか買ってる??」
フリルや花の刺繍が美しいスリッパがずらりと並ぶスリッパラックから、我が家で一番シンプルなスリッパを引き抜いた音が、母に尋ねる。
恐縮しつつ置かれたスリッパを履く嘉一の横で、心が先ほど彼に貰った紙袋を持ち上げる。
「嘉一君に今お菓子貰ってるよお」
「じゃあそれいただきましょ!」
心の提案にぎょっとしたのは嘉一だけだった。
花や絵の飾られた廊下を抜け、母と姉とトイプードルのキララがリビングへ引っ込むと、嘉一は何故かもの凄く納得がいった顔をして心をじろじろと見た。
リビングでは母と姉がパタパタと歩き回っていた。その足元をキララがさらにパタパタと爪の音を響かせて追いかける。
「すげえ……シャンデリアがある……」
天井を見上げた嘉一が、ぽつりと呟いた。
リビングは母の趣味のアンティークレースや刺繍をふんだんに使ったファブリックで統一されている。リビングテーブルはよく磨き込まれた飴色のマホガニーで、その上には母お気に入りのテーブルランナーが敷かれてあった。
ガラス戸のあるロココ調のディスプレイ棚の中には、絵皿やクリスタルの置物の横に、心と音が小学生の時に作ったオルゴールや手の彫刻も飾られている。
「音ちゃんは座っててってばぁ」
「このくらい大丈夫よぅ」
「いいから、いいからあ」
ソファーに身重の姉を座らせる。働き者の音が動き出さないよう、音の横に花柄の織物で作られたクッションを埋めて固定する。音と笑い合った心は、台所に向かって食器棚の取っ手に手をかけた。
「嘉一君もソファーに座ってて~。あ。紅茶とコーヒーどっちが好き~?」
「……紅茶で」
「はぁい」
母のお気に入りのジノリの紅茶カップを人数分取り出すと、アッという間にすぐに沸く電気ケトルにお水を注ぐ。
「嘉一君、おかきならあったんやけど! 梅ざらめ! 好き?」
「今時の男の子はそんなの食べんって」
スリッパの音を立てながらパントリーから戻って来た母を、華やかなソファーでキララと戯れていた音が一刀両断する。
「あ。いえ……おかきも好きで――」
ソファから腰を上げ、嘉一が話しかけようとしたが、あいにくと母と姉には聞こえなかったらしい。
「じゃあ、今時の男の子って何食べるの?」
「ほらあれよ――あの。肉」
「お肉~? あ~! 確かこの間、いいお肉を買った時に一枚冷凍して……」
「――おかきを! いただければ! 嬉しいです!」
紅茶のお茶請けに肉を焼こうとし始めた母を、嘉一が慌てて止める。先ほどは聞いてもらえなかったからか、大きな声で元気よく言った嘉一に向かって、キララが吠えた。
心はキララの鼻先に指を持って行き、「しーだよ」となだめると、キララは途端に大人しくなった。キララは母の趣味のファブリックにも噛みつかないお利口さんだ。
賢く可愛いキララの頭を撫でながら、心は母を見た。
「もー。焼きメレンゲ貰ったんだって~。嘉一君が作ったの美味しいから、二人とも食べてよぉ」
「嘉一君の手作りだったの!? 食べてみたい!」
「いっつもいーわねえ~って言ってたのよ。存在は半信半疑だったけど……」
まさか母と姉に、嘉一の存在を疑われているとは思っていなかった心は憤慨する。
「俺のこと、なんて話してたん?」
居心地が悪くなったのか、紅茶の準備をする心の横に嘉一がこそこそとやって来た。
嘉一が手持ち無沙汰にならぬよう、心は茶葉の缶を渡す。嘉一は蓋をぽこっと開け、心に手渡す。
心は必要なだけ茶葉をティーメジャーで掬い、ティーポットに注いだ。
「普通に話してたよぉ。月曜日は嘉一君って子が、お重に山ほどの美味しいお料理を詰めて持ってきてくれるんだって」
「いやぁ。男子高生がお重って、あんまりにも現実味ないやろ? 私らに気を遣わせないために、心が嘘ついてるのかと思ってて……」
「えー? そんなこと考えてたのー?」
ソファーに座っていられなかった姉が会話に入ってきた。音のあんまりな言い草に心は笑ったが、確かに一年以上も毎週お重を作り続けてくれる男子高生は、なるほど現実味はない。
「半信半疑って、お正月にもお餅とか貰ってたやん~」
心が言うと、ダイニングテーブルで焼きメレンゲを皿に出していた母が「そうそう!」と高い声を出した。
「ありがとうねえ。一応お礼のお菓子持たせたんだけど、ちゃんと受け取ってくれた?」
「はい、いただいてます。逆に気を遣わせてしまって……」
「そんなこといいのよ。それよりも、いつも本当にありがとうねぇ。心、毎週月曜日はにこにこして家を出ていたのよお」
焼きメレンゲを、お気に入りのフリルプレートに載せ終えた母が、にこにこと微笑みながら嘉一に言った。
「いえ。自分の楽しみでもありましたから……」
「まぁ~! こんな格好いいのに謙遜まで出来るの? 今時の男の子は本当に格好いいわねえ」
「ねぇ」
にこにこ微笑む母に、にこにこ微笑んだ心が返事をすると、嘉一は苦々しい表情を浮かべ、耳を赤くして黙りこくってしまった。
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