10:女神と悪魔
――コンコンッ
車の窓を叩かれる音がして、一二美はサングラスをずらした。車の窓を下げると、ジャージ姿の中年男性がこちらを覗いている。
「あー、すみません。生徒達が不審な車がいるって騒いでて……」
「森センやんー。おひさ」
「は? ――お前、廣井かっ」
一二美は細い指を伸ばしてひらひらと手を振った。窓の外にいるのは、一二美が高校時代にもお世話になっていた森山先生である。
「おひさ、じゃない。用事があるなら駐車場止めていいから、車動かせ」
「えー。でももうすぐ三年出てくるやろ?」
「なんだ、弟待ってんのか」
「そんなとこでーす」
正確には違うが、一二美はにっこーりと笑って頷いた。
現在嘉一らが通う高校は、早雪と一二美の母校でもある。高校の正門付近に車を寄せ、先ほどからずっと一二美は人を待っている。
生徒らが多く下校している時間帯。えらくじろじろと見られているなとは思っていたが、どうやら目立っていたらしい。父に借りたいかつめの四駆に乗っているからかもしれない。
「あれ?! ひーちゃん!?」
森山先生の後ろから、待っていた男が顔を出す。
「見たことある車と思った! え、森セン何してんの? ナンパ?」
「馬鹿もん。中田、お前廣井と仲良かったよな。あいつもう帰ったか?」
「えー、俺三年でクラス別れちゃってるもん。帰り時間までわからんよー」
康久が明るく森山先生に答える。一二美はドアのロックを解除した。
「森セン、康久でいいよー。連れて帰るけど通報せんでね」
「あんま変なとこ連れ回すなよ」
「えーどうよっかなー」
「廣井」
呆れた顔をする森山先生は、まさか一二美が康久と付き合っているとは考えてもいないようだった。
「はいはーい。康久、用事ないなら乗んな」
「ないない! あってもない」
元気よく康久は助手席に乗り込んできた。森山先生に手のひらを向けると、窓を閉める。低いエンジン音が体の芯を揺らす。
スムーズに発車させた一二美の隣で、康久がこちらに向かって身を乗り出した。
「どうしたん? 俺んちの方に用事?」
「そう。そっちの総合体育館で、夜からバスケ」
「えっ! いいな。俺も行きたい。誰とすんの?」
「大学生からのチームやから、卒業したらね。やってんのは高校時代の友達。私は見るだけ」
「男?」
「男か女かに分類するなら男」
何と言っても、女友達は早雪以外にいないので。
なんとなく知られてはいるだろうが、胸を張って言うようなことでもないので、一二美はわざわざ言わなかった。
「……――ひーちゃんは、さ……」
低いエンジン音にかき消されそうなほど小さな声が康久から聞こえた。一二美は片手でハンドルの下部を持ったまま「ん?」と康久に身を寄せる。
「――お……お腹空いてない!?」
康久が勢いよく言った。
「お腹空いたの? なんか買って帰る? コンビニ? マッグ?」
「マッグ!」
一二美は進路を変更させ、この先にあるハンバーガーチェーン店に向かった。
「――ね? 変じゃない?」
「帰っていいっすか」
「私を前にして、楽しくない時間とかある?」
「今とかっすかね」
「馬鹿野郎。真面目に答えろ」
「大真面目っす」
総合体育館の二階の応援席で、人並外れた美しい顔面を持つ一二美と万里は、試合する友人らに声をかけつ雑談していた。
「康久がなんか言い淀むんだけど」
「廣井先輩が怖すぎて、なんも言えないんじゃないすか?」
「きよぴー?」
「すあせん」
万里との付き合いは高校から。現在コートで走り回っている一二美の元恋人がバスケ部の部長だった頃に、万里は部員だった。
当時バスケ部のマネージャーとして不動の位置を築いていた一二美に、万里はいまだに逆らえない。大学も同じところに進学していることもあり、一二美は長年、万里をいいようにこき使っている。
応援席の柵にもたれ掛かる万里が一二美に尋ねる。
「飽きられたんじゃ?」
「ねえわ。私のこと大好きやもん」
「はあ。心当たりないんすか?」
「あったら悩むわけないやろ」
「悩んでんすか。あの廣井先輩が」
いつもだるそうな顔をしている万里が、ほんのりテンションを上げ、コートから一二美に視線を移す。今も他の応援席の人間にきゃあきゃあと騒がれている美しい顔面には「面白い」と堂々と書いている。
一二美は万里の足を踏んづけた。途端にテンションを下げた万里に一二美は鼻を鳴らす。
「別れたら教えてくださいね」
「別れんつの。てかなんで? 私に本気か? 長年気付かずに振り回しちゃった? ごめんね?」
「こちらこそ、好きになれずにすみません」
「ああ?」
しおらしく振ってやったのに、更にしおらしく振られた一二美は万里を睨み付けた。
「学部の先輩に紹介しろって言われてんすよ」
「断っといてー」
「そこそこ身長高くて、金持ってますよ」
「いらなーい」
以前の一二美なら、付き合っている男がいてもIDは受け取っていただろう。恋人と別れた時のために。
けれど今は、そういった気持ちが一切湧いてこなかった。
「康久に振られたらとか考えたくない……もし別れても、別れた後も一生私を引きずるぐらい愛させてやる……」
「こっわ。人間、そんな変わります? なにが決め手だったんですか?」
一二美の男関係が派手だった頃を知る万里が、やる気のなさそうな瞳に興味の色を称えてこちらを覗き込む。
一二美は少し考えたあと、ゆっくりと口を開いた。
「きよぴー」
「はい?」
「あんた、好きな子出来たやろ」
万里は口元に笑みを浮かべたまま、一二美を見下ろした。
「なんでです?」
「他人に興味持つの、珍しすぎる」
「俺だって他人に興味ぐらいありますよ」
「へえ。誰。同じ学部?」
薄い笑みを浮かべたままの男は、言うつもりがないらしい。一二美は自分のスマホを取り出すと、コートを背にして万里の腕に巻きつく。そして有無を言わせず、パシャリと写真を撮った。
「せいぜい勘違いでもされて揉めろ。あ、別に好きな子はいないんだっけ?」
清宮にタグ付けして、すぐにInstagramに投稿する一二美を見て、万里は初めて余裕の表情を崩した。
「出来るもんなら消してみろ」
「本当悪魔ですよね、あんた……」
「残念。康久には女神って呼ばれてるから」
「そいつ、病院連れてった方がいいっすよ」
一二美はまた万里の足を踏んだ。
***
【 中田康久 / その日タク達と勉強するって言っちゃった………… 】
【 中田康久 / ごめんね!!!!! 】
【 HEE / いいよ 】
頑張ってね、と人を小馬鹿にしてる顔のゆるい動物のスタンプを送る。そのスタンプへの返事は、いつまで待っても「既読」の文字しか届かなかった。
これで康久から誘いを断られたのは、五度目だ。
二度目までは、冬に差し掛かるこの時期に受験生が忙しいのは仕方がないと思っていた。三度目は、少し淋しかった。四度目には不信感を抱いた。
そして、五度目。
言い知れぬ焦燥感が一二美を襲っている。
(……え。これ、避けられてる?)
これまで一二美は、相手のLINEが遅かろうが、返事が素っ気なかろうが、会えなかろうが、気にしたことがなかった。相手がそういう態度を取り始める頃には、大抵自分もそういう温度になっていたからだ。
けれど未だ初恋にときめいている一二美は、全く全然これっぽっちも――康久と距離を取りたいだなんて思っていない。付き合った後は消費するだけだった恋愛メーターは、日に日に増すばかりだ。
(なんで? 私の事、好きって言ったやん?)
重い。初めての彼氏に理想を押し付け、我が儘ばかり言って嫌われる女のようだ。
そんな馬鹿な女を、クソほど見てきた。そしてそんな恋人を面倒に感じ始めた男達を慰め、物にしてきたのは何を隠そう一二美である。
(まさか、この顔に飽きた……?)
一二美の美しさが、もう通用しなくなったのだろうか。美しさ以外に誇れるものなどない一二美は愕然とする。
(いやいやいや、避けられてるって、決まったわけじゃない……)
一二美が会いたいと思うほど、あちらが一二美に会いたくなかっただけだ。
(なにそれ。それはそれで普通に死ぬ……)
深く落ち込んだ一二美はのろのろと立ち上がると、一二美のベッドに寝転んでいた早雪の背にぽすんと頭を乗せた。
「ひー? どうした」
最近琥太郎と気まずいらしく、早雪はよく一二美の部屋に避難している。そんな早雪に、一二美は無言でスマホの画面を見せた。
「ヤス?」
「五回」
「ごかい?」
「断られた。五回目」
「へえ。何? 喧嘩でもしてんの?」
早雪の一言で新しい選択肢が増えてしまった。一二美はさーっと顔を青ざめさせる。
「……え? 喧嘩? なんで?」
「え。だって、あんだけ来てたヤスが会いに来なくなったんでしょ……?」
一二美は抱き締めていたクッションをぽいと放り投げ、早雪に迫る。
「待って……私、喧嘩した覚えはない……」
ガタガタと震えながら早雪の二の腕にしがみつけば、「電話とかは?」と尋ねられる。
「無い……」
「んー。スタンプにも既読付けるだけかあ……」
「ええええ! ええええ?!」
一二美にとっての喧嘩とは、互いに大声で罵り合ったり、他の女が乱入してきたり、髪を引っ張りあったりと、かなり派手なものばかりだった。だからこんなに静かに、いつの間にか、喧嘩が始まるだなんて可能性を考えたことが無かった。
喧嘩という案を聞いてしまった今では、康久が一二美に飽きる――よりもずっと、信憑性がある気がする。
「……そういえば康久、なんか、私に言いたそうやった」
「あーららー」
早雪の「あーららー」が、物語でいう「だったとさ」と同じ意味合いを含んでいることを敏感に察した一二美は、顔を蒼白させて早雪を見た。
「なななななんで?! 喧嘩なの?! これ?!」
「うーん」
「私本当に心当たり――」
ない、という言葉は紡がれなかった。一二美の部屋の戸の隙間から嘉一がこちらを覗いていたのだ。
「か、嘉一……なんか康久から聞いて……」
「――見たな。痛い目」
『お前な……いつか絶対痛い目見るからな』
いつだったか、嘉一が一二美に言った言葉を思い出す。
嘉一がにやりと笑った。容赦のない、機嫌のいい声が嘉一から降り注がれる。
「別に、私は本当に何にも――」
「してないと思うぐらい、ひーがやばいってことだろ」
一二美は目を見開き、口元を両手で覆い、ガタガタと震え始めた。
「言っとくけどな、ヤス怒らせたとしたら、悪いのは百パーひーだからな」
嘉一に言われずとも、はっきりとわかる。確かに康久を怒らせたら――悪いのは百パーセント自分だ。
「楽しみだなあ? ひー」
にやぁ、と積年の恨みを晴らした魔王のように嘉一が笑う。
一二美は後ろ向きにぶっ倒れた。
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