12:一生分
「うっ、ひっ、うっ――康久っ。止、まれ」
「え?!」
「そっ、そこっ、マルバツ公園っ」
一二美を抱き上げたまま鞄も持たず、上靴のまま廣井家に向かっていた康久は、一二美に呼び止められて足を止めた。一二美が指さす先には公園がある。
康久はドーム状になっている大きな遊具の中に一二美を抱いたままずるずると体を滑り込ませた。膝の上に一二美を座らせ、頭を覆っていたコートを外す。
どんな表情をしているのか想像もつかなかった一二美は、仏頂面を浮かべていた。
「くそっ……泣くとか、最悪ッ……そういう女一番嫌いなんに……」
康久と目線を合わせない一二美が小さな声で毒づく。いつもとは百八十度違う見た目でも、いつもと全く同じ態度の一二美に、康久は心底ホッとする。
「ひーちゃん、どうしちゃったの……」
いやめちゃくちゃ可愛いけど、と口の中で小さく呟いた康久を、一二美はギンッッと睨み付けた。
「
「うぁ、はい!」
「どうしちゃったの、は! こっちの台詞やろ!?」
唇を引き結んで怒り始める一二美は、怒っていても可愛い。だが、泣いているのが可哀想で、康久は自分のシャツの袖で一二美の涙を拭う。
「や、康久が!」
「はい!」
「康久が、怒ったって言うからぁ……」
表情を崩した一二美が、康久の手を掴んでぎゅうと自分の目元に押し付けた。
(えっ、何この可愛いひーちゃん……)
心底可哀想なのに、康久のことでこんな風になっているのかと思うと、不埒な喜びが胸を過ぎる。
「俺、怒ったとか言った?」
「さゆと嘉一が言った……会いに来ないのは康久が怒ってるからで、康久を怒らせたなら私が百パー悪いって……」
「ひーちゃん、俺になんかしたの?」
「してないけど、でもだって、康久が怒るならやっぱ私が悪いでしょ!?」
だって康久は悪くないんやから! と一二美が逆ギレする。
(……え? よくわかんないけど、自分が悪いことした自覚もないのに、俺のためにこんな格好して会いに来てくれたってこと……?)
「なんそれ……意味わからん……」
「!」
「可愛い……」
「当然やろ!?」
可愛い、と康久が一二美を抱き締めると、一二美はポロポロと泣いた。
「それで、許すの? 許さないの!?」
謝りに来たという癖に、ごめんねの一言も言ってない一二美は康久のブレザーをぎゅっと握りしめた。その指が小さく震えていて、康久は自分の愚かさを知った。
(「好き」って言われてないとか、まじでほんと、どうでもいいこと過ぎた……)
自分としっかりと向き合ってくれる一二美を信じていればよかっただけのことだ。空っぽの自信を補ってあまりあるだけの、可愛さと愛を、きっと貰えていたのに。
「ひーちゃん大好き……」
「知ってるから、どっちなの?!」
「許すも許さないも、俺怒ってないもん……」
ぎゅうう、と一二美を抱き締める康久に、一二美はぽかんとする。
「……え?」
一二美はふるふると震える指で、康久の服を引っ張る。
「じゃ、じゃあ、飽きたの方……?」
「ええっ!?? 飽きる?!」
何の話をし始めたのかと一二美を覗き込めば、一二美の顔が可哀想なほど、蒼白になっていた。康久は慌ててぎゅっと抱き締める。
「そんなわけねえじゃん! 俺、ひーちゃんのこと、こんな好きなんに!」
「だ、だって、私の顔に飽きたんかと……」
「また顔!? え、もしかしてそれで黒にしてきたん!? ひーちゃん、顔も可愛いけど、全部っ! ぜんっぶ可愛いから! 今とか見た目関係なく、めちゃくちゃ可愛いからっ!!」
拓海のように冷静になれれば、一二美をこんなに不安にさせなかったかもしれない。琥太郎のように勉強していれば、もっと一二美が納得する語彙を知っていたかもしれない。嘉一のように女性の心の機微に聡ければ、もっと安心させる言葉を選べたかもしれない。
どれも持っていない康久は、康久のままで一二美にぶつかるしかない。
「俺ねっ! ダセエけどっ! ほんと、重いって言われるやろうけどっ! ひーちゃんと仲いい男らに、ヤキモチ妬いてたん! それで、会うと余計ダセエこと言いそうで、会えなくなっちゃって! かっこつけてて、ひーちゃん泣かしちゃって、ほんとごめん!」
康久が大声で叫ぶと、小さなドームの中で声が反響した。ぐわんぐわんと響く余韻まで消えた後、一二美はゆっくりと口を開いた。
「……――康久と付き合い始めてから、そういう男とは会ってないし、寝てない」
「妬くのってそのレベル必要なん!? 待ってやめて。また妬けるし、マジで俺の器が小さすぎて萎える。男と一緒に遊ぶって聞いただけでも気にしてたとか言えん……」
「……え? 友達と遊ぶのも駄目なん?」
その場合、私女友達いないからさゆとしか遊べんくなるけど。とボッチ発言をする一二美を、康久は更に抱き締めた。
「ううん、もう大丈夫」
自分でも驚くほど優しい声が出て、ちゃんと心の底からこの言葉を言えたのだと感じた。
「康久が気にするなら、別にいいよ。あいつらとか」
「ほんとに、大丈夫」
「……なんで?」
潤んだ一二美の目が不安げに康久を見つめる。
「だって、ひーちゃんの髪、黒く染められる奴、俺だけでしょ」
にこにこ笑って康久が言うと、一二美は赤い顔をして唇を尖らせる。
その顔を見て、康久は更に相好を崩す。
「もう一生、大丈夫」
膝に座らせた一二美の頭にすりすりと頬を寄せると、一二美はつんとした表情を保ったまま、康久の胸に寄りかかってきた。
「今度、一緒にバスケ行く?」
「いいの? 行く!」
「――うわあ……。めっちゃくちゃ気に入られそう……。私よりも誘ってきたら即断れよ」
「え……俺、センパイの誘い断るの、勉強の次に苦手なんだけど……」
一二美が抗議するように、康久の胸にぐりぐりとつむじを押し付けてきた。その拍子に、一二美の頭からツンと刺激臭がする。カラー剤の香りだ。
「次は何色にするの?」
黒い一二美の髪を掬い上げながら、何の気なしに聞くと、一二美が片眉を上げた。
「黒やなくていいの?」
「俺、ひーちゃんが好きな色にしてるのが好きやもん。……それに」
康久が言葉を止めた。訝しんだのか、一二美が康久を見上げる。
「?」
「黒いひーちゃん可愛すぎて、俺、顔見れん」
顔を赤くして照れる康久を、一二美は半眼でねめつけた。
「……しばらく色変えない」
「えっ!?」
「うっさい。ひーちゃんが好きな色にしてるのが好きやもん、とか言って? は? なんそれ」
「ひーちゃんごめんって! だってまじで可愛すぎて……!」
「普段の私は可愛くないって?!」
「可愛いです!」
「大体、黒が可愛いなら、可愛い私を見てたらいいやん!?」
「そうやけど!」
顔を真っ赤にして困っている康久に、一二美はご立腹である。話の収拾も付かなくなってきた。
プンプンと拗ねる一二美のご機嫌をなんとか取ろうと躍起になっていた康久だったが、少しばかり深刻な事情が迫っていた。
「ひーちゃん、ごめんけどちょっと下ろしてもいい?」
「は? なんで?」
「ちょっと足が……痺れて……」
ずっと硬い床の上に座り、一二美を座らせていた康久の足が、もうほとんど感覚のないレベルで痺れていた。しかし、要らない口を挟んでしまったせいで、せっかくマイナス三くらいまでになっていた一二美の機嫌が、またマイナス百ほどに戻る。
「は? ありがとうございますやろ?」
「ありがとうございます」
康久は一二美を下ろすことを諦めて、ぎゅっと抱き締めた。
一二美が嬉しそうに、康久の胸にすりっと頬を寄せる。腕の中の猫は、満足そうに目を細めている。
(あー……)
幸せを、噛みしめる。
足はきっと、後でどうにでもなるだろう。
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