13:バレンタインのチョコレート、再び


{ヤス、お前今何やってんの?}

「へ? 勉強。偉くね?」


 スマホから聞こえる声に、康久はシャーペンを握っていた手を止めた。


 高校三年生の冬は慌ただしく、受験に向けた気持ちの準備も出来る前に自由登校が始まった。


 毎日のように顔を合わせていた嘉一や拓海や琥太郎とも会う機会が減り、それぞれがそれぞれの進学に向けて追い込み真っ最中である。

 家から通える距離のほどほどのレベルの大学を受ける康久は、一応受験生ではあるが、琥太郎らより随分とのんびりとした冬だった。


{ちょっとうち来いよ}


 一二美と知り合って三回目のバレンタインデー。今日は一二美が朝から出ていると聞いていたため、夜に会う予定だった。


「おー、わかった」


 一二美が帰ってくるまで、嘉一の部屋で待っていればいい。

 康久は半纏を脱ぐと、ウィンドブレーカーを羽織った。




***




「じいちゃん、ばあちゃん、何してんのー」

「おー、ヤス。来たんか。一二美はどっか出かけとんぞ」

「かいっちゃんに会いに来たから。何それ、どっか運ぶの? 俺持つ持つ。ここ持って平気? んっしょ」


 一二美の祖父母は体を動かしているのが好きだ。一二美曰く、用事がない時も何かしら用事を作って、庭で納屋でと作業をしているらしい。

 廣井家の門を潜ってすぐにある納屋の片付けをしていたじじばばを手伝っていると、玄関土間から嘉一が顔を出した。


「遅いと思った」

「お、かいっちゃん」


 服が汚れるのも気にせず片付けを手伝っていた康久を見て、嘉一がため息をついた。


「じいちゃん達、右に動かしたら次は左に動かすのを趣味にしてんだから、付き合わんくっていい。はよ上がれ」

「そーなん? ばあちゃん、俺家ん中いるし、重いの運ぶ時は声かけてね」


 んじゃね、と手を振る康久に嘉一の祖母が手を振る。そして嘉一を見ると、低い声で言った。


「嘉一、ヤスの茶に一服盛っとけ。一二美じゃその内逃げられる」

「おー。ヤス、うちでお茶飲む時は気をつけろよ」

「俺、聞いちゃっていいの? それ」


 笑いながら玄関土間で靴を脱ぐ。康久の膝下辺りまである高い段差を乗り越えるのも、随分と慣れた。


 汚れた手を洗うため洗面台を借り、居間へ戻る途中、甘い匂いに誘われて台所へ向かう。嘉一の母親か嘉一が何か作っているのかと思えば――台所は腐海と化していた。


 料理中でさえも片付いている廣井家の台所が、見るも無惨に散らかっている。


 むせかえるほどのチョコレートの甘い匂いが充満する台所には、チョコレートの付着したいくつものケーキの型、ところどころ塊が残る歪に溶けたチョコレートが持ち手までべっとりとついたゴムベラとハンドミキサー、チョコレートを大量に纏ったままダイニングテーブルの上に直置きされたスプーン、脱ぎ捨てられた濡れたエプロン、新雪のように散りばめられた小麦粉――を踏んだ足跡、などがあった。更にテーブルの上に置かれていたレジ袋は、汚れた手のままで掴んだのが丸わかりの跡が残っている。


 あんぐりと口を開いた康久に、嘉一が新しいスリッパを渡す。自らも新しいスリッパで汚れた台所の床の上を歩くと、嘉一はシンクの上に置かれてあった物を手に取った。


「ん」


「え? 何これ?」


 何これ、と思わず言ってしまった康久は、差し出された物体をしげしげと見た。すが立ち、不気味にひしゃげた黒い物体は、匂いから推測するにチョコレートケーキなのだろう。どれだけ空腹であっても手を伸ばしたくないような見た目をした、不気味に歪んだ生焼けの個体もある。


「え……かいっちゃんじゃ、ないよな」


「ざけんなよ。当たり前やろ」


 俺は昨日焼いてもう持ってった、と言う嘉一に、康久は目玉が転げ落ちそうなほどに、目を見開いた。


「――え? じゃあ、嘘? え、嘘やろ?」


 康久が呆然と台所を見ていると、玄関土間から「ただいまー」とレジ袋のガサガサという音と共に声がした。

 そして数秒後、バタバタバタと荒い足音が台所へ駆け込んでくる。


「靴がっ、なんっ――!!」


「ひーちゃん!!」


「見んな!!」


「ひーちゃんっっ!!!」


 台所へ切羽詰まった表情で走って来た一二美を、康久はぎゅううっと抱き締めた。一二美は康久の腕の中から逃れようとなんとかもがくが、決して離さなかった。


「全部食べる!!!」


「駄目に決まってるやろ! 受験生が腹壊すようなことすんな!」


「壊したっていい! トイレで勉強するから!」


 あの一二美が――人生で包丁など一度も握ったことがなさそうな、あの一二美が――康久のためにチョコレートケーキを作ろうと努力したあとを見て、康久は感極まっていた。調理器具に残った調理過程のチョコレートも全部食べたい。


「ひーちゃんありがとう、大好きっっ!!」


 康久が一二美を強く抱き締める。

 一二美はむすっとした顔で康久に大人しく抱かれていたが、そばにいる嘉一に気付き、思いっきり親指を下ろした。


「嘉一が呼んだんやろ!?」

「台所こんなされて、仕返しの一つもするに決まってんだろ。ヤスに手伝わせんで、絶対自分で片付けろよ」

「はあ?! あんたがすんだよ!」

「するかボケッ!!」


 嘉一と一二美のいつも通りの喧嘩が始まる。

 康久はにこにことしながら、それを見守っていたが――その日の晩、康久は無事に腹を壊した。






猫系廣井さんと犬系中田くんの上下関係


おしまい

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