06:ふたり暮らし
そんな風にして、嘉一と心は親元を離れ、一人暮らしを始めた。
引っ越した日は別で、先に嘉一が入居していた。
案の定というか、手際よく引っ越しの片付けを終えていた嘉一は、心の引っ越しを当たり前のように手伝った。そして心は、当たり前のように手伝ってもらった。
「心。飯の相談するぞ」
そうしてなんとか心の荷解きを終えた直後に、嘉一は帳簿を手にそう言った。
入居について話し合うため、嘉一は心の母とLINEのIDを交換していた。その際に、心の食事についての相談もされていたという。
「疲れたよぉ……今日しなきゃ駄目え?」
「駄目。金のことだから、ちゃんとしとく」
「うう、はあい……」
普段動かさない筋肉を酷使した体はへとへとだったが、嘉一に楯突く元気もなかったため、フローリングに寝そべっていた心はよろよろと起き上がった。
「基本的に夕飯は俺が作る。付き合いとかも出てくるだろうから、必要ない時はLINEくれ。冷蔵庫に入れとく」
「はーい」
「あ。夜に作る方が楽やから、俺は夜のほうが都合がいんやけど――心は昼の方がいいか?」
「勿論、嘉一君が楽なほうがいいです」
「おん。んじゃ、昼の弁当は詰められる時は渡すな。毎日は無理やから、基本的には自分でどうにかしろ」
「はーい」
「毎週、土日どっちかで買い出しに行く。平日は俺が勝手に行っとくけど、土日はついてこいよ。食材の値段とか旬とか売り場の配置、ちゃんと覚えろ」
「わかったー。私運転するねー」
嘉一の親戚が駐車場代を負けてくれたため、心は実家の中古車を一台こちらに連れてきていた。短大にも勿論車で通うつもりだ。春休みの間に運転免許証をとっていて本当によかった。乗り慣れてないバスに毎朝煩わされずに済む。
「平日のも、言ってくれれば車出すよー」
「んじゃいっぱい買う時は頼むわ」
「うん」
「そんで、朝」
「はーい」
「朝飯、心の係な」
「ええ~~?? 私、ご飯なんて作ったことないよぉ」
「だからだろ。朝なら米炊いて、味噌汁作っときゃどうにかなる」
橘家の朝のメニューは毎朝、山盛りの白ご飯と季節の野菜が入った味噌汁だ。廣井家はわからないが、橘家に合わせたメニューを提案してくれたということはわかった。
「朝も俺がしたっていんやけど、おばさんにちょっとは覚えさせろって言われたからな……」
ご飯の面倒のみならず、調理の面倒まで見てくれるらしい。心は両手を合わせた。
「作り方ぁ、教えてくださぁい」
「おん」
――というわけで、朝と夜ご飯を一緒に食べることが決定した。
昼食代を抜いた食費を合算し、二軒分の朝と夜の食費とすることにした。
どう考えても心のほうが食費がかかるため、金銭面での負担も大きくしている。そこら辺は心の死活問題なので、両親がきちんと予算を組んでくれていた。
一人暮らしは淋しさとの戦いでもあると姉が言っていたが、今のところ心は一人になってもいないし、淋しくもない。
「嘉一君」
「あん?」
嘉一は早速スマホで近所のスーパーマーケットのチラシを見て、やりくりに燃えている。
心の部屋の、心のテーブルの向こう側で、嘉一は「グラム――円か……」と呟いている。
「お母さんに、私のご飯作るバイトしないー? とか持ちかけられたんやないー?」
「まあ、されたかされてないかで言えばされた。けど義務にしたくなかったから、金は貰ってない。百パー俺の善意なことに、心は全身全霊で感謝しろ」
スマホから視線を逸らすことなく、淡々と嘉一が言う。
(なんでここまでしてくれるんやろ)
これまでの嘉一との付き合いの中で、何度思ったことだろうか。
出会ってすぐの頃、嘉一は「料理を美味しく食べてほしい」と言っていたが、それだけでこんなにも長く続けられるものなのだろうか。
音はよく「もう自分でご飯作りたくない。お母さんのご飯が恋しい」と電話で泣いている。
なんで、と聞くのも、また聞かないのも、ずるい気がした。
どうせずるいなら、何も知らない方が楽だ。心はたった今できた空白に感謝を詰めて、嘉一に言った。
「……ほんとーに、ありがとぉね。私も頑張るから、一緒に頑張ってください」
ようやく顔を上げた嘉一はにやりと悪人顔で口の端を上げると、片手を掲げた。
「任せとけ」
嘉一の手に、心はパンッと音を立てて手をあてる。
ぎゅっと掴まれても、嘉一の手の大きさを既に知っている心は、もう驚くことはなかった。
***
嘉一とのふたり暮らしともいえる生活は、罰が当たりそうなほどに快適だった。
まあ、毎日ご飯が美味しい。
嘉一の腕は一年以上のお弁当を通じて知っているつもりだった。だが、出来たてほやほやのご飯の威力を、心は思い知らされた。
そりゃあまあ、とんでもなく、美味しい。
温かいご飯に汁物、丼もの、生鮮食品に麺類。
お弁当では食べられなかった調理法のメニューが、嘉一の部屋のテーブルに広がる度に、心はもんどり打って喜んだ。しかも、どれも心のためにおかわりを前提に作られている。
「嘉一君、嫁に来てぇっ! それかぁペットでい~から飼ってぇ!」
「ペットはねえわ」
朝ご飯の味噌汁は、一週間も作ればなんとなくの作り方を覚えられた。そもそもさほど工程を踏む料理でもない。
味噌汁は物心ついてから毎朝飲んでいるため多少は飽きているが、食べられないほどではない。日本人に生まれてよかったなと思う瞬間でもある。
毎朝、白ご飯と味噌汁と納豆を二人で食べる。納豆も卵も、一人暮らしでは余らせがちになるらしいが、今のところ嘉一の家の冷蔵庫の中で余った気配はない。
野菜によって異なる下処理は、スーパーマーケットで食材を選ぶときに嘉一が説明してくれるため、面倒そうな野菜はそのまま棚に戻したり、冷凍や処理済みの野菜を買ったりする。
嘉一は、自分の料理にはこだわりがあるようだが、他人の調理に対して文句を言うことはなかった。心がどんな食材を使っても、どんな作り方をしても、何を入れて味噌汁を作っても、全て残さず食べてくれた。
両親からは十分な食費をもらっていたが、やってみたかったバイトも始めることにした。いつも行くスーパーマーケットの駐車場内にあるクリーニング店だ。
バイトの帰りにスーパーマーケットにも寄って帰れるため、嘉一から買い物リストがLINEに届くこともある。嘉一に鍛えられた審美眼で野菜を検分し、エコバックに詰めて帰るのも心の仕事になった。
それぞれ学校で友人が出来たりバイトだったりで、夜に会えない日もあったが、基本的には二人で夕食を取った。
約束通り、土日のどちらかで買い出しに出かける。大学一年生の夏休みの間に嘉一が免許を取ったため、少し遠出して大型のスーパーマーケットや市場に出かけることもあった。
買い出しに出かけなかった日は、平日分の下処理などを嘉一が嬉々としてやっているので、心は手伝うこともあれば、そばで本を読んでいたり、レポートをしていたり、嘉一のゲームをしていたりすることもあった。
あまりにも感謝の気持ちが溢れたために、母の日にはカーネーションを贈った。
ちょこっと不機嫌になられた。
けれど律儀な嘉一は、心の贈ったカーネーションの水替えを毎日した。男の一人暮らしに花瓶などなく、ペットボトルの上の方をカッターで切り取ったものを代用していた。
心の贈ったカーネーションの中に、一つだけ、いつまでも開かない蕾があった。
切り花用の肥料を買ってきたり、水切りをしたりと、丁寧に世話をする嘉一に、心は尋ねた。
「咲くと思う?」
「どうだろな。けど、諦めたら咲かねぇことだけはわかってるから」
台所シンクでペットボトルの中を洗い、綺麗な水に取り替えながら嘉一が言った。
「今日は咲かんでも、明日咲けばいい」
何故か凄く実感を込めながら、嘉一が言った。
そして心をじっと見つめる。
「?」
首を傾げる心に「俺、気は長い方だから」と告げると、嘉一はカーネーションを日当たりのいい窓辺に置いた。
――そうして春が過ぎ、夏が来て、秋も去り、冬となり、年次が変わっても心と嘉一の暮らしは変わらなかった。
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