07:幸せの中
「え?! 廣井君と、まだ続いてるの!?」
「続いてるっていうか、え、そこ、始まってもなかったよね?」
夏帆と梨央奈がぽかんとした顔でこちらを見る。
それぞれ違う大学に進んだ夏帆と梨央奈とは、高校の時に比べると付き合いは減っているものの、折々に触れこうして集まっていた。
カフェの軒に突き出したサンシェードが真夏の日差しを遮る。じりじりと暑い外とは違い、店内は涼しい空気と、軽やかな音楽が流れていた。
「嘉一君、今はお隣さんだよ~」
温かい紅茶を飲みながら心がほわりと微笑むと、夏帆と梨央奈はガタガタッと椅子を揺らした。
「え、え?! なんて?!」
「ちょい待ち待ち待ち待ち……え、ちょ。いつから? どうなってんの??」
「うーんとー」
卒業後、急遽一人暮らしをすることになったことは二人にも伝えていた。一人暮らしが決まったことも、順調に暮らしていることも。ただ、嘉一のことを話そうとする度に話題が移り、「ま、いっか」と過ごしている内に一年が過ぎてしまっていた。
「……嘘でしょ。廣井嘉一……今まですまんかった……推すわ……」
「廣井君すごい頑張ってる……。今度、拓海君と差し入れ持ってく……」
一通り説明し終えた後、夏帆と梨央奈は涙を拭く真似をしつつ、嘉一を応援し始めた。拓海とは、夏帆の恋人のことである。
「そうなんだよ。本当に頑張ってもらってて。何かお礼したいなあ」
「あんたが笑顔で食べるのが一番のお礼だよ……」
「うんうん。あとはたまにはうんと甘えさせてやんなさい……いや甘えた方が嬉しいタイプなのかな、廣井君は……」
「えーこれ以上甘えられないよ~」
心はティーポットから紅茶のおかわりをカップに注いだ。外でかいた汗をクーラーで冷やされ、心の体は水風船のようにひんやりと冷たくなっている。
「心は――好きな男子とか出来た?」
「ん~? ……女子大だしねぇ」
梨央奈が途中で話の流れを変えたことには気付いたが、心は追求しなかった。
心自身、彼氏が欲しいと思ったことはこれまでに一度もない。男子が苦手な自分が恋をするとも思っていないし、現状で満足している上に、生きることに精一杯で、今以上になにかを大切に出来る自信もない。
自分の両手で大事に出来無いものを、増やしたくはなかった。
「じゃあ唯一話す若い男は廣井君なんだ」
「うん~」
「どんな話すんの?」
「んー。普通に一緒に見たYouTudeのこととかぁ、学校のこととかぁ、家族のこととかぁ……。梨央奈ちゃん達と話すようなことと変わんないよお」
「そうなんや」
心にとって嘉一は、友達だ。それも、梨央奈や夏帆と同じほど大切で、沢山の話が出来る最高の友人である。
「あ。こないだはねー、学校にいる時に電話掛かってきてえ」
「お、うんうん」
「タケノコ好きか? って〜。親戚が山から持ってきたから、私が好きなら貰うって言っててぇ」
「……なんて答えたの?」
「大好き! って言ったよぉ」
梨央奈が眉根を親指で押さえ、夏帆は両手で顔を覆った。
「……廣井君っ……」
「迷うってことは、それ絶対茹でてなかったやつやん……!」
「美味しかったよ~! タケノコご飯に、煮物に、炒め物に、肉まんとか、中華みたいなのもあった!」
満面の笑みで心が言うと、夏帆と梨央奈は両手を合わせた。
「私、今年の初詣では、絶対に廣井君が報われるようにって祈るわ」
「気持ちは一緒だよ……」
夏帆と梨央奈に心はもっとにこにこした。
心もここ数年、初詣で祈るのは必ず嘉一の幸せだったからだ。
***
「今日ねえ。夏帆ちゃんと梨央奈ちゃんと、嘉一君の話になったよぉ」
「は? ……なんて?」
ナスの煮浸しを箸で突っつく。料亭で出る料理のように、煮浸しの上には千切りにされた白髪ネギと唐辛子が載っていた。
心は、嘉一の部屋の狭いテーブルに、部屋の主と向かい合わせで座っている。
締め切られたカーテンの向こうの空は暗いが、地上は明るい。二人の故郷ならば、この季節のこんな時間ともなれば、それはそれは蛙や虫や鳩がうるさいものだが、この街ではかわりとばかりに電車や車が騒ぎ立てる。
「嘉一君のこと、いーっぱい褒めてたよぉ」
「さようですか」
嘉一は嘆息して、茶碗の中の白米を口に放り込んだ。
眼鏡の奥の嘉一の瞳はいつも通りで、何を考えているかまではわからなかった。
嘉一が眼鏡をしていると、もう出かける予定がないのだとわかる。朝、心が炊飯器を持って部屋に上がる頃にはもうコンタクトをはめているので、眼鏡姿は少しレアな気がして嬉しい。
「嘉一君はぁ、本当に凄いなあ」
「あ?」
「料理も出来てぇ、頭も良くてぇ、面倒見も良くてぇ、性格も良くてぇ、格好良くてぇ――」
嘉一が顔を顰める。嘉一は褒めると、途端に機嫌が悪いような表情をする癖がある。最初はびっくりしたが、照れているだけだと聞いてからは、気にしなくなった。
(嘉一君はすごい。すごい人なんよなあ)
梨央奈が言うのを止めた言葉を、心は多分正確に理解していた。大学で知り合った友人に嘉一の話をすると、必ず「んで、いつ付き合うの?」と、聞かれるからだ。
心は嘉一との関係を、とても大事にしていた。
そして嘉一からも大事にされていることを知っていた。
心にとって嘉一は、仲の良い友達で、同級生の
同じほどに大切な友達だが、同性の梨央奈や夏帆とはやはり違う。
短い髪も太い首もあくびをする時に寄る皺も、話すたびに上下する喉仏も。傍にいるだけで安心するような包容力も。
嘉一は男女の距離感を越えたものを求めてはこないし、心も無遠慮に入り込もうとしたことはない。気軽に体に触れたり、薄着で会ったり、ベッドに座ったり、シモネタを言ったり、お風呂場に入り込んだり――そういうことを、心は意識してしないようにしている。
それは、心の望む関係の向こう側にあるからだ。
二人の今を、あけすけな言葉で括ってしまいたくなかった。
心と嘉一の関係は、努力で保たれている。
相手を支配したいと欲張らないこと。
奉仕に代償を求めないこと。
義務感で縛られないこと。
価値観を押し付けず、尊重し合うこと。
嘉一の本心は嘉一にしかわからないので、勝手に憶測して決めつけることは出来ないが、彼が大切だからこそ、心は常に気を付けていた。
正直者ではないと自負している心は、嘉一が表に出してくれる誠意や親切だけを笑顔で受け取る。
そして、同じだけ――いや、彼が渡してくれるもの以上に、言葉や態度で返そうとしていた。
そんな、貴重で、単純で、複雑な関係性は、簡単に手に入らない。その上、持続することはもっと難しい。
しかし、二人の関係を友人らはもどかしく感じている。
『その男、彼女いないの?』
『え? 心、狙われてるんじゃない?』
『だっておかしいじゃん――』
『付き合ってもないのにそこまでするの』
嫌な話題は大抵、笑っていれば過ぎ去った。
「――心? どうした?」
褒め言葉のあと、茶碗を持ったままじっと黙り込んでしまった心を心配して、嘉一がこちらを見ていた。
「あのねぇ――」
私達っておかしいのかな。
そう聞こうとして、心は口を噤んだ。
(それを聞いて、私は。そんなことない、以外の返事を聞きたくない……)
求めている答えを言わせるための質問は、きっとするべきではない。それ以外の答えが返ってきた時に、自分はきっと落ち込んでしまう。
『そんな腹減るとか、どっかおかしいんじゃね?』
『は? 高二にもなってあんな話し方する方がおかしくない?』
おかしいという言葉は、いつも簡単に心を否定する。
「……この煮浸し、美味しいなぁと思って」
「そりゃよかった」
嘉一は煮浸しの上の白髪ネギも一緒に箸で摘まんで、パクリと口に入れた。嘉一の食事を取る姿勢は美しい。その姿勢を真似して、心も箸を動かした。
何も考えない。
何も見ない。
何も聞かない。
そうしていれば、ずっとこの幸せの中にいられる。
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