20:岐路

 早雪は二十二歳。

 もうヒールでフロアに立つのも慣れてきた。





 ――ガララッ


「ひー。今度RKMから出るパレットだけどさー」


 スマホから顔を上げた早雪は、目の前の光景に固まった。


 二十二年間、この地球上の誰の部屋よりも通い慣れた、勝手知ったる一二美の部屋。今日も今日とてノックなどせず、スマホ片手に自分の部屋のような気楽さで、早雪は彼女の部屋の襖を開けた。


 この部屋の主一二美は、一人の男の膝に乗っていた。そして、その細く白い両腕を男の首に巻き付けている。


「こら、ひー。からかいすぎちゃ可哀想でしょ。ごめんねーヤス」


 一二美が乗っているのは、琥太郎の友人、康久だった。

 康久は西家に来たことがあるし、廣井家によく遊びに来ているのを知っていた。自転車でやってきては、土日の度に大きな声で「かいっちゃーん!」と外から叫び「近所迷惑! LINE入れろっ!」と嘉一に怒鳴り返されているのが、西家まで聞こえてくるからだ。


「からかってないから。付き合い出したし」


「……は?」


 思いもがけない一二美の言葉に、早雪はあんぐりと口を開けた。一二美に膝にのっかられ、顔を真っ赤にしている康久と一二美を、早雪は見比べる。


 そして、自分で考えていたよりもずっと低い声が出た。


「……いや、駄目でしょ」


「さゆ?」


「ヤスは琥太君と同じ年なんだよ? まだ子どもやん。何手ぇ出してんの」

「えー? 私十七歳より下とも付き合ったことあるの、さゆ知ってるやろ?」

「それは、ひーももっと若かった時の話やん」

「論点ずれてる。さゆはヤスの年を基準にして、子どもやって言ったやろ?」

 一二美の言葉に、早雪はたじろいだ。だが、自分が正しいはずだと首を横に振る。


「いや、それはうちらが大人になったからで……」

「大人って。まだ二十二やし。ってか、今まで私がどんなクズと付き合おうが、不倫しようが、さゆに怒られたこととかなかったんやけど」


 綺麗な二重の瞼をぱっちりと開き、真っ直ぐにこちらを見つめて言う一二美に、早雪は今度こそ言葉を失う。


 一二美が乗っている康久は、この会話を聞いていいのか、申し訳なさそうな表情で早雪を見上げている。

 しかし早雪には康久を慮った台詞を吐きながら、実際康久を気にかけてやる余裕など全くなかった。


(なんで私、ヤスにだけ……)


 一二美の言う通り、早雪はこれまで一二美の恋人に関して一度も口を出したことがなかった。


 それは、互いに人生の八割を共にしている幼馴染みの、踏み込めない二割の部分であると知っているからだ。


 どれだけ早雪にとって一二美が大事でも、一二美にとって早雪が大事でも、互いに互いを恋愛対象とは見ていなければ、その二割を――今後、もっと比率が大きくなるかもしれないその割合を――互いが埋めることは出来ないのだ。


 そしてその二割はいつだって、他の人間の正論なんて届かない遠い場所で、がんじがらめの光りを纏って輝いている。


 ゆるまんと罵り合うほど親しき仲でも、互いに触れてはいけないものもある。触れられたくない、触れたくないものもある。


 生まれた時から一緒で、多分死ぬまで交流がある二人だからこその、暗黙のルールだった。


「……それは、だって……」


 早雪自身が一番驚いていることを、一二美は敏感に感じ取ったのだろう。一二美は明るい声を出した。


「てかそれ、どっかの条例だっけ? 未成年に手出すなってやつ。あれ、親に許可とればいいんじゃなかった? ヤス、私、親に挨拶に行ったげよーか?」

「え?! そりゃ、俺は嬉しいけど」

 突然話を振られた康久が、戸惑いながらも返事をする。


「息子さんとお付き合いしてますーって頭下げてくるわ」

「ひーちゃん男前過ぎる……っていうかそれはやめて。俺まだ学生だから。ちゃんと自分でひーちゃん養えるようになってから結婚したい」

「結婚? 話飛躍しすぎてて笑う」

「なんで!! 今絶対そういう流れだったやん!?」


 康久も空気を読んで、ことさら明るい声を出す。しかしどれだけ康久が笑顔を浮かべていても、ギクシャクとした空気は俄然として残っている。早雪は心から申し訳なくて、しゅんと項垂れた。


「ヤス……ごめんね」

「え! いいよさゆちゃん。俺がまだ子どもなのはその通りなんだし」


 康久は「最初から気にしてないよ」とにっかり笑顔を浮かべる。


 康久が未成年で、一二美が成人なのは純然たる事実だ。


 だからといって、早雪に正す権利があるわけでもない。ましてや、それほど正さねばならないようなことかも、わからなくなってしまった。


 少なくとも、あんな風に糾弾することではない。


「ううん。私が悪い。なんであんな風に言っちゃったんだろ……本当にごめんね」

「生理なんじゃないの?」

「予定日まで、まだ一週間あるわ……」

「なぁひーちゃん。それって俺が聞いててもいいこと……?」


 そわそわとしながら、康久が耳を塞ごうとする。居心地が悪そうな康久には申し訳無いが、早雪はようやく少しだけ笑えた。




***




「ただいま」


 夜遅く、琥太郎が帰ってきた。

 高校三年生になった琥太郎は、当然のように日付が変わる頃に帰宅するようになった。塾が遅くまで面倒を見てくれているようで、帰りは仲の良い塾の先生に送ってもらっているらしい。


 受験など気にしたことがない早雪と典子は、琥太郎の受験に大変びびり散らかしていたが、当の本人はどんと構えたもので、逆に早雪と典子を安心させた。


「琥太君おかえりー」

 台所で飲み物を入れ終えた早雪は、自室に上がろうとしているところで、玄関にいた琥太郎と鉢合わせた。典子と昭平はもう眠っているため、家の中は玄関以外薄暗い。


「あれ? さゆちゃん、お出迎え?」

「愛しの琥太君が帰ってくる音がしたからね」

「嬉しいな、ありがとう」


 琥太郎が本当に嬉しそうな笑みを浮かべる。


 去年の今頃は慣れない仕事と環境に押し潰されそうになっていたが、一年も経てばなんとなく自分の中でリズムが出来てくる。

 スタイリストとしてのデビューはまだまだな上、同期と比べてしんどくなることもあるが、ようやく落ち着いて自分なりの目標を目指して頑張れている。


 去年の今頃――潰れかけた早雪を救ったのは、琥太郎だった。


 きつい時は人に寄りかかるよりも、一人で踏ん張った方が楽な早雪にとって、あれこれと世話を焼こうとする琥太郎は正直、ありがた迷惑だった。


 けれど気付けば二人で笑っていて、妬みも後悔も悩みも、一瞬忘れることが出来た。


 楽しかった。嬉しかった。気が楽で、心が浮き立ち、自分がしばらく全然笑えていなかったことに気付いた。


 そして、琥太郎はこんな風に女の子を笑わせるんだな、とも。


(そう、あんな風に琥太君は――)


 好きな女の子を慰めるのだと。


「さゆちゃん?」


 琥太郎が、早雪よりも二十センチ近く高くなった体を曲げて、早雪の顔を覗き込む。


 早雪はハッとして顔を上げる。

 無意識に、体が一歩後ろに退いていた。


 後ろへ下がった早雪の表情を見て、琥太郎が固まる。

 早雪は琥太郎から目を離すことなく、見つめ続けた。生唾をゴクリと飲み込み、出来る限り口角を上げて口を開く。


「……生姜湯、ちょっと多めに作っちゃったから、琥太君も飲む?」

「――ありがとう。貰うね」

「テーブルに置いとくから。手、洗っておいで」

「うん」


 何でもない顔をして、笑えたはずだ。


 琥太郎と別れると、早雪は台所へ向かった。シンクの上の電気をつける。リビングの電気は落としているため、ここだけスポットライトを当てたようだった。


 手早く生姜湯を温め直してコップに注ぐと、鍋を簡単に洗う。そして、琥太郎がいつも勉強するダイニングテーブルの上にことりと置いた。

 とてもではないがいつものように一緒に飲める気はしなかったため、早雪はすぐに台所から離れようとした。――が、その前に琥太郎が戻ってきた。


「さゆちゃん」


 戸口に立った琥太郎のせいで、早雪は廊下に出られなくなってしまった。いつもならスッと端に寄って避けてくれるのに、今の琥太郎は頑なに動こうとしない。


(背……めちゃくちゃ高くなってる)


 押しのけても、もしかしたらぴくりとも動かないかもしれない。琥太郎の顔を見ていられずに、早雪はふいっと目線を落とした。


「――気付いちゃったんだ」


 ひゅっ、と早雪の喉が鳴る。


 琥太郎の声は、喜びとも落胆ともとれない――事実をただ事実であると突きつけるためだけの、平坦なものだった。


「……ねえ、さゆちゃん。俺ね――」


 琥太郎の手が早雪の手の甲に触れた。

 その瞬間、熱い鍋に触れたかのように、早雪は反射的に、勢いよく手を引いていた。


(あっ……)


 あまりにもわかりやすく拒絶してしまった。

 琥太郎を見れば、眉根を寄せ、痛みを堪えるような表情で早雪を見つめている。


 ズクリと早雪の胸が痛む。


 早雪は、先ほどの行動が不自然に見えないように、琥太郎を振りほどいた手で自分の前髪に触れた。


「今日はもう遅いから、お姉ちゃん・・・・・は部屋で休むね。琥太君も、あんまり遅くなりすぎないように」


 初めて自分で「お姉ちゃん」という言葉を使った早雪は、琥太郎を振り返りもせずに慌ただしく階段を上る。


 自分の部屋に駆け込んで、ドアを閉めた。

 ドアに背をあて、ずるずるとしゃがみ込む。


「……やってしまった」


 からからに渇いた喉から絞り出した声は、後悔に濡れていた。





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