21:内緒の交渉


 自分の甘さを突きつけられることが好きな人間など、いないだろう。


「……はぁ」


 それも、人に忠告されていたことなら尚更である。


 午後三時も過ぎた頃、職場のスタッフルームでお昼ご飯のおにぎりを掻き込みながら、早雪はこの数日で何度目になるかわからないため息をついていた。


(好かれてる自信はあったけど……)


 まさかそういう意味で琥太郎に好かれているなんて、考えたことすら早雪にはなかった。

 早雪にとって琥太郎はまだ、中古の軽自動車の中で頼りなさげに眉毛を下げていた中学生という印象が強かったからだ。


(よりにもよって、こんなん好きにならんでも――もう選び放題やろうに……)


 確かに身近な異性には憧れるかもしれないが、駄目なところもだらけたところも散々見られている。その上、姉だ。それでもなお、年上というフィルターは分厚いのだろうか。


 あれから三日が経つ。

 その間、琥太郎とはほとんど会話をしていない。

 顔を合わせる度に、琥太郎が何か話しかけたそうにしているのには気付いていたが、両親のいるところであの話題を持ち出されては堪らないと、早雪が彼を避けていた。


「西さーん!」


「はい!」


 先輩スタイリストが呼べば、休憩中でも関係ない。早雪は口に放り込んでいたおにぎりを慌てて飲み込むと、口周りだけサッと確認してフロアに飛び出した。




***




「あんた家出るの?」


 リビングのソファーに寝転び、スマートフォンで賃貸サイトを見ていると、典子が声をかけてきた。


「……出ようかな、って思って見てたんやけど……家賃ってこんな高いんだね……」

 ママ捨てないで。と典子にしがみつくと、「捨てやしないわよ」とカラカラ笑った。


「悩み事なら言いなさいよ。世の中、どーにもならないことなんてないんだから」


 早雪をひっぺがし、母が台所へ向かう。引っぺがされた早雪は、そのままバタンとソファーに倒れ込んだ。


(言えないよ……義理の弟に好かれてるなんて)


 一番隠し通さねばならない相手だ。早雪はソファーの座面に肘をつくと、曲げた足をぶらぶらさせながら、台所にいる母に向かって大きな声で尋ねる。


「ねぇーおかあさーん。敷金礼金って何?」

「家出るのは考えた方がいいんじゃない?」


 ――ドサッ


 笑いながら言う母の言葉に被さるように、廊下から荷物が床に落ちる音がした。


 早雪はぐるりと首を回す。開け放たれたリビングドアに、顔を蒼白させた琥太郎が立っていた。


「あれ? 琥太君、今日塾は――?」


「今日は早めに――そ、それより、さゆちゃん! 出て行くの!?」


 早雪と典子の会話を聞いていたらしい琥太郎が、大慌てで早雪に駆け寄ってきた。

 だらしなくソファーに横になっていた早雪の前に項垂れる。


「ごめんなさい」


 そして、秒で謝った。


「さゆちゃん、ごめんなさい。もう我が儘言わないから、いい弟になるから――出て行くなんて言わないで」


 琥太郎が必死に、沈痛な面持ちで言う。


「……」

「……」

「……」


 沈黙が重なる。早雪は試すようにじっと琥太郎を見つめ、琥太郎はそれに応えるように見つめ返している。


「もう我が儘言わない」「いい弟になる」この二つの言葉が意味するところは、一つだ。


「何よ早雪。あんた、琥太ちゃんと喧嘩したから出て行くなんて言ってたの?」


「――………………うん」


 早雪は頷いた。「喧嘩」だと頷いた時点で、琥太郎にどう返事をするのかは、もう決めたようなものだった。


「大人げないわねえ」

「大人げないんですーぅ。琥太君、ちょっと」


 ソファーから立ち上がり、すぐ側の掃き出し窓を開ける。縁側に出た早雪は、琥太郎を振り返る。琥太郎は叱られた子どものような顔をして付いてきていた。

 窓を閉め、母がこちらを見ていないことを確認して、早雪は琥太郎を覗き込んだ。


「琥太君、さっきの本当?」


「本当」


「ちゃんと、出来る?」


「出来る」


 早雪がとったこともない満点を取るような子とは到底思えない、たどたどしい返事。


(あの琥太君が、こんなに余裕なくすなんて……)


 クラスメイトにはぶられても、いわれのない悪口で傷つけられても、毅然と前を向いていた琥太郎が、たかが早雪の言動一つでこれほどまでに追い詰められている。


 早雪は表情をゆるゆると緩めて、苦笑した。


「約束ね」

「うん」


 琥太郎がしっかりと早雪を見つめたまま頷く。

 早雪の期待に応えたいという気持ちが琥太郎から伝わってきて、早雪は直視出来ずに視線を逸らした。


(私なんてそんな、いいもんやないよ……)


 年上に憧れる琥太郎の気持ちは、わからないでもない。


(でも、琥太君がいつか同じ年になったら、きっとわかる)


 たかだか四年早く生きていたところで、別に本当に、たいしたことはないのだ。


(余裕で勉強はわかんないし、同期への嫉妬で苦しいし、お客さんと接すのは早くも失敗ばっかやし、貯金はないし、毎日壁にぶち当たってる)


 琥太郎が気を許した笑みを浮かべてくれることで癒やされて、琥太郎が慕ってくれる度に、少しは人の役に立てているように思えて安堵しているような――そして、そのせいで琥太郎の恋心を弄んでしまった――しょうもない人間だ。


『あんたが年上なんだから、ちゃんと気をつけてあげなさい』


 母の言葉を思い出す。

 自分の認識が甘すぎた。


(堂々としてるくせに素直で、人に興味がないくせに私には心を開いてくれてる琥太君が……つい、可愛くて、可愛くて)


 琥太郎がどう感じるかなんて二の次にして、自分の欲望を優先した。可愛かった。可愛いければ可愛いだけ、可愛がりすぎてしまった。


 早雪が片手で顔を覆って落ち込んでいると「――それで」と、琥太郎が神妙な声で語りかけてくる。


 ゆっくりと早雪が顔をあげると、真剣な顔をした琥太郎が真っ直ぐにこちらを見ていた。


「どこまでならいいの?」

「え?」

「さゆちゃんの定める弟は、どこまでなら許されるの?」


 先ほどまでのしょぼくれた顔をどこへやったのか、叱られた子どもから一転。琥太郎がギラリと鈍く瞳を光らせる。


 琥太郎の気持ちを如実に移した瞳にたじろいで、早雪は大慌てで琥太郎から眼鏡を奪い、彼の目を片手で覆った。


「その目は駄目!」

「目……?」


 あんなに早雪を求めた目をしていたくせに、無意識だったとでもいうのか。琥太郎は心底不思議そうに呟いた。


 琥太郎は、いつでも早雪にされるがままだ。早雪が覆っている手を、払いのけようとも、触れようともしない。弟として許される範囲を聞くまで、早雪に無理強いをしないためだろう。


「……弟なんだし、必要な時は、触ったっていいよ」

「これも?」

「これも」


 早雪の手を指さした琥太郎に頷くと、琥太郎はゆっくりと早雪の手に触れた。元々琥太郎から頻繁に触れてくることはなかったが、琥太郎の好意を意識すると、その指の恭しさに気付き、いたたまれなくなる。


「手を繋ぐのは?」

「アウト」


 そのまま指を絡めそうだった琥太郎の手を、ペイッと払う。早雪の反応は読めていたようで、琥太郎はにこにこと笑っている。


「……琥太君、案外したたかやね」

「さゆちゃんに育てられたから」


 確かに見た目のみならず、女の子といるときの行動も、早雪の理想を語ったことがある。それに、こういう物怖じしない堂々とした部分は、出会った時から好感が持てていた。


 自分好みの見た目をした、憧れの中身を兼ね備えた琥太郎に、早雪はなぜか危機感が募る。自分の不安を払拭するように、強い声で琥太郎に言い聞かせる。


「とにかく、ちゃんとするように」


 半眼で、琥太郎をねめ付けた。


「はーい」


 早雪の視線の強さに焦りが滲んでいることを知っているかのように、ホールドアップした琥太郎はにこにこと返事をした。





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