12:明日から頑張る


「ただいまー」


 春休みも終わり、美容学校も授業が始まった。

 美容学生の証でもある大きく重い黒色のバッグを担いで帰ってきた早雪は、リビングに顔を出した後、洗面所へ向かった。


 洗面所の扉は鍵こそ掛かっていないものの、閉められている。普段開けっぱなしの西家の洗面所の扉が閉まっているということは、中に誰かがいる可能性が高い。


 台所には昭平がいたし、母はまだ店舗にいる時間だ。琥太郎がシャワーでも浴びているのだろう。

 浴室内にいるであろう琥太郎に聞こえるように、早雪は少し強めにドアを叩く。


「琥太くーん? さゆだけど、入ってもいいー?」


 少しの沈黙のあと「どうぞー」とくぐもった声が聞こえる。やはり琥太郎が風呂に入っていたようだ。


 こういう場面に差し掛かる度に、母との二人暮らしとは違うな、と思う。

 ドアを開け、鞄の中からウィッグを取り出す。学校で使っている、首から上だけの毛が生えたマネキンだ。今日の実技の授業中、先生に「ちゃんとトリートメントしてきなさい」と怒られたウィッグの髪は、少しパサついている。最近なぜかワイディング――髪の毛にロッドを巻く作業――に時間がかかると思っていたら、手入れ不足だったようだ。


 あとで一緒に入浴させようと洗濯機の上にウィッグを置き、早雪は手を洗って洗面所から出た。


 スタッフの教育のために今日は帰りが遅くなる典子に変わり、台所には昭平が立っていた。


「昭ちゃん、今日晩ご飯何~?」

 エプロンを着けた父に、意識して大きな声で話かけながら近付く。父といってもやはり血が繋がっていないので、距離感にはかなり気を付けていた。

 大きな身振りで、昭平の背後から鍋の中を覗く。


「簡単なものでごめんね。皿うどんと、卵スープしようかと思って」

「わ。私、どっちも大好き。楽しみ。皿うどんなら大皿いるやろ? お皿出しとこうか?」

「ありがとう」


 食器棚からカレー皿を人数分取り出すために、早雪がしゃがみ込んだ。


「うわっ――!!」


 棚の扉を開け、大皿を取ろうとしていた早雪は、聞こえてきた悲鳴に手を止める。

 そして間を置かず、今度はトコーンという音が響いてきた。


 早雪が慌てて立ち上がると、ちくわを輪切りしながら目をまん丸にしている昭平と目があった。早雪が浴室へ走る。


「琥太君!?」


 洗面所のドアを勢いよく開けると、琥太郎が浴室のドアに体を打ち付けてスッ転んでいた。先ほどの大きな音は、洗面器が転がった音だろう。


「大丈夫!?」


 早雪が駆け込むと、琥太郎はハッとして体を背けた。当然だが、琥太郎は素っ裸だ。

 早雪はなるべく十五歳男子高生の健康的な裸体を目に入れないように気を付けながら、バスタオルを差し出す。バスタオルを手に取った琥太郎は、早雪から体を隠すように身を捩りながらも、腕を伸ばして、一点を指さした。


「な、生首」


 裸眼の琥太郎が指さしたのは、洗濯機だった。

 早雪の後ろから慌てて駆けつけた昭平が、琥太郎の指さした先を見て「ひっ」と悲鳴を飲み込む。


「……ご、ごめん」


 生まれた頃から生首――もといウィッグに囲まれて育っていた早雪は、腰を抜かす琥太郎と昭平にただただ謝ることしか出来なかった。





「さゆちゃんに見られた。もうお嫁に行けない」


 ソファーの上で両膝を抱え、ズーンと落ち込んでいるのは琥太郎だ。膝の間に入れた顔を、先ほどから全く上げてくれない。


 夕食を作り終えた昭平も、ダイニングチェアに座ったまま、どうしようかとこちらを見ていた。


「ごめんね琥太君。誰にも貰ってもらえなかったら、責任取ってさゆちゃんがお嫁さんにしたげるから」


 落ち込む琥太郎の頭を勝手にブローし終えた早雪は、よしよしと頭を撫でてそう言った。

 後ろで昭平が「あっ」という顔をしたが、背を向けていた早雪に見えるはずもない。


「……本当?」


 膝の間からちらりと顔を覗かせ、琥太郎が早雪を見る。ほんの少し開いた天岩戸の隙間に指を突っ込むように、早雪は「うんうん」と何度も首を縦に振った。


「よしよし。琥太君、よしよし」


 頭を撫でる早雪に、そろそろと琥太郎が近付いてくる。そして泣き真似をしながら、早雪をじっとりした目で見つめた。


「約束だからね」

「うんうん」


 なんとか顔を上げた琥太郎にほっとした早雪は、乾かしたばかりのいい匂いがする琥太郎の頭を撫で続ける。


「そんな落ち込まなくても大丈夫だって。まだまだこれからなんやし!」


 琥太郎の体がピシリと強張る。あの短時間で「まだまだこれから」と励ます程度には、琥太郎の体をしっかり見ていたことが伝わってしまったことを察し、早雪は自分の軽率さにまた頭を抱えた。


「さゆちゃん……」

「違う、これはね……」

「俺だって違うから。今日はびびって縮んでたけど本当はもうちょっと――」

「琥太郎! さゆちゃんに何言ってるんだ!」


 琥太郎の自己主張を昭平が慌てて遮る。


「ごめーん。琥太君、本当ごめんねー!」


 よしよしよし、と誤魔化すように頭を撫で続ける早雪に、昭平が恐る恐る声をかけた。


「さゆちゃん。慰めてくれてありがとうね。でもちょっと近すぎないかなって……」

 苦言を呈す昭平を、早雪はきゅるんとした目で見つめた。


「昭ちゃん、姉いた?」

 ごく自然に尋ねる早雪に、昭平も自然に返事をする。

「え? いや」

「なら、任せて。姉と弟ってこういうものやから。これまで弟はいなかったけど、姉に関してはエキスパートやから、私」

「なんで?!」

 自信満々に胸を張る早雪に、昭平が全力でつっこんだ。


 一二美が嘉一を慰めている姿など想像もつかないが、距離感でいえばもっと近い。一二美は今でも平気で嘉一の目の前で着替えるし、平気で嘉一が風呂に入ってる時に浴室に忘れたスマホを取りに行く。


 それで言えば、早雪は琥太郎と血が繋がっていない分、きちんと気を遣っているつもりだ。

 だからこそ、真っ裸の琥太郎に配慮もした。もしこれが一二美だったら、嘉一の裸体をガン見したあと鼻で笑っていてもおかしくない。


「いやでもね、さゆちゃん。この年の男なんて本当頭の中煩悩だらけだから……」


「昭ちゃん。私は女やからわかんないかもやけど、子どもだからわかることもあるよ。そういうのって、親に決めつけられたくないんやないかな……? 思春期なら、余計気を遣ってあげんと」


「はい。その通りです……」


 昭平が肩を落とす。

 琥太郎のトラウマや黒歴史になど、絶対なりたくない早雪は、琥太郎に目線を戻して確認した。


「琥太君は嫌だったら嫌って言えるって、さゆちゃんと約束したもんね?」


「うん」


 早雪に撫でられ続けながら、琥太郎は機嫌良くこくりと頷いた。




***




「早雪、あんた琥太ちゃんとどうにかなるつもりあるの?」


 その日の夜、テーブルにウィッグを金具で取り付け、ワイディングの練習をしていた早雪に、典子が小声で言った。

 夕方の顛末を昭平から聞いたのだろう。


「お母さんまで何言ってんの。あるわけないやろ? 弟なんに」

「でもほら。あんた達に血の繋がりはないわけやし……」

「とはいえ家族やろ。そんなことばっか言われたら、可愛がることも出来んやん」


「じゃあ、家族なこと一旦忘れて。どうにかなるつもり、あるの?」


 あまりにしつこく典子が聞いてくるため、早雪は手を止めた。コームを置き、タイマーを止める。


「タイム計ってたんに」

「ごめんって。琥太ちゃん走りに出かけたから、今のうちにと思って」

「もー。なーにが今のうちになの」


 琥太郎は筋力作りのためにランニングに出かけている。春休みの間は早雪も付き合っていたが、学校が始まってからは足が遠のいていた。


「四つも年下だし、普通にない。知ってるやろ? 私、同じ歳の男としか付き合ったことないよ」

「なら距離感考えなさい。琥太ちゃん顔真っ赤にする時あるやないの。わかってるやろ」

「あれはー……」


 そういう『女性に慣れる練習をしている』とはとても言い出せる空気ではなかった。


 琥太郎の高校デビューは公然の事実なので、あれも高校デビューの一環なのだと伝えればいいのだが――この流れでは、確実に、ものすごく怒られるからだ。


「女に慣れてないからやない?」


 言える範囲でそう伝えれば、典子がため息をつく。


「慣れてないから、ドキッってしちゃうんでしょうが。あんたが年上なんだから、ちゃんと気をつけてあげなさい」

「はーい」


 カーラーに巻いていた輪ゴムを取り除き、挟んでいた紙を一枚ずつ開く。もう一度、計り直しだ。




***




 試練は次の日から始まった。


「見てさゆちゃん。テスト、数学百点やった」


 夕食後、にこにこ笑顔で言ってきた琥太郎に、早雪は大喜びした。


「百点!? 凄い! よくやった! さすが私の弟!」


 すかさずふわふわの琥太郎の頭をよしよししようと手を伸ばす――が、途中で昨夜の典子の言葉を思い出した。


『ちゃんと気をつけてあげなさい』


 そう言われてしまっては、琥太郎が嫌がっていないとはいえ――不用意に撫でるのも憚られる。


 ピタリと体の動きを止めた早雪を、琥太郎が不審がる。


「?」


 首を傾げる琥太郎から一メートルは離れたところで、早雪は拍手を送った。


「すごい! 琥太君! さっすが!」


 パチパチパチ、と早雪が手を叩く。それに合わせて、リビングのソファーに座っていた昭平と、タブレットを開いて仕事をしていた典子も手を叩く。


 何故か家族全員に拍手されるというよくわからない状況に、ひくりと頬を引きつらせた琥太郎が、圧倒されてリビングから立ち去った。思春期には、この仕打ちもあまりよくなかったかもしれない。


(撫でたかった……めちゃくちゃに褒め倒したかった……)


 しょんぼりとした早雪を、昭平と典子がハラハラと見守っていると、立ち去ったはずの琥太郎がリビングに戻ってきた。


「ねえ、さゆちゃん」


「ん?」


 落ち込む顔を四つも年下の弟に見せるわけにもいかない。早雪が笑顔を取り繕うと、琥太郎は眉を八の字に下げた。


「……俺、なんかしちゃった?」

「?」

「さっきの――。よしよし来ると思ったのに、やめられちゃったから」


 早雪は胸を押さえて俯いた。早雪の脳内で、先日クラスメイトに見せられた、SNSでよく使われているという緊急搬送される患者の写真が、をサイレンの音と共に流れる。


「駄目、無理、明日。明日からにしよう。明日から本気出す……」


 何事も始められない意志の弱い人間のお決まりの台詞を口にしながら、早雪はふらふらと琥太郎に近付いた。


「明日から本気出すから……」

「さゆちゃん?」


 ふらふらと、悪鬼のように近付く早雪に、琥太郎が困惑した表情を浮かべる。

 そして琥太郎の頭をガシッと掴んだ早雪は、彼の望みのままに両手を髪の中に突っ込んだ。


「よしよーし。んんん、可愛い、可愛いねえ。琥太君は世界一可愛いねえ」

「??」


 可愛がることを止められないとわかった早雪を、冷めた視線が貫いた。早雪は慌てて振り返り、視線の主――母に言い訳した。


「明日から、明日からまじで本気出すから」

「まあ、お母さんはどっちでもいいけどね。泣かせなさんなよ」

「わーん」


 ドラ工もんのエンディングののぴ太のように情けない声で泣きながらも結局、早雪はその後も琥太郎を甘やかすことを止められなかった。





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