13:やさしさの呪文
「え。琥太君こんなノート綺麗なの? え、こんなとこ一年でやるっけ? え? ――え? 琥太君、頭よくない?」
夜中にたまたま、琥太郎がリビングで勉強しているところを目にした早雪は、ぎょっとして琥太郎の筆記道具を覗き込んだ。
「そういえばこの間も百点って言ってたね……。あれ? あれってもしかして、小テストとかではなく……?」
「う、うん……実力テスト……」
早雪の驚きように、琥太郎は戸惑いつつも頷いた。
どうやら、進学先を近場の公立校に絞っていた琥太郎は、学校内で飛び抜けて成績がいいようだ。
「うっわ、すっご。琥太君頭いいんだねぇ……」
しみじみと呟き、キラキラと輝く目で早雪は琥太郎を見た。琥太郎は真顔で早雪の視線を受け止める。
「っていうか、え? 琥太君、中身もよくて見た目もよくなって、頭もいいとか、どうすんの……? 見合う女の子、あの学校にいる……?」
自分の母校だからと忌憚のない意見を言えば、琥太郎はふはっと眉を下げて笑った。
「見た目も中身も、そんな褒めてくれるのさゆちゃんだけだよ」
「は!? まじで!? もう一人二人告白しにきた女子おるやろ?!」
「いるわけないじゃん」
「えええ! 琥太君の学年、どんだけハードル高いの!?」
早雪が同級生だったら、即行でお友達になりにいったに違いない。唖然とする早雪に、琥太郎は穏やかに言った。
「あ、でも、前みたいな空気じゃないよ。皆、普通に話しかけてきてくれる」
「ほんと? よかった。琥太君も面倒臭がらないで、ちゃんと会話してる?」
「……うん」
「お返事遅いな?」
「ちょっと面倒だな、って思う時もあるけど、ある程度はしてるよ」
「よしよし。女の子には特に優しくするんだよ」
「はーい」
勉強の邪魔にならないように、早雪は台所へ向かった。バイト帰りに買ってきた買い物袋から荷物を取り出し、「あー……」と小さく唸る。
「どうしたの?」
早雪の小さな呻き声を聞き漏らさなかった琥太郎が、ノートを見つめたまま、気楽に尋ねた。
「間違えて、ただの抹茶のティーパック買っちゃった」
「何を買いたかったの?」
「抹茶に玄米も入ってるやつ」
「ああー。一回淹れてくれたやつだ」
「ま、いっか。もう少し玄米入りの残ってるから、そっちと合わせて淹れちゃおう。琥太君も飲む?」
「うん。いただこうかな」
琥太郎の分も淹れるために、早雪は残っていた玄米入りの抹茶のティーパックと、買ってきた抹茶のティーパックを一つずつティーポットに淹れると、お湯を沸かし始めた。
***
「あっ」
台所で小さな声をあげた早雪を、冷蔵庫から牛乳を取り出していた琥太郎が振り返った。
琥太郎がこちらを見たことに気付いた早雪は、呆れた表情を浮かべ、たった今買ってきた商品を見せる。
「また買うの間違えちゃった」
早雪が手にした抹茶のティーパックを見て、琥太郎が眉を下げて「ふふっ」と笑った。
「なんで笑ったし」
「さゆちゃん。それこないだも言ってたなって思って」
「よく覚えてるね……?」
今度こそ玄米入りの抹茶を買ったつもりだったのに、またしても間違えてしまった。
自分に呆れかえっている早雪に、琥太郎が笑顔で言う。
「今度買いに行くときは俺も連れてってよ」
「ついてきてくれる? ありがとう。ごめんね、駄目なさゆちゃんで」
呆れもせず、罵倒もしない琥太郎に早雪は心底癒やされる。この間まで付き合っていた男なら、散々馬鹿にしてくることだろう。
「大丈夫。俺が覚えてるから。それに、駄目なんじゃなくて可愛いさゆちゃんだよ」
「琥太君~!!」
癒やされ度がマックスに到達した。早雪が琥太郎の頭に手を伸ばすと、牛乳を冷蔵庫にしまっていた琥太郎は腰を曲げて、頭を早雪に差し出す。そんな仕草にまた癒やされて、早雪はわしゃわしゃっと、琥太郎の頭を撫でる。
「さゆちゃん今から淹れるの? 俺も飲みたい」
「牛乳やなくていいの?」
「うん」
琥太郎が牛乳をしまったのは、早く抹茶のみのティーパックを使い切るための気遣いだったと早雪が気付いたのは、お茶を淹れ終わったあとだった。
***
「疲れた疲れた疲れた疲れた! お疲れ申した!」
バンッと早雪がリビングの扉を開けたのは、夜も更けた頃だった。
「ママなんかもーっと疲れてるわよー! 朝から朝練の面倒見てあげて、お客様の対応して、お店閉めた後もスタッフの教育してー!」
「わーん! 家の中でまで頭下げさせないでよー!」
学校指定の黒バッグをリビングの隅にポイと放り投げた早雪は、「琥太くーん!」とダイニングテーブルで勉強をしている琥太郎に駆け寄った。
「立って!」
眼鏡を外して勉強をしていた琥太郎は、眼鏡をかけつつ従順に立ち上がる。
「復唱して!」
「復唱」
「疲れたの? なでなでする?」
「……疲れたの? なでなでする?」
「するぅ!」
早雪は琥太郎に近付くと、琥太郎が後頭部を撫でやすいように自分の額を琥太郎の胸に埋めた。
一瞬、体を強張らせた琥太郎は、一呼吸するとゆっくりと早雪の頭を撫で始める。
「よしよし、お疲れ様」
「はああぁあ……疲れた……」
癒やされる。と早雪は琥太郎の胸に額をぐりぐりと押し付けながら、泣きべそをかいていた。
暦が進み、早雪は冬に行われる国家試験の対策に追われていた。
ワインディングのタイムを縮めることが出来ず、家にいる間もずっとウィッグを睨み付けて生活していた。食事中もウィッグを隣に置く早雪を典子は放任しているが、昭平は傍目に見るほど心配している。
さらに、勢いついて参加自由のコンテストにも参加してしまったため、そちらにも時間を割かねばならなかった。
バイトや国家試験の練習や、学校の試験に追われる中、限られた時間を使って、コンテストのグループメンバーで集まっている。――のだが、決められたことをやって来る人間とやって来ない人間でいえば、やってこない人間の方が圧倒的に多いグループだったため、作業の進行が遅れに遅れている。もう一人の最低限はノルマをこなす友人と共に、いつの間にかまとめ役のようになってしまっていた。
「ええん。頑張るから頑張れって言ってー」
「さゆちゃんはよく頑張ってるよ。いつも凄いなって思ってる。俺ももう少し勉強するから、一緒にやろ? 今日はウィッグで勉強するの? 座って勉強するの?」
「うっ……学科にする……琥太君の横座る……」
「可愛い色のペン買ったんじゃなかった? それ使って元気だそ。お茶も淹れよっか。なにがいい? 新しく買ってたフルーツティー? ココアでもいいよ」
「疲れてるからココアがいいー。いっぱい練ってー」
「うん」
よしよし、と最後に早雪の頭を撫でた琥太郎は、早雪を椅子に座らせ、台所へ向かった。
早雪はエプロンを着ける琥太郎を、厳選した角度から撮影する。暖色の間接照明もついているため、雰囲気はバッチリだ。絞り値や色味をいい感じに調整してInstagramに投げると、すぐにいいねとコメントが飛んできた。
琥太郎の写真は投稿する度にいいね数がのび、早雪のフォロワーは春とは比べものにならなくなっていた。
Instagramで繋がっている美容学校の友人らから、作品の撮影やコンテストに琥太郎を貸してくれないかと再三頼まれているが、琥太郎を好きにしていいのは姉である早雪の特権なため、全て断っている。一度かかわると、優しい琥太郎は断り切れず、あれもこれもと引き受けてしまうかもしれない。
写真の琥太郎と、台所に立つ琥太郎を見比べ、実物に癒やされると、のそのそと移動して放り投げていた黒バッグから教科書を取り出した。
そして、琥太郎がココアを淹れて持ってきてくれるまで、思う存分テーブルにべったりとへばりついていた。
***
――そして後日。
「琥太君」
「うん?」
「抹茶のティーパックに混ぜようと思って、通販で玄米茶のみのティーパックを頼んだんだけど」
「! ふっ……うん……」
「今度は、元々買いたかった玄米入りの抹茶を買っちゃってた……どうしよう、玄米の比率が足りない……」
「っ……さゆちゃん、可愛すぎでしょ……」
震える琥太郎とともに、早雪はしばらくの間、玄米の味の薄い玄米入り抹茶を飲むことになった。
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