12:男を喜ばせる方法


「――あ、噂をすれば。来たって」


 テーブルの天板に置いていたスマホを見た亜珠美が、椅子の背もたれに手をつき、後ろを振り返った。

 店のガラス戸の前で店員に話しかけられていた髪の長い女性が、亜珠美に向かって手を振り、店員に頭を下げる。


「遅れちゃって、ごめんなさい」


 足早にやってきた女性が首を傾げると、耳に下がった大きなピアスがバルの天井からぶら下がった黄色いライトにキラリと光った。綺麗だな、と思ってピアスを見つめていると、女性の顔が引きつる。


「……橘、ちゃん?」

「え?」


 ぼんやりと女性を見つめていた心は、綺麗に口紅が塗られた彼女の口から漏れた自分の名前に驚く。


「……あっ!」


 彼女が誰かを思い出し、心は驚いた。


「小堀、さん」


 彼女は高校の時、嘉一と仲の良かった女子だった。


 心が直接会話をしたことがあるのは数回。けれどその数回だけでも、彼女のことはよく印象に残っていた。


「覚えててもらえたんだ。嬉しい。久しぶりやね」


 彼女の笑顔は好意的なものに感じた。もしくは、そう見せたいのかもしれない。高校の時の軋轢は水に流そうとしている小堀の意図を汲み取り、心もにっこりと笑って「久しぶり~」と告げるに留めた。


「なん、知り合いやった?」

「高校の同級生」

 意外そうな顔をする亜珠美に、小堀が如才なく告げる。心はうんうんと頷いた。小堀はバッグを足下のカゴに入れると、心の隣にとすんと腰掛ける。


「橘ちゃん、今日はそれだけで足りるの?」

「うん~美味しいから。味わっていただいてるよ~」


 小堀とは、嘉一が毎週作ってくれていた弁当について話したこともある。弁当のサイズも知っていた。

 厚意か好奇心か嫌味か悩むところだが、心は考えないことにした。嫌なことを見ないのは得意だ。


「どれが美味しい?」

「このアヒージョ美味しかったよぉ。食べて食べて~」


 テーブルの上に並んでいるのは、シェアを前提に作られている料理ばかりだった。小堀は近付いてきた店員にドリンクを頼むと、料理には手も着けずに、男性との会話に混じった。


「走って来たから、喉カラカラ」

「ビール飲むんや。女の子なんに珍しいね」

「いやいや、古くないです? 女子でも普通に一気です」

 小堀が初対面の男性とも難なく会話を始める。


「心ちゃんって、人見知りなんかなーって思ってたけど、もしかして男が苦手?」

 亜珠美の彼氏に話しかけられ、心は「はい」と小さく頷いた。


 何故わかったのだろうかと思案顔を浮かべた心に「そんな付き合いなかったっぽい小堀ちゃんとはぁ、普通に話してるから~」と、亜珠美の彼氏は心の口調を真似して説明した。


 亜珠美の彼氏だからと、普通に話していたつもりだった心は申し訳なくなる。


「なんで苦手なん?」

「からかわれることが多くってぇ……」

「お前のせいじゃん」

「ごめんねー。こいつがさつだけど根はいい奴だからさー」


 先ほど心の口調をからかった亜珠美の彼氏が、両隣の友人から背を叩かれる。

「根はいい奴」という暴虐非道な免罪符を、心はこれまでの人生で百億回は聞いた。


「そぉなんですね~」

 正直、亜珠美にさえ優しければ自分に「いい奴」をしてもらわずとも、全く関係がない。明日には――どころか、あと数時間後には、他人になる関係性だ。


「心ちゃんが可愛いからからかわれるんやない?」


 たとえそうだとして、それがなんの得になるのか。


「ありがとうございます~」


 ぬるくなったレモンビールをぐいっと呷った。

 ザルな心にとって、ビールのぬるさなどどうでもいいことだ。この一口も、美味しいかどうかは問題ではない。ただ、この場にいるのに必要な切符というだけ。


「なら今日はちょっと慣れてよ。男のこと、少しは教えてやれると思うし」


 蓮斗れんとと名乗った亜珠美の彼氏の友達は、なるほど悪い人間ではないようだ。心の目がキラリと輝いたのを見逃さなかったのか、蓮斗は愉快そうに目を細める。


「何? 聞きたいことある?」

「……男の子って、何したら喜んでくれるんですかぁ?」


(嘉一君に、もっと喜んでもらいたい)


 最近の関心事を思い出した心は、ビールのグラスを置くとテーブルに身を乗り出して聞いた。


「え? そういう方向? えっちな話でもいいん?」

「それはよくないです~」

「駄目かー。普通に手料理とか?」


(料理。作ってる)


 ふふん、と心は小皿の中のオリーブをつついた。


「あとはぁ?」

「ベタやけど、格好いいとは言われたいねー」


(言ってる)


 心は更にどや顔を浮かべ、バケットをもぐもぐする。


「あとはぁ?」

「んー。なんかしてやったこととか、覚えてもらってたり、褒めてもらえると嬉しいよな」


(覚えてる。褒めてる)


 もぐもぐと肉を噛みながら、目線で次を促す心に、蓮斗は楽しそうに返事をする。


「あとはー、体褒められるのもめっちゃ嬉しい」

「体ぁ?」

「そう。筋肉見る?」

「え……いーですぅ。遠慮しますぅ」


 心が若干顔を引きつらせると、蓮斗は何故か顔を輝かせた。変な趣味を持っている人かもしれない。心は彼に対して静かに心の距離を広げた。


(体を褒めるってのは、やったことがなかったかも)


 テーブルの上に置いていたスマホが、ブブブと揺れる。今まで話していた蓮斗に目線で告げると、スマホを手に取ってパスコードを打った。


「ていうか橘ちゃん、喜んでもらいたい男がいるんだー。今着たLINEもその男なん?」


 小堀が笑顔で心に問う。先ほどまでよりずっと好意的な笑顔が嬉しくて、心は微笑んだ。


「うん~」

「えー。何、心ちゃん、男いんのー? 俺にしてほしいこと言っちゃったわ」


 蓮斗は「ショックー」と項垂れつつも、さほどショックは受けていないようだった。こういうノリが初めてな心は、どう反応をしていいかわからなくて、ひとまずにこーと笑顔を浮かべておく。


「いやー心のは男っていうか……」


 亜珠美がビールを飲みながら面白くなさそうな顔を浮かべていると、反対側に座っていた小堀がひょいと心のスマホを覗き込んだ。


「……嘉一? って、廣井?」


 LINEメッセージを送ってきた嘉一の名前を見た小堀が、目を見開く。


「……は? 嘘でしょ? まだ廣井と連絡取ってんの?」


 唖然としたように小堀が呟いた。


「えー? 小堀ちゃんも知ってんの?」

「修羅場?」


 男性らが笑って会話に加わろうとするが、小堀の厳しい追及の視線は心から外れることはなかった。


「連絡取ってるっていうか、カイチクンは、心のお母さん・・・・だからなー」

「どういうこと?」


 亜珠美はあまり嘉一にいい印象を持っておらず、いつも嘉一を「お母さん」と言って茶化す。亜珠美に、小堀が食いつく。


「お隣さんなの」

「食事の管理されてるんだよね」


 お茶を濁そうとした心を亜珠美が許さなかった。

 何度否定しても亜珠美の価値観では「付き合ってもないくせに束縛する男」となってしまうらしく、嘉一への口調がきつくなる。


「亜珠ちゃん、そんなこ――」

 心が嘉一をフォローしようとした時、小堀が口を開いた。


「……橘ちゃんって、ほんっとに、そうだよね」


 小堀の声は掠れて、震えていた。あまりにも小さかったため、隣にいた心にしか届いていなかったかもしれない。


「廣井に特別扱いされて、当たり前みたいな顔して! 私の方が先に、私の方がずっと、仲良かったのに……! 廣井の優しさに胡座かいてさ……――廣井のこと、考えてやってる? あいつのことなんやと思ってんの?」


 空気が完全に凍った。今まで茶化して聞いていた男性らも、何も話せなくなっている。


「なんだ……って言われてもぉ……」

「答えてよ」


 それを小堀に答える筋合いはなかったが、小堀の視線があまりにも真剣だったため、心は沈黙した。


(嘉一君を、どう思っているか……)


 嘉一は友達で、救世主ヒーローで、お隣さんだ。


 毎日同じ釜で炊いたご飯を食べているが、血の繋がりはないため家族ではない。けれど、当然のように親戚に紹介してもらい、親戚からは受け入れてもらっている。

 

 毎日一緒にYouTudeを見てケラケラ笑いたいし、一緒にご飯も食べたい。友達の話を聞いてほしいし、聞かせてほしい。


 喜んでいたらもっと喜ばせたいし、困ったときには一番に頼って――そして、彼にも頼られる人間になりたいと思える、尊い人。


 到底一つの言葉でなんか、くくれない。

 けれど彼に、あえて言葉を与えるとすれば――


「……特別な、人?」


 五人全員が心を注視していた。あれほど騒がしかった店内が一瞬、なんの偶然かしんと静まった。


 その隙間に、カラロンという店のドアベルの音が入り込む。


「いらっしゃいませ。何名様で――」

「すみません。迎えに来ただけなんで――」


 店内に響くBGMの低いドラムの音に乗って、聞き慣れた声が心のもとまで届いた。


 心がバッと振り返ると、店員の案内を断る嘉一がこちらに気付いた。


「ココ」


 嘉一は足早に歩いてくると、座る心を少しばかり見下ろして、悪人顔で口の端をにやりとつり上げた。


「帰るぞ」


 優しい声がする。

 心の中で、トクンと音が鳴った。


 ――特別な人。


 先ほど自分で口にした言葉が、まさにその通りだったことを実感した。




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