02:どうぞ召し上がれ
「牡蠣、買ってきた」
なんと男は、次の週にやってきた。
陽が落ちないうちにと、夕日が照らす庭で炭の準備をしていた梨央奈のもとに、スーパーマーケットの袋を持ってきたのだ。
牡蠣を焼くために汚れてもいいジャージを身に纏っていた梨央奈は、困惑気味に眉を下げる。
「今日、泰ちゃん家庭教師のバイトの日ですけど……」
「別に泰輝おらんくても焼けるやろ」
泰輝の友人なのに、泰輝がいない日にやってきた意味がわからない。
泰輝がいなくても、勿論牡蠣は焼ける。
なにしろいつも一人で焼いているからだ。
(本当に来た……)
梨央奈は狼狽えた。勿論、自分一人用の準備しかしていない。
点火棒と着火剤を握り、ぽかんと梨央奈は万里を見上げた。そんな梨央奈のもとに、万里はゆったりと近付いてくる。
「火、自分でつけんの?」
男――
「……別に、面白いこととか、ないですけど」
「梨央奈がやってること、普通に面白い」
(名前、知られている。しかも呼び捨て)
家族以外の男の人に呼び捨てなどされたことがない梨央奈は頭をのけぞらせたが、ほぼ初対面の男に言い返すほどの度胸はなく、黙々と火を付ける――ふりをする。
(やばい、緊張する……手動かん……)
しゃがみ込んだ膝の上に両腕を引っかけ、万里はじっと静かにしている。
「……あの。椅子、座ります?」
「あんの?」
「あります」
偶に招かれる母や泰輝のために、梨央奈と同じ椅子を、父が余分に三脚分揃えてくれた。
ただ冬のバーベキューは父母には堪えるようで、二度ほど参加したのを最後に、もうずっと一緒に食べてはいなかった。
倉庫から取り出した椅子は埃を被っていた。パタパタと手で叩いて埃を飛ばす。
吉岡家にはフィットする椅子だが、万里の大きな体を支えられるか、梨央奈は不安になった。
開いた椅子に万里が腰掛ける。長い足を持て余してはいたが、ひとまず座れたのでほっとした。
(……でか)
椅子と椅子の間は十分に距離を空けたつもりだった。しかし万里の足が長いせいで、思っていたよりもずっと近い。更に、梨央奈の前にあるコンロの中を覗こうと万里が体を傾けるので、なおのことだ。
ダウンジャケットに包まれた大きな体は、身長も平均的な泰輝のものとは違い、完全に異性のものである。男性慣れしていない梨央奈はぎょっとして、気付かれないようにじりじりと反対側に逃げた。
(イケメンだ……なんか香水つけてる……最悪……でかい……怖い……服白い……ウェイられたらどうしよう)
面白い返しなど、出来る自信がない。
目を合わせたらおしまいだ。突然ヒップホップバトルをしかけられないよう、梨央奈は俯きがちにせかせかと動いた。
炭に火が入る。万里は興味深そうに梨央奈を観察するだけで、ペラペラと話しかけてくることも、当然、ヒップホップバトルを仕掛けてくることもなかった。
午前中のうちに買っておいた牡蠣を、発泡スチロールから取り出した。万里も近所のスーパーマーケットの袋から牡蠣を取り出す。
「これどうやって焼くん?」
「……」
(え? それ、炭で焼くつもりで持ってきたん……? え、あ。もしかしてウェイ的なボケ……?)
万里が掲げたのは、ビニール袋に水と剥き身の牡蠣を真空状態で詰めたものだった。
梨央奈は呆気にとられた。ちらりと万里を見るものの、彼自身は特にボケたつもりはないらしく、呆気にとられる梨央奈を不思議そうに見ている。
首を傾げるというより、顎を持ち上げた仕草は、泰輝ともクラスメイトとも全く違う。動き一つ一つに余裕があって、放たれ続けるモテのオーラに梨央奈はたじろいだ。
「……あとでアヒージョでもしますか?」
「いいな。あと、肉も買ってきた」
スーパーマーケットの袋から見えていたタッパーは、どうやら肉だったようだ。普通なら喜ぶような値段のステーキ肉である。けれど梨央奈はそれにも喜べなかった。
(肉なんか焼いたら! 匂いが! 負けるやろっ!)
ただでさえ、彼がつけている香水のせいで牡蠣の匂いが堪能できないのではとヒヤヒヤしているのに。梨央奈は心で泣いた。
「こんなんも売ってた」
気だるげな表情に彩り程度の喜色を加え、万里が段ボールのセットを見せつけてくる。用意周到に、茹で卵やサラダチキンまでコンビニのビニール袋の中から取り出してきた。
(燻製セット……駄目だ……牡蠣の匂いは死んだ……)
梨央奈はここで毎週末、バーベキューをしているのではない。牡蠣を焼いているのだ。そのあたりを、この男は完全にはき違えているのだろう。
(なんなん……。そんなん勝手に一人で山行って、イケメンキャンプってチャンネル立ち上げて配信でもすれば……? スキレットでアヒージョして、格好いいレモンとパセリ添えて、肉を岩塩の板で焼いて、チーズの燻製のどアップをぼかして撮ってさ)
いじけた気分で燻製キットの封を開け、説明書を読む。
万里は一緒に覗き込みはするが、手を出すつもりはないようだ。万里の着ている服を汚させたり、燻製の匂いを染み込ませたりするのも怖いと、梨央奈も自分で請け負った。
(今日は諦めよう……)
食べたければ牡蠣を買ってこいと言ったのは梨央奈だ。今日は接待に徹しようと、梨央奈は割り切ることにした。
肉を置き、牡蠣を並べ、無言のままバーベキューは進む。
自らペラペラとしゃべるタイプではないようで、ウェイ勢と何を話せばいいのかわからなかった梨央奈はほっとした。軍手の上にビニール手袋をはめた手で、トングを動かしていれば済む。
角が丸くなった灰色の炭が、透明なとろりとした赤い炎を灯している。パチパチと火花が散る静かな冬の庭で、牡蠣が少しずつ口を開き出す。
ふつふつと汁を噴き出す焼けた牡蠣を手に取ると、梨央奈はテコの要領で牡蠣の蓋を開けた。ステーキナイフで器用に貝柱を剥がし、汁がたっぷり殻に入ったままの牡蠣を、万里の方に差し出す。
牡蠣を差し出した梨央奈を見て、万里は目を細めた。
「ん? いいの?」
「……アヒージョ、あとで私も貰いますから」
「へえ。ありがと」
万里は梨央奈があげた紙皿で牡蠣を受け取ると、牡蠣の殻を素手で掴んだ。「――っち」と言って熱々の殻から万里はすぐに手を離す。
梨央奈は呆気にとられる。まさか「焼きたては熱いので気を付けてください」と言わねばならないとは、思ってもいなかった。
飲み物が入っていたコンビニの袋から、万里は割り箸を取り出すと、牡蠣の身を箸で掬う。
誰が持っていようと、どんな場所だろうと、梨央奈の視線はその柔らかい身に吸い寄せられる。ぷるんとした瑞々しい牡蠣の身が、自らの重みでふるふると震え、白濁した汁を滴らせる。
あまりにも美味しそうで、梨央奈は最初の一粒を万里にあげたことを後悔しそうだった。
万里が牡蠣を口に含む。顎を動かした瞬間、また万里は熱さに顔を顰めたが、すぐに口元を手で覆い、反対の手で梨央奈に親指を立てて見せる。
見守っていた梨央奈は肩の力を抜く。その時に初めて、自分が緊張していたことを知った。家族以外の人間に、自分の焼いた牡蠣を振る舞うのは初めてだったのだ。
緊張を見抜かれてはいないだろうが気恥ずかしくなり、梨央奈は万里から強引に視線を剥がして、コンロに向き直った。
火に照らされた梨央奈の頬は赤い。しかしそのことを、万里がいじってくることはなかった。
梨央奈も自分の分の牡蠣を掴む。炭火でじっくり焼いたため、端の方が色濃くなっている。汁に沈んだ身はぷりっとしていて、口に入れる前から梨央奈の口内に涎が溢れた。そのみずみずしさで梨央奈を誘う牡蠣を、箸でつまんで持ち上げる。
貝柱の方を持つと、反対側が自重で傾いた。その箸にかかる重さは、何よりのご褒美だ。
左手に持った殻から汁を零さないよう、慎重に箸を動かす。顔の近くに持ってくるだけで、牡蠣の香りが倍増した。口を開け、身を食む。汁を纏ったぷりんとした牡蠣が、梨央奈の舌の上でつるりと滑る。
噛むとぷるりとした側が弾け、中からじゅわりと汁が溢れ出した。口内に牡蠣の濃い匂いが広がる。
梨央奈は美味しさにぶるぶると震えながら、鼻で呼吸をした。鼻腔の奥の隅々まで、牡蠣の香りを行き渡らせたかった。
二粒目の牡蠣に手を伸ばす。その時に、じっと梨央奈を見ている男を思い出した。
(そういえば、人がいたんやった……)
完全に忘れてしまっていた梨央奈は、気まずさから次の牡蠣も万里にあげることにした。蓋を開け、汁を零さないように差し出すと、万里も紙皿を突き出してきた。皿に置くと、梨央奈はすぐに万里から視線を外し、網の上を凝視した。
次の牡蠣に取りかからねばならないからだ。
万里の買ってきた剥き牡蠣は、台所でアヒージョにしてきた。アヒージョの入った小さなフライパンは、網の上に置かれている。
牡蠣と肉を焼く傍ら、万里の買ってきた燻製キットもセットする。
無表情のまましゃがみ込んで燻製キットの中のゆで卵やチーズを覗く万里は、そうは見えないが、もしかしたらウキウキしているのかもしれない。
火の近くにいて暑いのか、万里は上着を脱いで腰に巻いていた。
その背中がバーベキューコンロに近くて、梨央奈は注意を促そうと呼びかける。
「……あの――」
口を開いて、正しい名前を知らないことに気付いた。梨央奈が知っているのは「バンリクン」という名前と「キヨ」というあだ名だけ。
万里も気付いたようで、ヤンキー座りをしている万里は、首を捻って梨央奈を振り向く。
「清宮万里」
「清宮さん。もっと私の方に来てください」
万里は梨央奈を怪訝そうに見た。
「……網にはぶつからないよう、気をつけてるけど」
「でも、もっとこっちに……」
「……」
万里が目を細めて梨央奈を見る。今まで、表情の変化は少なくとも、和やかに流れていた空気が、どんどんと冷えていく。
梨央奈を見る万里の目は冷たい。
(え、なんでそんな怒るん……?)
落胆すら感じる視線に、梨央奈は戸惑った。
困惑する梨央奈に折れるように、万里がため息をついて立ち上がる。
その時、網の上で牡蠣が小さく揺れた。その動きを見逃さず、梨央奈は大急ぎで万里の腕を引く。
――バシュッ!
牡蠣が網の上で爆発する。牡蠣はこうして稀に突然爆発し、激しく汁を飛ばすことがあるのだ。
万里は目を白黒させて、網と梨央奈を見比べる。
「汁、かかってませんか!?」
火傷するほどはかかっていないはずだが、そのおしゃれな白いトレーナーに飛沫がついていないとも限らない。梨央奈は顔を青ざめさせる。
「……大丈夫」
「よかった……たまに爆発するんで、網からはなるべく離れておいてください」
梨央奈も椅子はそこそこ距離を置いて設置をしている。
顔はどうしようもないが、長袖の服とゴム手袋は、牡蠣の攻撃から自身を守るためでもある。
万里は梨央奈に「わかった」と返事をした。本当にわかったのかはわからない、感情の読めない顔であった。
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