猫系廣井さんと犬系中田くんの上下関係

01:女神降臨


「こないだ授業参観行った時、一二美ひふみの名前を古いって言ってる子いてさ。名付け、失敗したわー」


 昔からこの地に根ざす廣井家では、折に触れて親戚や近所の者が集まり、宴会が開かれる。


 三間続きの座敷を仕切っていたふすまを外し、ずらりと連なった長テーブルの上には、盛り鉢や舟盛り、またはガスコンロのごとくから運ばれてきたままの鍋が並べられていた。

 ガヤガヤと止まることのない会話の合間に一人、また一人と縁側から近所の人間がやってくる。そのたびに、テーブルの隅に寄せられていたガラスコップにビールを注ぎ、男達が掲げ合う。


 反対に、女は台所と座敷をバタバタと行き来していた。

 やれ「もっと深い皿がほしい」だの「ちょっと刺身、炙ってきて」だの「山下さんはチーズが好きだから出してあげて」だの、男達の注文は尽きることがない。

 また、誰かがやって来る度に魚や野菜を持参してくるため、その対応にも追われた。持ってこられた物は、簡単にでも調理して出さねばならない。


 古くさい風習だが、廣井家は昔からこうだった。母が幼い頃も、祖母が幼い頃もこうだったのだろう。


 男も女もそれぞれに忙しそうにしている中、子どもはそのどちらにも含まれない。


「一二美~。お母さん達に、ビールが足りないって言ってきて」


 と近所の顔馴染みのおじさんに言われ、一二美は台所へと向かった。


 ――その結果、古い日本家屋の廊下は、一二美の足と共に、幼い彼女の心まで冷やすことになった。


「いいじゃない。可愛い名前で」

「古いけどね」

「もう、拗ねないの――」


 一二美は台所から漏れ聞こえる、自分の母と、隣家に住む幼馴染みの母・典子のりこの会話を聞かなかったことにして、そのまま庭に向かった。


『名付け、失敗したわー』


 母同士も気の置けない幼馴染みだからこそ漏れた本音だろう。


 同級生の過半数は、テレビに出てくるアニメのヒロインのように煌びやかな名前だ。

 彼女らに「一二美」という名前を珍しいだの古いだのとからかわれることはままあった。女子とは大人数で少人数を攻撃したくなるものである。


 だが、弱冠七歳にして達観している節のあった一二美は、目もくれなかった。「一二美」という名前を自分は気に入っていたからだ。


 生まれ持った美しさと気高さから、そんな低レベルな戯れ言で人を陥れた気になっている低脳らが哀れだとすら感じていた。


 だから、母からこぼれたあんな一言で、こんなにも戸惑ってしまうだなんて、思ってもいなかった。


 母親のつっけんどんな物言いには慣れているつもりだった。


(今更……)


 家の中からは大人の低い笑い声が漏れ聞こえる。


 庭の池で泳ぐ鯉を覗き込みながら、七歳の一二美は、ぽっかりと穴があいてしまった心の塞ぎ方を考えていた。






[ 彼女と彼の関係 ]


 ~ 猫系廣井さんと犬系中田くんの上下関係 ~






「えっ、女神がいるっ……!」


 自宅でくつろいでいた、大学二年生の初夏。

 雑に髪をまとめ、居間から続く縁側で煙草を吸っていた一二美は、居間に上がり込んできた坊主頭を半眼でねめつけた。


「ヤス、何言って――ひー! 服着ろって!」


 玄関土間から居間に通じる戸口を掴み、ヤスと呼んだ友人に文句を言っていた嘉一は、一二美を見て目を見開く。

 肩も二の腕も太股も出ているが、立派に衣類を身に纏っている身としては、友達がいるからと調子に乗っている弟の暴言を許すわけにはいかない。


「着てんだろ。目ぇ細すぎて見えんのか? 可哀想に。おじいちゃんに整形代出してぇって頼んでやろうか?」

「まじうぜえ」


 極限まで顔を歪めた嘉一が、凄まじい速さで居間を横切る。そして、奥の部屋から持ってきたらしい祖母のカーディガンを、乱暴に一二美に着せようとする。


「暑い! 無理! 殺す気か!」

「なら部屋行っとけよ!」


 嘉一が連れてきた友人は三人ほどいた。その中には、新しく隣の家の一員となったばかりの琥太郎もいる。


「はあ? 私が何処にいるのかを、あんたが決める権利でもあるわけ? 何様?」


 低い声を出して睨み付ければ、嘉一は苦々しい顔をしながらもそれ以上はなにも言わなかった。


「何やってんの、上がれば?」


「お邪魔します」

「お、お邪魔します……」


 男三人に向かって言えば、琥太郎は涼しい顔で、もう一人の男子――拓海は一二美から視線を逸らしつつ、居間に上がる。上がる、という言葉の表現通り、玄関土間から居間まではかなりの段差がある。


 その段差に肘を引っかけ、両手を畳の上についたまま、最後の男子――康久は、目をキラキラとさせて一二美を見ていた。


「まじ美人……かいっちゃんの姉ちゃん? 俺が出会った人間の中で、一番綺麗!!」


「……」


 スリムタイプの煙草と、吸い殻にしていた空き缶を片手で掴むと、僅かに開けていた窓ガラスを閉める。一二美は目を細めて康久を見下ろした。


「わかってんじゃない。嘉一、誰? この頭悪そうな馬鹿」

「意味重複してんぞ」

「させてんのよ」


中田なかた 康久やすひさって言います! かいっちゃんの親友になる予定なんで、また会いに来ていいですか!?」


 嘉一の親友になる理由が下心という白状が気に入り、一二美は「勿論、いらっしゃい」と微笑むと嘉一を振り向いた。


「よかったやん。口の悪さを知られる前に親友が出来て」

「どの口が人のこと言ってんだよ」


 どの口もなにも、この可憐な口である。

 十人いれば十人が美人だと評すであろう美貌を生まれながらに持ちあわせた一二美は、愚弟の戯れ言など取り合うこともせず、康久を見た。


「私の事はひーちゃんと呼びなさい」

「はい! ひーちゃん!」


 康久がにっかにかの満面の笑みを浮かべる。

 満足して頷いた一二美は、部屋の隅で息を殺していた拓海を振り向いた。


「そこのしょうゆ顔も」

「は、はいっ!」


 拓海がぶんぶんと首を縦に振るのを見た一二美は、はんっと鼻で笑う。そしてスカルプネイルのついた細い指先で空き缶を持つと、自室へと戻った。




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