35:世界一の恋人
「あらーあんた達。まーたこんなところで寝て」
ガササッ、とレジ袋がテーブルの上に置かれる音と共に、母の声がした。
窓の向こうからチュンチュンと鳴く鳥の声が聞こえる。立派な朝チュンを迎えた早雪は寝ぼけ眼で目を擦りつつ、ソファーに寄りかかって寝ている琥太郎のすぐ側で体を起こす。
「あれ……お母さん……? 昭ちゃん、おかえり……」
「ただいま。あらま。ひどい顔」
食べたケーキの皿が綺麗に片付けられたリビングテーブルのそばで、法事帰りの典子に顔を覗き込まれ、早雪はハッとして両手で頬を覆った。
「――っやばい! 化粧落としてなかった!」
慌ててソファーから飛び降り、早雪は洗面台に駆ける。クレンジングオイルを浴室からひったくり、洗面台の鏡を覗きだ早雪は「あれ?」と首を傾げた。
「いつものとは違うかもだけど、洗面台にあった拭き取るやつで拭いといたよ」
ふぁあ、とあくびをしながら琥太郎が洗面所にやってきた。
寝起きの掠れた声と、よれた部屋着。方々に跳ねたぼさぼさ頭すら可愛くて、早雪は琥太郎の胸に飛びついた。
予想もしていなかったのか、琥太郎はふらついたものの、大きな手のひらで早雪を支える。
「こ、このスパダリ……っ! 私が育てましたっ……! 皆さん! このスパダリ、私が育てました!」
化粧を落とさずに一晩眠ってしまった恐怖を味わった後で、落とし方に文句などつけられるはずもない。
「さゆちゃん、誰に言ってるの?」
柔らかく笑う琥太郎に「ありがとう」と涙ながらに感謝する。
昨夜、恋人になったばかりの琥太郎とはそれなりに盛り上がったものの、家族が生活するスペースでことに及ぶ罪悪感と、処分するのを忘れていた使いかけのコンドームを潔癖な琥太郎に断固拒否されたため、ひとまずはお流れとなった。
お誕生日の仕切り直しとばかりにケーキを食べ、ソファーでいちゃいちゃとくっついているうちに――急激な精神への負担と、連日の激務に耐えきれず、早雪は寝落ちてしまったようだ。
すよすよソファーで早雪が眠る傍ら、散らかしたテーブルや、早雪の顔面の後片付けを、琥太郎がせっせとしてくれていたらしい。
「さゆちゃんー。出る時間、大丈夫?」
「……大丈夫くない! 昭ちゃんまじ助かった、ありがとう!」
廊下からかけられた声に慌てて、早雪は琥太郎から離れた。昨日の今日で、正式に話も通していないのに、親にこんな姿を見せるのは申し訳無い。
「何やってんのよもう。気ぃ効かせて朝に帰ってきたっていうのに……二人でリビングで寝てるし」
「典ちゃん典ちゃん」
昭平が典子の肩に手を置いて首を横に振るが、早雪には構っている暇はなかった。
出勤までに一秒も猶予がない早雪は、部屋に駆け上り秒で服を着替えると、メイクポーチとマスクを鞄に押し込んで玄関に駆け下りる。今日は顔面の総面積を化粧する時間は、残念なことに残されていない。
「朝ご飯、信号で食べなさいって」
そう言って玄関で靴を履く早雪に琥太郎が持ってきたのは、コンビニで売っている赤飯のおにぎりだった。
「……」
早雪はもの凄く微妙な顔をして受け取る。赤飯と早雪の顔を見た琥太郎が、口元を押さえて震え出す。
余裕の顔で笑っている琥太郎の様子に、早雪は「まさか」と呟いた。
「……琥太君……私達のこと、お母さん達に何か、言ってあった……?」
「勿論。中三の時に」
あっけらかんと言われた言葉に、早雪は頭を抱えた。
やっぱり、琥太郎が何も考えていないはずがなかったのだ。
早雪はどっと脱力する。
(あんなに悩んだのにっ……!)
こんなに簡単に受け入れられるなら、教えておいてほしかった。
(ううん、でも、多分それじゃ私が駄目だった……)
あの苦悩の日々があったからこそ、早雪は選べたのだ。
にこにこと笑っている琥太郎の頬を、早雪はむんずと掴む。
そして、完全に気を抜いている琥太郎を引っ張って、唇を合わせた。
離れ際に、ちろりと琥太郎の下唇を舐めて湿らせる。
「いってきます」
ぱちぱち、と瞬きする琥太郎を放置して、早雪は家を出る。逃げるように車内に滑り込み、エンジンをかけた。
「さゆちゃん、待って! もう一回!」
片方ずつ違うサンダルを履いた琥太郎がダッシュで追いかけてきて、早雪の車のドアをどんどんと叩いた。
「仕事遅れるから! 帰ってから!」
「帰ってからだからね?! 絶対だからね?! 約束したからね!?」
必死の形相で琥太郎が言質を確認する。
一泡吹かせてやったつもりなのに、「いってらっしゃーい!」とにこにこ笑顔で手を振る琥太郎に今日もまた負けながら、早雪は笑ってアクセルを踏み込んだ。
ふれない西さんとふれたい西くんの義姉弟関係
おしまい
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