食べたい橘さんと食べ(させ)たい廣井くんの美味しい関係
01:男なんて
彼は、友達で、
――ピンポーン……
「おはよぉ」
「はよ」
「今日はぁ~卵の入ったお味噌汁にしたいです」
「いいやん。俺好き」
「やったー」
パジャマの上にカーディガンをひっかけていた心は、嘉一が内側から開けている玄関ドアを潜り抜け、慣れた足取りで彼の部屋に上がり込む。
心が両手で持った五合炊きの炊飯器には、炊き立てのご飯がたっぷりと入っている。心はその炊飯器を、嘉一の部屋での定位置であるリビングに入ってすぐの床に置いた。
そして踵を返してシンクへ向かうと、冷蔵庫にかけられている嘉一のエプロンに手を掛ける。
どれほど寝ぼけ眼であっても、すでにモーニングルーティンと化した行動は、脳を動かさなくても出来る。
「今日雨やって」
テレビから聞こえてきた情報を、たたんだ洗濯物をしまっていた嘉一が心に伝える。
嘉一は起き抜けでもしゃっきりとしていて、心が来る頃にはいつもきちんと身支度を調えている。
「あーあぁ。傘持ってかんとねぇ~」
朝起きてからだらだらすることなど、四角四面にキチキチッとしている彼の人生で一度としてなかったに違いない。出かける直前になってバタバタと着替える心とは、何から何まで違う。ちなみに、心にとって嘉一の部屋は「出かける」判定に入らない。
冷蔵庫を開け、残り四個になっている卵を確認し、二つ取る。
「今日バイトやから、帰りに卵のパック買って帰るねぇ」
「おう。一緒にすりゴマとコンソメも買っといて」
「はぁい」
お湯を鍋で沸かしている間に、野菜ストッカーから玉葱を取り出し、千切りにする。
沸騰したお湯に切ったタマネギと豆腐を入れ、顆粒出汁を加える。タマネギに火が通ったら火を止めて味噌を溶き、卵を落として、弱火にすると蓋をした。
心がもたもたと味噌汁を作っている間に、嘉一は配膳を済ませ、茶碗にご飯を盛ってくれていた。普通の成人男性用のお茶碗の嘉一と、その三杯はあるだろうどんぶりの心。
テーブルの隅に置かれているふりかけや佃煮は、両家のお中元やお歳暮からかき集めた戦利品だ。
父の職業柄、橘家もそこそこ貰うのだが、廣井家では
野菜や米や贈答品を貰いに、廣井家にお邪魔させてもらう内に、心は嘉一の家族とも自然と仲良くなっていった。
特に嘉一の姉
「とろろあったっけ」
「あー! いーね。落とし卵ととろろのペア、すーんごい好きぃ」
冷蔵庫の中を探すと、封が開いたとろろ昆布を発見した。サイズが違うそれぞれの器に味噌汁を注ぎ、とろろ昆布をふわりと載せる。
「心は何載せる?」
「あさりの佃煮ー!」
心が言うと、カポンッと、佃煮の瓶の蓋が開く音がした。テーブルに味噌汁を運んだ心と嘉一が、向かい合って座る。
「いただきます」
「いただきまぁす」
嘉一の部屋で手を合わせ、二人で同じ朝食を取る。
高校の食堂で重箱を披露されてから二年――心は短大生に、嘉一は大学生になっていた。
[ 彼女と彼の関係 ]
~ 食べたい橘さんと食べ(させ)たい廣井くんの美味しい関係 ~
嘉一は、出会った時から不思議な人だった。
出会いは高校二年生の時。
心の
待ち合わせ場所の学食に出向いた心は、男子の人数におののいた。彼らはなんと、拓海も合わせて四人もいたのだ。
そして、声が大きかったり、体が大きかったり、愛想が悪かったり、口が悪かったりと、誰も彼もがそれぞれとても男子っぽかった。
嘉一と拓海、そして
心は、男子が苦手だ。
そして廣井嘉一は、心の苦手とする
威圧的でいて荒い口調、吐き捨てるような態度、不機嫌そうな表情。
しかし嘉一の不躾なまでの真っ直ぐな言葉には、驚くほどに棘が含まれてはいなかった。
『カレー一つで足りんの?』
『は? またカレー? 好きなん?』
『お前らが気にしすぎなんだよ。カレーの後にうどん食ってまたカレー食うとか、普通に聞くだろ。気になんねえ奴の方が頭おかしんじゃねえの』
慌てる友人の言葉に耳も貸さず、嘉一は思っていることを思ったまま心と話した。最初は面食らっていた心だったが、気付けば数年ぶりに男子と笑って会話をしていた。
生まれた時から大食いだった心は、母乳を飲み終えた上にミルクまで催促し、母と助産師を困惑させるような乳児だった。
幼稚園のお弁当も、他の園児が蓋に可愛らしい絵の描かれた弁当箱を持ち寄る中、心はシンプルな大人用の弁当箱を持って登園していた。
幼稚園まではアイデンティティを容認されていた心だったが、小学校に上がってからは、そうもいかなくなった。
小学校入学後から、給食の時間が苦痛で仕方なくなった。
出される食事は美味しくとも、量が圧倒的に足りなかったからだ。
親が掛け合っても、病気でないなら一人の生徒にだけ特別の配慮は出来ないと、学校側からは一律の対応をされた。
勿論、心だけ別途に弁当を持参することも出来なかった。
つまり給食の時間は、心にとって腹三部で食事を止めねばならない、飢えの時間であった。
皆と一緒に、心もよく噛んで食べた。けれどどれほど噛んでも、腹が満たされることはない。
そんな心を、男子は心ない言葉でからかった。
『そんな腹減るとか、どっかおかしいんじゃね?』
『それか家で食わせてもらえてねえんだろ』
『あ。泣く、泣くぞ! ほら泣いた~!』
『つか女のくせにそんな食う? 男にモテんぞ』
『心、将来結婚とか絶対出来んわ』
『おかず残ってるから、食いたいやつじゃんけんしようぜー!』
『橘はいっつも先生に貰ってんだからいいやろ』
『ヒイキやしな』
悔しくて悲しくて泣くことしか出来なかった。
中には反論できない言葉もあったが、それを納得するのは小学生の心には難しかった。
心の柔らかな部分に、どうしても男子の悪意が刺さって――胸をえぐる痛みを「痛い」と認識することを止めた頃には、男子に期待することはなくなっていた。
高校に入ってからは、天国だった。
小中学校とは違い、全員で食事をとらなくていい。それから、各自で昼食を用意出来る環境も、ただただありがたかった。
小中学校時代の心がどれほど学校で我慢を重ねてきたのか知っている両親は、心に「遠慮しないで好きなもの食べなさい」とお昼ご飯代をいつも多めに渡してくれる。
とはいえ、遠慮はあった。だから心はいつも、学食の中で一番安い、カレー二杯とうどん一杯を食べていた。毎日同じメニューで飽きる――なんてことよりも、腹を満たすことが最優先だった。
腹が満たされれば、大抵のことは我慢出来た。
偶に送られる奇異の視線も、偶然かち合った友人のいじりも、腫れ物に触るようなクラスメイトの対応も、笑って躱せた。
男子は苦手だった。
ご飯は食べたかった。
メニューは問わなかった。
後ろめたさを感じたくなかった。
誰にも文句を言われたくなかった。
自分のせいで友達に肩身の狭い思いをしてほしくなかった。
親にも申し訳なかった。
気にしないでいたかった。
我慢を我慢と思わないように自分に言い聞かせていた。
だから――
『週に一回でいいから、俺に弁当作らせてくんない?』
だから、こんな言葉を言ってもらえる日がくるなんて、心は想像してもいなかった。
――嘉一からの、突然の弁当作りの申し出を、最初は冗談だと思っていた。
まさかそんなことを言ってくる男子がいるなんて、思ってもいなかったからだ。
その上、心と嘉一はたった一回、成り行きで食事を共にしただけの仲でしかない。
しかも心は、嘉一個人とご飯を食べたかったのではない。
幼馴染みであり親友でもある夏帆の恋人
これからの心の人生にかかわりのある人として、心は端から嘉一をカウントしていなかった。
そんな嘉一が次の日――本当にお弁当を作って来たと夏帆づてに連絡がきた時には、驚きすぎて椅子から転げ落ちてしまった。
半信半疑で食堂へ行けば、立派な風呂敷に包まれた重箱がドンッとテーブルの上に鎮座していて、言葉も忘れて見入ってしまった。重箱は光り輝いて見えたし、苦手でしかなかった男子の枠を飛び越えてこちらにやってきた嘉一は、
(この人、とんでもない人だ)
この時の心の感想は間違っていなかったことを、その後二年をかけて嘉一は証明した。
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