18:十七歳に出来ること


 弟になってしまったせいで恋愛対象に入れてもらえない。

 けれど、弟になったからこそ、彼女を好きになった。




***




「さゆちゃーん。デートしてー」


 大きな体を折りたたみ、琥太郎は立てた両膝に両手を乗せて、小首を傾げた。塾から帰ってきた琥太郎はシャワーを浴びたばかりで、ゆったりとしたTシャツの袖から、ほんのりと焼けた二の腕が覗く。


 琥太郎の目線の先には、ソファーの座面に顔を埋めて横になっている早雪がいる。


「さゆちゃん、デートする気分じゃなーい」


 三十分前からずっとリビングのソファーにいる早雪は、この三十分間微塵も動いていない。まるで屍だ。


 早雪は往来活動的な女性で、連絡一つあればホイホイッと外に出かけていく。フットワークが軽く、朝出かけて昼に帰ってきても、夜からまた違う人間と出かけることもあった。


 そんな早雪が、だるんとソファーに寝転がり、スマホが鳴っているのも全て無視している。うつ伏せているため寝ているのかとも思ったが、琥太郎に返事をしたと言うことは起きているのだろう。


「どーしてもしたーい。お願ーい」


 普段これといった我が儘を言わない琥太郎がしぶとく粘ったからか、早雪はソファーに埋めていた顔を動かし、ゆっくりとこちらを向いた。


「どこ行きたいの?」

「コンビニ」

「はあ」


 ため息をついた早雪はのそのそと立ち上がると、壁にかけてある車のキーに手を伸ばした。琥太郎は早雪の背後に立ち、肩の隙間から顔を覗かせる。


「さゆちゃん。歩いて行こうよ」





「ほら、好きなの入れて」


 夏は夜とは言ったもので、昼間どれほど暑くても、夕方を過ぎれば散歩も苦ではない。虫の鳴き声を聞きながら、夏の夜道を二人でとぼとぼ歩いてやってきた。

 コンビニのカゴを持ち、琥太郎は早雪の好きなデザート類をカゴに入れまくる。


「食べ放題しよ」


 お盆にお小遣いもらったんだ。と続けると、早雪の眉毛がへにょりと下がった。


「こんないっぱい、食べ切れんよ」

「賞味期限長いのもあるし、ゆっくり食べたらいいじゃん」


 これは? と早雪の好きそうなデザートを彼女に見せる。早雪はいつもよりもずっと緩慢な動きで、琥太郎の指さすデザートに首を横に振ったり縦に振ったりして、一つずつ選んでいった。


 早雪の好きな乾き物も籠に入れた。レジへ向かいがてらアイスコーナーへ寄って、帰り道に食べるアイスを一つずつカゴに入れた。


「さゆちゃん! これ!」


 いいものを見つけた琥太郎は、ぺかーっと笑顔を輝かせ、自動ドア付近に並べられていた花火の詰め合わせセットを早雪に掲げた。

 早雪は仕方ないなという風に「一番大きいのね」と琥太郎に笑みを向けて、丁度客が並んでなかったレジにをカゴに置く。


「今日はデートだから、俺が払います」


 当たり前のように財布を取り出そうとした早雪に、にこりと笑って琥太郎は言った。


「いいって」

「もしここで払わせてくれなかったら、今度から俺、さゆちゃんをトイレに押し込んで、レジにダッシュしないといけなくなっちゃうけど」


 渋っていた早雪は「何それ」と笑ったものの、レジの前を譲ってくれた。琥太郎の入学祝いに行った焼き肉屋で、デートでの支払い方法について琥太郎と話したことなんか、きっと早雪は忘れているのだろう。


 コンビニの袋いっぱいにデザートを買って、二人でアイスを食べながら来た道を歩いて帰る。


 生ぬるい長い風が、田んぼの上をぐうんと吹き抜けていく。さわさわともしゃりしゃりとも聞こえる音を立て、夜の風に夏の稲が揺れる。


 早雪は化粧もしていないし、髪の毛もまとめていないし、服も適当だ。外に出る時は必ずパリッと身支度を整える早雪らしからぬ格好である。

 いつもよりもずっと、早雪はぼんやりとしている。無心にアイスのコーンを齧る早雪が、闇の広がった空を見上げててくてくと歩く。


「あの星綺麗」

「夏の大三角だね」

「あれがかー。琥太君、なんでも知ってるなあ」

「もしさゆちゃんと夜にデートしたら、すぐに答えられるように勉強しておいたから」

「さすがうちの琥太君」


 互いに上を向いて歩いているせいで、早雪の肩が触れそうなほど近い。バニラアイスに包まれた果汁ソースの甘みを感じながら、琥太郎は真っ直ぐに歩いた。





 家に帰り、琥太郎がコンビニの袋の中身を一つずつ取り出して冷蔵庫に入れている間に、早雪はロウソクとライターを用意し、バケツに水を入れて待っていた。

 リビングで映画を見ていた昭平と典子に、土産のうまい棒を一本ずつ渡す。


「さゆちゃんと庭で花火してくんね」

「火には気をつけなさいよー」

「はーい」


 いつもなら隣の廣井家にも声をかけるが、今日は声をかけなかった。縁側に座り、ぽつんと一人で待っていた早雪のもとに慌てて駆け寄る。


 ブロックで風避けを作り、火のついたロウソクを傾けて蝋を垂らす。溶けた蝋にロウソクを立てて固定すると、花火を近づけた。


 ――……シュワー バチチッ バチバチバチッ


 勢いよく音が鳴り、花火の先端から閃光が飛び散る。庭に白っぽい煙と、火薬の匂いが立ち込める。


「あはっ」


 花火を見た早雪のテンションが僅かに上がる。


「次どれする?」

「これ強そう。一本あげる」

「やったー。ねえ、さゆちゃん。これ何? 猫のフン?」

「フンて、小学生か。それ、うにょうにょ動くよ。しかもたいした見所もなく終わる」

「まじか」


 興味をそそられ、パッケージを開けて蛇花火に火を付ける。早雪の言う通り、ものすごく地味に終わった。それに二人で受けて、また笑う。


 縁側に早雪が座る。ライターで噴出花火の導火線に火を付けた琥太郎は、素早く走って噴き出し始めた火から逃れた。


「ふぃーっ」


 早雪の隣にドカリと座る。庭を囲む塀ブロックほどの高さまで、勢いよく噴き出す火の粉を並んで見つめる。


 ムンとした湿気が漂う夏の夜。頭の中でこだまするほどうるさい蛙や鳩の鳴き声も、花火の火花の煌めきにかすむ。


「琥太君」

「うん?」

「ありがとうね」


 花火を見つめたままの早雪の横顔が、炎で照らされる。花火よりも余程綺麗で、琥太郎は真っ直ぐ見つめることが出来なかった。


 ――春から美容室で働き始めた早雪は、どんどんと元気がなくなっていった。夏に入る頃には、目に見えて落ち込む姿が多くなった。


 琥太郎は頼る気にもならないほど年下で、頼りになるはずの父親は出来たばかりの新設で、なんでも話し合えていたはずの典子は美容師の先輩になってしまった。


 典子は早雪を娘として労っているが、「アシスタントの頃なんて皆こんなもんよ。よくしてもらってるんだから、きばんなさい」と美容師としては一貫して割り切っている。愚痴を言える環境ではなくなっていたのだろう。


 ここ最近の早雪は、仕事がある日は朝から夜遅くまで働き、家には寝るために帰ってきているようなものだった。休日ものんびりと過ごしているとは言い難く、隣の店舗を使って練習をしたり、講習会に出かけたりすることが多い。


 琥太郎の髪を切ることだけは練習を兼ねているからか止めなかったが、あれほど楽しそうにしていた琥太郎のブローの時間も、完全になくなっていた。


「俺がしたかったんだよ」


 出した声は、ありがたいことに震えなかった。


 琥太郎に出来るのはこんなことだけだ。


 どれだけ背が伸びても、どれだけ勉強しても、どれだけ見た目を変えてもらっても、どれだけ学校で騒がれていても、自分がただの十七歳の子どもなのだと思い知らされる。


 だというのに、


「琥太君は凄いなあ」


 何も出来ない歯がゆさを感じていた琥太郎は、早雪の言葉の意味がわからずに首を傾げた。


「会った時から思ってたけど――なんていうかね、大きい」


 早雪が琥太郎の肩に、こてんと首を置いた。瞬時に意識が左肩に集中する。じりじりと花火で炙られているかのように左肩が熱くなる。早雪の触れた場所から、痺れが広がる。


 夏の土の匂いに硝煙の匂いが混ざった空気を、肺に浅く取り入れては吐き出す。すぐそばにいる早雪に、呼吸の音が聞こえていそうで焦る。自分の汗の匂いが鼻につき始めた。


「そう思ってもらえたなら、俺的にはラッキーだなぁ」


 四つも年下で、戸籍上は弟。

 早雪にとって琥太郎は、端から弱音を吐ける対象ではない。


(そんなやつに「俺を頼って」だなんて言われても、きっとさゆちゃんが困るだけだって、思ったから)


 悩んでいることの解決は、きっと琥太郎には出来ない。

 美容師としても、社会人としても、アドバイスなんて出来ない。


 だから琥太郎は、早雪を笑わせることにした。

 少しでも楽しい時間を過ごしてほしいと、心から願って。


「私ねぇ」


 早雪が口を開く度に、琥太郎の左肩が僅かに揺れる。早雪の声は沈んでいて、ぽつりぽつりと語る言葉は弱々しい。


「小さな頃からずっとお母さんを見てたし、知ってたつもりだったんだよ。美容師が大変なこと。学校でも他の子よりずっと出来てたし……でも、そんなの学校の中だけだったんだよね」


 早雪が立ち上がる。今まで早雪が触れていた左肩が、すっと冷えた。

 庭に置かれた火の消えた花火の筒の周りには、まだ煙が広がっている。


「――でもね、大丈夫なんだよ。琥太君」


 細い指で花火の筒を拾った早雪がバケツの中に投げ入れると、ジュッと水が染みる音がした。


「きつくったって悔しくったってへこたれたって、頑張れるの。私には、世界一のおまもりがあるから」


「おまもり?」


「うん」


 早雪が縁側に戻ってきて、花火の束の中から線香花火を選ぶ。窓ガラス越しの明かりで照らしながら、花火をまとめていたテープを解く。


 琥太郎も渡され、火のそばへ移動する。火に炙られ続けていたロウソクは、半分ほどの背になっていた。


「おまもりってどんなの?」


 線香花火に火を付けながら、琥太郎が尋ねる。大きな声を出せばそれだけで吹き飛んでしまいそうなほど、小さな火花がぱちぱちと広がる。


「見せてあげられんのよ。私の記憶の中にしかないから」


 線香花火の火を見つめながら、大事なものを思い出しているかのような、優しい声で早雪が言う。


 凄いだの大きいだのと持ち上げたくせに、早雪はいつだって琥太郎に現実を叩き付ける。


「そっか」


 嫉妬と羨望に胸を焦がしても、早雪がそんな風に思える拠り所があることにホッとして、琥太郎は笑った。琥太郎の笑みを見た早雪は、大きなため息をついた。


「あーあ……情けないところ見せちゃった。心配させちゃったんだよね。ごめんね」


 肩を落とした拍子に、早雪の線香花火がポタリと地面に落ちる。琥太郎は笑って新しい線香花火を渡した。


「見せてよ。いいじゃん、弟なんだし」


 弟として特別可愛がられていることを喜びながらも、早雪が好きだからこそ、彼女から受ける弟扱いを不服に思ってもいた。


(けど、それでさゆちゃんの気が楽になるなら……いくらでも弟扱いすればいい)


 自分のくだらない意地よりも、早雪の笑顔のほうが大事だった。


 早雪に微笑みかけると、早雪は口をへの字に曲げつつ、線香花火を受け取った。とても不服そうな表情に、思わずくすりと笑みが漏れる。


 琥太郎の笑みに、早雪もたまらず笑みを返した。





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